第六章②
千影の家を出てすぐ、俺はスマホにむかって呼びかける。
「メイ! 頼む、返事してくれ!」
数秒の沈黙のあと、画面に見慣れた顔が写った。くせっ毛にダウナーな瞳をした少女、メイだ。
『なんです?』
何事もないように、いつもとおなじ、やる気があるのかないのか分からない声で言う。
「なんですじゃねぇだろ! おまえ、昨日から何度も呼んでんのに、どうしてなにも言ってくれなかったんだよ!」
『返事をしたくなかったからですよ』
「ど、どういうことだ?」
『なんでもかんでも、私に頼られては困ります。たまには、私抜きで障害を乗り越えてもらわないと。ま、結局千影さんにご迷惑をおかけしたようですがね』
そう言われると、なにも言いかえすことができない。
「じゃあ、なんでいまは返事してくれたんだよ?」
『いちおう、乗り越えることはできたようですからね。自分一人の力でではないようですが、オマケで合格点を差し上げます』
「どうも」
なんか偉そうだなこいつ。いつものことだけど。
『それで、これからどうするおつもりですか?』
「葵の家に行く。行って、葵に会って、もう一度誘ってみるよ」
しかし、とメイは眉をひそめた。
『客人が来るというのであれば、お屋敷には入れてはもらえないでしょう』
「たしかにな。だから、入れてはもらわない。侵入する」
そこで、メイは難色を示した。
『どうやってですか? 葵さんのお屋敷は、警備がとても厳重ですよ。まえにお邪魔したとき、見たじゃないですか』
たしかに、葵の家の警備はすごかった。
正門は電子ロックがかかっていたし、これは裏口もおなじと葵は言っていた。警備員もうじゃうじゃいたし、監視カメラもこれでもかとつけられていた。
一見、侵入するのは無理なように思える。
だが……。
「大丈夫だ、方法はある。そのためにも……」
俺は、スマホを目の高さまで持ってくると、メイと視線を合わせる。
「俺に、力を貸してくれ」
薄暗い部屋の中、高埜葵はベッドの中でうずくまっていた。
時刻は、もうじき七時になる。約束の時間は、もうとっくに過ぎた。
悠には、申し訳ないことをしてしまった。
今日のことは、本当に楽しみにしていた。それなのに……。
意識の端で、だれから部屋に入ってくる気配がした。その人物は足音を立てることもなくベッドに近寄ると、
「またふて寝ですか?」
と呆れたような声を出した。
「わたし寝てないよ」
そう言っておきながら、声はふてくされているように聞こえる。
「そうですか」
「羽透、なにか用?」
ぶっきらぼうに訊くと、羽透は感情を押し殺した、低い声で言う。
「もうじきお客様がいらっしゃいます。支度を済ませて、お出迎えするようにとの、ご当主様のご命令です」
「そう……」
冷めた声で言うと、ベッドから身を起こす。
羽透は葵が着ているラフな部屋着を脱がせ、慣れた手つきで着物を着つけていく。
「あまり仏頂面をなさらないでください。お相手にも失礼に当たります」
「分かってる。そのときになったら、愛想笑いくらいするから」
「でしたら結構です」
いつも事務的な口調の羽透だが、今回はいつにもましてそうだった。
それきり羽透は黙ってしまったので、葵は昨日から気になっていたことを訊いてみた。
「羽透、昨日、どこに行ってたの?」
今日のことを思うと、とても部活動をやる気にはならず、用事がるからとウソをついて屋敷に帰ってしまった。
すると、いつも正門で出迎えてくれるはずの、羽透の姿が見えなかった。代わりにべつの人が迎えに来てくれたけれど、部屋に戻っても羽透の姿は見えなかった。
結局、ほどなくして姿を見せたものの、こんなことは初めてだった。
羽透はいつも、それこそ葵が幼稚園に通っていたときから(あの時は羽透も小学生だったが)、いつも部屋で帰りを待ってくれていた。その彼女が、初めていなかったのだ。
彼女にも事情というものがあるだろうから訊かずにいたが、やはり気になってしまった。
羽透はすぐには答えなかった。やがて、なんでもないことのように答える。
「所用ですよ。ちょっとした」
「用って?」
すると羽透は、からかうみたいにクスリと笑った。
「なんだと思いますか?」
「そんなの……分かるわけないじゃん」
思わず不貞腐れたような口調になってしまった。
しかし、羽透はすこし笑っただけでなにも答えることはない。
答えるつもりはない、ということだろう。
まあいいか、と葵は諦めた。
やはり、羽透にも事情というものがあるだろう。彼女の秘密主義はいつものことだし、なにかプライベートな用事かもしれない。だとしたら、ムリに訊くわけにもいかない。
葵は内心ため息をついて、姿見に写っている自分を見た。
着付けは、もうほとんど完了していた。
来客を出迎えるさいに着る、振袖の着物。見慣れた姿だが、葵は自分のこの格好が好きではなかった。
高埜家は千年の歴史の持つ名家。着物の着付け方、髪の結い方なども決められており、それは季節ごとに区分されている。それは、高埜家が気の遠くなるような時間の中で積み上げてきた〝しきたり〟だ。
幼いころから、それを徹底的に教えこまれた。葵が五歳のとき、母が死んだ。それから、葵へのしきたり教育はより一層厳しくなった。
それを身にまとうたび、自分が自分ではないような、なくなっていくような、そんな奇妙な感覚が芽生えるのだ。
正直言って、寒気がする。どこにいても、なにをしていても、そのあとには、必ず〝高埜〟の名がついて回る。それがとても息苦しい。息が詰まりそうだ。
だから、葵は何度も屋敷を抜け出そうとした。一人で、時には羽透に協力してもらい。大抵は途中で見つかって連れ戻されたが、何度かに一回は成功した。そこまでしないと、解放感を味わえなかった。
でも、あの少年と一緒にいるときだけは、それを忘れることができた。
あの少年と過ごす時間は、たまらなく楽しかった。
今も、昔も。
たぶん、あの少年は覚えてはいないだろう。葵たちが初めて会ったのは中学三年生のときじゃない。それよりも、もっとまえ。葵たちが、五歳のときだ。
母が死んで、葵がふさぎ込んでいたとき。あの子に会ったのは、そんな最中のことだった。父が開いたパーティー。
その席で、彼に出会った。
いままでの人たちは、葵を『高埜家の娘』という色眼鏡で見てきたけれど、あの子は自分を一人の人間としてみて、接してくれた。
ただ、普通に、葵のことを見てくれた。それがうれしくて、心の中に会った変な塊を、粉々に砕いてくれたような、そんな気がした。
あの子と過ごした時間はとても短かったけど、それでもすごく楽しかった。
もっと一緒にいたい。そう思った。
だから、祭りに誘われたときは、本当にうれしかった。
それなのに……。
――それも、叶わないのかな。
いくら嫌だからといって、葵にはどうすることもできなかった。
家を出たところで、自分一人では生きていくことはできないし、またその術はない。
高埜の屋敷にいて、そこで〝しきたり〟を身にまとう以外に、生きていく術がない……。
――〝籠の鳥〟。
まさに、自分はその状態だと思った。でも、それでも、心の奥で望んでいた。たとえすこしの間でもいい。〝しきたり〟から解放される時を。
彼と一緒にいるときは、そう感じることができた。だから、あとすこしだけ……。
そのとき、葵の思考を断ち切るかのように、扉がノックされ、黒服の男が姿を見せる。彼は扉を開けてすぐ、横にはけると一礼した。音もなく、一人の男が入室する。
「ご当主様」
低い声で、呟くように言うと、羽透は腰を折る。高埜家当主、高埜有秀は端的に尋ねる。
「支度は?」
「滞りなく」
答えを聞いて、葵には一瞥をくれただけで言葉をかけることはない。それからすぐに背をむけると、ただ一言だけ、
「行くぞ」
葵はうつむき、はい、と空虚な声で答えた。
ちいさくため息をつき、一歩歩きだそうとした、まさにそのときだった。
バンッ! と大きな音を立てて、なにかが開くような音が聞こえた。
反射的に顔をむける。部屋の壁を大きく切り取った窓が、開け放たれていた。
窓枠に、だれかが乗っている。雲で月が隠れているため、顔を見ることができない。
しかし、なぜだろう。葵は、その人物がだれだか分かった。正確には、分かった気になっただけだ。それは、願望に近い。
その気持ちが、知らず知らずのうちに一人の少年の名を口にさせる。
「……悠、くん……?」
葵の言葉に呼応するように、雲の隙間から月が姿を現す。窓枠に乗った人物の姿も、見えるようになっていく……。
夜風が部屋に流れ込み、葵の頬をやさしくなでる。
その人物は、葵のよく知る人物だった。
高校のクラスメイトで、おなじ部活に入った少年……。
「葵」
月明かりに照らされた、鳳橋悠が静かに名前を呼んだ。
「どうして……」
ぽつりとつぶやく。その直後、有秀の護衛としてついてきた黒服たちが部屋に入ってきて、高埜家の二人を守るように位置についた。その奥で、低く重々しい声がかぶせられる。
「鳳橋悠君……だったね?」
「はい」
「ずいぶん奇妙なところから入ってきたものだが、用事はなにかな?」
「葵さんと約束があるもので、迎えに来ました」
「悪いが、今日は用があるんだ。彼女はそれに行くことはできない。本人から聞いていないのか?」
目が細められる。睨んだわけではない。ただ、すこし目を細めただけだ。だがそれでも、悠は身をすくめる。
しかし、それも一瞬だ。すぐに平静を装い、
「聞いてます。それでも僕は、葵さんと一緒にいたいんです」
その言葉にも、有秀はまったく動揺することはなかった。彼は、ほんの数ミリ片眉を上げただけだ。それにしたところで、その場の何者も気づくことはない反応だった。
その直後、黒服たちが目配せをする。もちろん、素人である悠はそれには気づかなかったが、なにか背筋に悪寒を感じた。
なにかは分からないが、なにかをしてくる。それを牽制するため、悠は大声で言う。
「葵!」
「はいっ!」
葵は反射的に大声で答えていた。
「もう一度訊かせてくれ! 俺は、葵と一緒に祭りに行きたい! 葵ともっと一緒にいたいんだ! だから、俺と一緒に来てくれ!」
勢いのままにまくし立てて、葵に手を伸ばす。
「わたしは……」
葵は口ごもった。決まっている。答えは一つだ。
だが……。
その手を取ったら、もう後戻りはできない。自分だけではなく、彼も。
それに、出て行ったところで、すぐに連れ戻されてしまうに決まってる。
「姫さま」
逡巡する葵に、羽透が言った。方向を極端に絞った低い声。おそらくいまの声は、葵以外には聞こえてはいないだろう。
葵は顔を上げて羽透を見る。彼女はなにも言わずに葵を見て、にこりと笑って見せた。
――そうだ。
自分が望んできたことじゃないか。悠は、覚悟を決めてここまで来てくれたのだ。
厳重に警備されているはずの屋敷を。いったいどうやって警備の目をかいくぐってきたのか、ここまで、来てくれた。
なら、自分も覚悟を決めなくちゃいけない。
葵は、一歩足を踏み出す。
「ならん」
有秀は、引かなかった。
しかし、葵の歩みは止まらない。黒服たちはどうするべきか、考えあぐねている様子だった。そのあいだに、葵は窓のすぐ近くまで移動し、悠の手を取った。
「ごめんなさい、お父さん。わたし、ちょっと出かけてきます」
「ならん、と言ったはずだ」
「それでも、行ってきます」
「ならん」
「行きます」
葵も、引くことはなかった。
「いいじゃないですか。お父さんのお客さんなんだし、わたしがいる必要もないでしょう」
「ダメだ。おまえは高埜家の長女なのだ。公の場では、私の隣にいてもらわねば……」
「そんなこと」
葵は父に言葉を遮るように言った。
「わたしになんて、なんの興味もないくせに、都合のいいときばっかり、ああしろこうしろ……いったい、なにがしたいの?」
「私はただ、父から受け継いだ高埜家を守りたいだけだ」
「いつもそれ」
葵はうんざりしたような声を出した。
「結局、家のことばっかりでわたしのことなんてどうでもいいんでしょ? お母さんのときもそうだった。お母さんが病気で苦しんでるのに、外せない用事があるとか言って出かけてばっかり! 結局最後までその調子だった! どうしてもっとお母さんのこと見てくれなかったの? 家名ってそんなに大切なの?」
「当然だ。高埜家には、千年間多くの先達たちが培ってきた因習がある。私の代で、それを落とすわけにはいかない」
「それって、お母さんより大切なものなの?」
有秀は黙った。
「わたしね、最初は〝しきたり〟を覚えるのも嫌いじゃなかったよ。でも、お母さんが死んで、それで嫌になっちゃったの。大切な人より、家を大切にしなきゃいけないなんて、わたしにはできない。だから、ごめんなさい」
葵は、そこでぺこりと頭を下げた。
「わたしは、お父さんが望む通りにはなれません」
顔を上げる。その顔には、さきほどまでのような不安げな色はまったくない。強い意志によって固められていた。
「行こっ、悠くん!」
「ああ!」
答えて、悠は葵を抱え上げると窓から飛び降りた。
黒服の間にどよめきが起こる。彼らは一目散に窓へむかうと、そこから身を乗りだして下を見た。すると、悠が葵の手を引き走っていく姿が見えた。どうやら、下に簡易的なマットレスを敷いていたらしい。
「捕まえろ。即刻連れ戻せ」
主に厳しい声で命じられ、黒服たちは部屋を出て行こうとするが、
「ご当主様」
平坦な声が彼らを制した。
「姫さまは、籠から飛び立つときが来たのではないでしょうか」
羽透はまっすぐに有秀を見据えている。
「なんだと?」
低い声とともに、有秀は羽透を見た。
「どうやら、立場を忘れているようだな。羽透家は、わが高埜家に仕える家系だぞ」
「お言葉ですが、私がお仕えしているのは葵さまです。あの方のために行動するのが私の仕事だと、信じております。
私は、あの方が生まれたときから、お傍で仕えてきました。高校に入学されてからのお嬢様は、本当に楽しそうに、学校での様子を話してくださいます。今日のお約束も、心待ちにしておられました」
有秀はなにも答えなかった。羽透の言葉はまだ終わっていない。それが分かっているから、彼女が話し終えるまで待とうとしているのだ。
「ですから、どうかお願いです。姫さまを……葵さまを、行かせてください」
深く頭を下げた。無言で見ていた征士郎だが、やがて口を開こうとする。
それを見計らったかのように、彼らの後ろ、部屋の入り口からある人物が姿を現した。
俺は葵を抱え上げ、一気に窓から飛び降りた。ボフッと、下に引いておいた簡易マットレスの上に落ちる。
それから、葵の手を引いて一目散に走りだす。
手を胸に当てると、まだ心臓がバクバクしているのをはっきりと感じた。
いっぱいいっぱいで気が回らかなったが、葵は大丈夫だろうか? 怪我をしていないか?
「葵、大丈夫か!?」
振り向いて尋ねる。
「うんっ。大丈夫!」
葵はそう答えて、にこりと笑った。よかった、どうやら本当に怪我はなさそうだ。
それから、俺は周りに視線をはしらせる。幸い、追手の姿は見えなかった。
逃走ルート……というとなんだか犯罪者みたいだが、とにかく逃げ道は決めてある。メイが屋敷の見取り図を手に入れてくれたので、予想される警備状況をもとにルートを作った。
防犯カメラには、メイがハッキングをかけて、なにも問題が起きていない、べつの日に撮られた映像が流れているから、カメラで追われる心配はない。
だが、当然屋敷の警備員が追ってくるだろうと思ったが、意外にもまだその姿も見えない。
俺はポケットに手を突っ込むと、指でスマホをコツコツと叩いた。作戦をすすめる合図だ。
そのすぐあと、屋敷に警報が鳴った。メイが屋敷のコンピュータにハッキングをかけて、裏口から侵入者ありと、誤報を鳴らしたのだ。
「こ、これ……」
「大丈夫だ! 心配ない!」
これで、警備の人たちは裏口に行くはずだ。この隙に、俺たちは正門から脱出する! 相手も、まさか正門から逃げるなんて考えないはずだ。
あらかじめ決めておいたルートを通って正門にむかう。思ったとおり、警備は裏口に回っていなかった。
扉を押し開け、俺たちは一気に外へ出た。扉を閉め、そこでちょっと一息つく。
「大丈夫か、葵?」
日ごろの運動不足がたたったのか、息が切れてしまった。荒い息を吐きながら訊くと、葵はまた笑って「うん」と答えてくれた。
「すごいや尊くん! なんか、魔法使いみたいだよっ」
「そ、そうか……?」
無邪気に言われて、照れくさくて後ろ頭をかく。
魔法というか、メイにいろいろと手伝ってもらっただけだからなぁ……。こういう考え方をすると、ちょっと落ちこんでしまうが。
「思ったとおり。正門から出てきたね」
いきなり声が聞こえてきたので、俺は弾かれたように声がしたほうを見た。
そこにいたのは……。
「あ、浅倉さん……」
先日、姉貴を尾行したさいに一緒にいた、色白の好青年らしい容貌をした浅倉さん。彼が、仕立てのよさそうなスーツに、柔和な笑みを浮かべて立っていた。
「どうしてここに……」
訳が分からず首を傾げるが、浅倉さんの隣に立っている人物を見た瞬間、思わず息を詰める。
そこには、葵の父、有秀さんが立っていたのだ。反射的に、葵を背に隠して一歩前に出る。
「裏口から逃げるってのは、簡単に予想できるからね。君ならその裏をかいてくると思ったよ」
そう言って、例の人のよさそうな、でも一筋縄ではいかなそうな顔でにこりと笑った。
「浅倉さん……?」
俺の後ろから、葵がぽつりと言った。
「葵? どうかしたのか?」
「あのね、学校でうちに来るって言ったお客さん、浅倉さんなの」
「え……」
予想外の言葉だった。まさか、浅倉さんが葵の家にくるお客だったなんて。
でも、そういえば、「何度か言えにお邪魔させてもらってる」とか「お父さんのお客さん」だとか言ってたな。すごくお世話になってる人、とも言ってたが……。
「浅倉さんの家とうちはね、昔からのお友達なんだって。それで浅倉さんは、うちに警備の人を紹介してくれたの」
「いやいや、僕は警察OBの会社を紹介しただけだよ」
浅倉さんは肩をすくめて言った。
なるほど。浅倉さんは警察庁の長官らしいし、警備畑一筋とも言っていた。いろいろとツテがあるのかもしれない。
「葵」
有秀さんが重々しい声を出した。
「説得しようとしてもムダだよ」
葵は俺の背から出てきて、強い声で言った。
「わたし、もう決めたから」
「分かっている」
そう言って、一度目を伏せた。
「私は……いままで、父から受け継いだ、この高埜家を繁栄させることを考えて生きてきた。そうすることが、私のしなくてはならないことだと、信じてきたからだ。
妻を失って、その気持ちはより一層強くなった。おまえを当主としてふさわしい人間にすることが、彼女への供養になると思った。だが、それがいけなかったのかもしれないな。それがおまえを、この家に縛りつけることになってしまった。羽透に言われたよ。〝籠から飛び立つ時が来た〟のだと……」
そこで一度言葉を区切って、
「葵、済まなかった」
頭を下げた。その姿からは、さっきまでの威圧的な雰囲気が、拭ったように消え去っている。
名家の当主ではなく、ただ一人の父親として、彼はそこに立っているように見えた。
「ちがう……」
ポツリと、つぶやくみたいに葵は言った。
ゆっくりと、父に歩みよっていく。
「違うよお父さん! わたしは謝ってほしいんじゃない! お父さんは、わたしを当主にすることしか考えてなかった! それが怖かったの。道具みたいに扱われてる気がして……わたしはもっと、わたし自身のことを見てほしいの! いいことしたら褒めてくれて、悪いことしたら叱ってくれたり……ただ、それだけでよかったんだよ。わたしのほうこそ、わがまま言ってごめんなさい」
葵はそっと、父親を抱きよせた。




