第五章②
朝食のメニューは、ベーコンエッグに食パン、サラダだった。
用意されたのは俺の分と、その対面に千影の二人分だ。
「あれ、千影もまだ食べてなかったのか?」
「まあね」
「さきに食べてればよかったのに」
「いいでしょべつに」
千影はぶっきらぼうに言って、オレンジジュースを飲む。
『鈍いですね悠さん。千影さんは悠さんと一緒に食べたかったんですよ』
「ぶっ!?」
女子高生が出してはいけない音が聞こえてきた。千影がオレンジジュースを吹きだしたらしい。
「ちよ、ちょっとメイ!?」
むせながら、俺のスマホの画面に映ったメイに非難がましい視線をむける。
『なんです?』
メイがさも驚いたように言った。
「なんですじゃない! 適当なこと言わないで!」
「なんだ千影。かわいいとこあるな。それならそうと、起こしてくれればよかったのに」
「あんたも調子乗んな!」
最初こそ恥ずかしそうな顔をしていた千影だが、すぐにいつもの調子に戻って俺を糾弾してきた。
「……それに、今日は休日だし、ずいぶんぐっすり眠ってたからね。起こすのもどうかと思って、ほっといてあげたのよ……」
そう言うと、ついとそっぽをむいた。
こういう仕草は、子供っぽくて結構かわいい。恥ずかしいから口には出さないけど。
それから、俺たちは食事を進める。不意に千影が口を開いた。
「悠。髪、伸びてきたわね」
「え? ああ、そうだな……」
最近切ってなかったからな。前髪をいじりながら、最後に切ったのはいつだったか考える。
そういえば、千影がこうしてご飯を作ったりしてくれるようになったのは、中学三年の夏休み、あのときからだっけ……。
中学三年の春。俺はクラスメイトの雨宮真里菜を、春祭りに誘った。
入学式の時からずっと気になっていた。でもクラスが違ったから、話す機会はほとんどなかった。
中学三年になって、クラスが一緒になった。それから、すこしでも仲良くなれるよう頑張ったと思う。おなじ委員会に入り、話す機会は増えた。
すこしは、仲良くなれたと思ってたんだ。
だから、春祭りに誘った。
でも……。
彼女は……雨宮は来なかった。
どうして来なかったのかは分からない。
訊かなかった……いや、訊けなかったから。
俺はそれから、学校へ行くことができなかった。
行けば、彼女に会ってしまう。それが嫌だった。
あれだけ、はやく会いたくて仕方がなかった雨宮に、会いたくなかった。
会えば、彼女が来なかった理由を、知ってしまうかもしれないから。
会って、どんな顔をすればいいのかも分からない。
だから俺は、自分の部屋に、引きこもってしまった……。
あの日からどのくらい経ったのか、正確には分からない。あのときは、曜日の感覚なんてなかった。
カーテンを閉め切り、布団をかぶっていたから、昼か夜かすら分からない。
「悠、いる?」
扉が控えめにノックされ、囁くようなちいさな声が聞こえた。
「なんか用か?」
余裕のなかった俺は、千影に対してそんな不愛想な言葉をかえしてしまっていた。
「ねぇ、いつまでそこにいる気なの?」
そうやって千影は、毎日のように家に通っては、俺に声をかけてくれていた。
「さあな……」
「茜さん、心配してたわよ、あんたのこと……金剛くんだって……ねぇあんた、みんなに心配かけてるの分かってるの?」
「……うるせぇな。ほっといてくれよ。千影ももう帰ってくれ。べつに、毎日来る必要もないだろ」
「そうやって、ふさぎこんでてどうすんの? ずっとそのまま引きこもる気? このままじゃいられないことなんて、自分でも分かるでしょ」
「だから、もう帰れよ。俺と話してても、面白くねぇだろ」
その言葉のあと、千影はなにも喋らなくなった。だから、帰ったかと思った。
そうじゃないことが分かったのは、ちいさく息を吐いたときだった。
ガァン! という、なんだかものすごい音が聞こえてきたかと思うと、そのすぐあと、今度はバァン! という音が聞こえてきたので、俺は心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
「な、なんだぁ!?」
我ながら情けない声を上げ、かぶっていた布団をはねのけて音のしたほうを見る。
見て、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
ドアが、壊れていた。
金具で止められていたはずのドアが外れ、吹っ飛ばされている。真ん中あたりはちょっとへこんでいた。
瞬きすら忘れている俺の視界に、一人の人間が入ってくる。
ドン! と英雄の凱旋みたいに威風堂々と俺の部屋に入ってきた侵入者……千影だ。
さっきの轟音は、千影がドアを蹴破った音らしい。
ガァン! はドアを蹴破った音で、バァン! はドアが壁に激突した音みたいだ。
「お、おまえ、なにやって……!?」
俺が言い終わるよりもはやく、千影は一直線にベッドまで来て、俺の胸ぐらをつかんできた。
「いい加減にしなさいよいつもでもいつまでもウジウジウジウジ! あんた人にどれだけ心配かけてるか分かってんの!?」
「な、なんだよいきなり……」
「なにもくそもあるか!」
「くそって……」
「うるさいっ!」
千影が一層声を張り上げた。
「私はあんたに協力したんだからね! 話を聞く権利があるわ! この間までキモいくらいウキウキしてると思ったら、今度はウジウジなにやってんの!? バッカみたい!」
そこまで一気にまくし立てたかと思うと、千影は一度深く息を吐いた。
「くさい……」
いやそうに顔をしかめていきなり言った。
「は?」
「だから臭いのよ」
「な、なにが……?」
ころころ変わる話についていけないでいると、千影は鼻をつまんで言う。
「部屋。あとあんた」
つかんでいた胸ぐらを離すと、千影はすたすたと歩いてカーテンを開け放った。
「っ!」
いきなり日差しが差しこんできたので、思わず目をつむって腕で目を隠す。ガラガラと窓を開けるような音がした。そのすぐあと、俺の頬を風が撫でる。
「まったく、喚起くらいしなさいよね。あー男くさい」
手をパタパタ動かしている。……匂いを外に出そうとしているのか? なんか、だんだんムカついてきたな。
「そ、そこまで言わなくてもいいだろ」
「だって、ホントに臭いんだもの。自分じゃ分からないだろうけど」
「べ、べつに臭くないだろ?」
「臭い」
また手をパタパタと動かす。
「くさいくさい。ホントくっさい」
「うるせぇな! そんなこと言うなら帰ればいいだろ!」
「そうはいかないわ。理由を聞くまで帰らない」
「……べつに、なんでもねぇよ」
すると千影は、「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「なんでもないのに引きこもってたの? お風呂にも入らないで?」
「……そうだよ」
つい逆切れ気味に答えてしまった。しばらく俺を見ていた千影だが、やがて呆れたようにため息をついた。
「髪、伸びたわね」
「え?」
また急に話が変わった。でも、たしかに最近髪を切ってないから、伸びたかもしれない。
「いいだろべつに。髪くらい伸びるだろ」
「下手に伸びてるからうっとうしいのよ。なんかワカメみたい」
「ほっとけ。そのうち切るよ」
そう言って髪をいじっていると、ふいに千影がちょっと笑った。そして言う。
「私が切ったあげるわ」
「は?」
「だから、私が切ったげるって言ってんの」
「いや、いいよ」
「なんでよ。切りに行くより、そのほうが安上がりでしょ」
「いいって。なんか変な髪形にされそうだし」
「どういう意味よ! いいから座りなさい」
「いててててててててっ!?」
千影が俺の肩をつかんできたんだが、その力がめっちゃ強い! このまま掴まれていたら骨にひびが入りそうだ。
し、仕方ない……。
「分かった分かった! 座るから離してくれ!」
そういうわけで、部屋を片付け、その真ん中に新聞紙を敷いて、勉強机から持ってきたイスを置く。
俺はといえば、レインコートを着せられてそこに座らされた。
「さ、じゃあ、切るわよ」
「お、おう……」
俺は身構える。緊張してちょっと固まってしまった。最悪、丸刈りにしなきゃならないかもしれない……。
なんて考えていたが、
チョキチョキ、チョキチョキチョキ。
なかなかどうして、千影のハサミ遣いは器用なものだった。慣れた手つきで、髪を切りそろえていく。
「あれ、結構うまいな」
「まあね」
千影はすこし得意げに言った。
「私、髪はいつも自分で切ってるから」
「そうだったのか」
それは知らなかったな。
「うちはお小遣い制だから、美容院代まで回す余裕ないのよ。だから、節約できるところは節約しないとね」
「ふーん……」
なんか、しっかりしてるな。
千影のお父さんは外務省に勤務していて、厳しい人だ。千影は昔から、〝外務官僚の娘〟として教育を受けてきた。
その影響か、中学二年になってすぐだったと思うが、千影は目に見えて反発するようになった。
例えば、髪を茶髪に染めたり、服装がちょっと派手になったり、そういったことだ。
それでも、千影は勉強に関しては父親が望む以上の結果を出していると思う。学校の定期テストでも、毎回上位三位以内に入ってるし。運動神経もあるから、体育の成績もいいし、体力テストの結果も悪くない。それはきっと、自分の我を通すための、予防線というか、言い訳みたいなものなんだろう。
自分のことだけでも大変だろうに、俺にいろいろと協力してくれたんだよな……。
「なぁ、千影……」
「はい、できた」
俺の言葉に重ねるように千影は言った。
「これでちょっとはマシになったわね」
バッグからなにかを取りだす。それは手鏡のようだった。それを俺に渡すと、「どーよ」と訊いてくる。
「なかなかいい……と思う」
正直、思っていたよりもずっとよかった。でも素直になれなかった。このときの千影はずいぶん大人に見えて、ちょっと悔しかった。
「でしょ? 私にかかればこんなもんよ」
得意げに胸を張っている。
髪を切ってもらっただけなのに、なんだかずいぶんスッキリした気分だ。
「な、なぁ、千影……その、さっきは……」
「悠、つぎはシャワーよ」
「え?」
つぎはシャワー……? いま髪を切ってくれて、つぎはシャワー……だと? まさか一緒に……。
「はやく頭と体洗ってきて。臭いから」
「アッハイ」
まあ、そうだよね。知ってた。
「なに? まさか、私が一緒に入ると思ったの? 期待しちゃった?」
クスクス笑いながら、からかうみたいに訊いてきた。
「そ、そんなわけねぇだろ!」
俺は思わず顔をそらす。
「悪いけど、私は後片付けがあるのよ。あんたの髪の毛のね」
分かったら行った行った、と手を振る千影。
大人しく従う素直な俺。いや、べつに期待なんてしてない。いやいや、マジで。
俺が浴室に入ると、自動で電気がついた。赤外線センサーがつけられているためだ。タイル張りの浴室。その壁に、透明な板が埋めこまれている。そこに手をかざすと、シャワーからお湯が出てくる。シャワーもいまはコンピューター制御。もっとも、これは、鳳橋グループが開発し、一般に普及させる前に、テストとして家に取り付けられたものだ。
あれ? とここで疑問ができた。それと同じで、掃除機なんかもコンピュータで制御されてるわけだから、人間のすることといえば、最初にボタンを押すくらいのものだ。それなのに片付け……? ほかに、なにかすることでもあったんだろうか?
そこまで考えて、軽く頭を振る。べつになんだっていいじゃないか。もともと俺は期待してたわけじゃないんだいや本当に。
とか考えながら、俺がシャワーを浴び始めたその直後だった。ガラッと扉が開いたので、反射的に顔をむける。
そこには、千影がいた。
ので、今度は反射的に顔をそむけた。
「な、なに普通に入ってきてんだよおまえ!」
慌てて腰にタオルを巻く。
「せっかくだから背中流してあげようと思って」
「なに言ってんだ! いいから出てけ!」
「ねぇ、いつまで顔そむけてんの? こっち見なさいよ」
「見れるか!」
ここで妙なことになれば、俺はここから生きて出られなくなる。
振り向くまい、と背を向ける。しかし、どうしたわけか、千影は笑ったようだった。
「悠、ホントに見ても大丈夫だから、こっち見て」
それでも見なかったベリージェントルな俺だが、
「臆病者」
と言われては黙っているわけにはいかない。
いいだろう。見ろと言ったのはそっちだ。どうなっても知らんからな!
意を決してと振りむく俺。
千影は相変わらずそこにいた。
いた、が……。
「ああ。着てたんだな……水着」
裸ではなかった。
さっきは一瞬だったし、湯気でよく見えなかったが、千影は白い水着を着ていた。
下にフリルのついた、ビキニの水着を。いつもはサイドテールにしている髪を、いまはポニーテールにしてまとめて。
「当然でしょ? あんた、やっぱ期待してたんじゃない」
「べ、べつに期待なんて……」
「じゃあ、どうしてこっち見なかったのよ」
「それは……」
と口ごもるが、いや、ここで黙るのはまずい!
「うるせぇな! からかいに来たならとっとと出てけ!」
必殺技、逆ギレを発動する。
「言ったでしょ? 背中流しに来てあげたのよ。ほら、はやく座って」
座ってと言っておきながら、千影は俺の肩をつかむと無理やりグイッと座らせた。
なんかものすごい力だった。ものすごすぎて、逆に痛みをまったく感じなかった。なんか怖いんだけど。
「じゃ、髪から洗うわよ」
「か、髪も洗うのか?」
「当たり前でしょ? 髪切ったんだから」
そりゃそうかもしれないが……。
「いいって。自分で洗うから……」
「ここまで来てそれ言う? いいからじっとしてなさい」
むにゅ、といきなり背中にやわらかな感触が当たった。
千影は俺の肩に手をおき、身を乗りだしてシャンプーを手に取っている。
……ということは……。
「お、おいっ!」
驚きのあまり、体をひねって振りむこうとする。
「え、ちょっ!?」
そのせいで、千影はバランスを崩してしまったらしい。
「千影!」
手を伸ばして千影の腕をつかみ、力任せに引き寄せる。さらに腰に手を回して体を支えた。
「だ、大丈夫か……?」
「あ……」
驚いたように俺を見ていた千影だが、やがて顔を背けると、
「ありがと」
聞こえるか聞こえないかくらいのちいさな声で、ポツリと言った。
心なしか、その顔は赤くなっているような気がする。……蒸気のせい、だよな……?
「い、いや。こっちこそ、悪い……っ!?」
変な体勢で固まっていたからか、いきなりバランスを崩してしまった。
「きゃっ!?」
普段からは想像もつかないほどのかわいらしい悲鳴が聞こえてきた。……俺の下から。
俺たちは二人して倒れてしまった。
俺が、千影を押し倒す格好で。
こうして見ると、その白い肢体は細く繊細だ。このしなやかな曲線の体から、どうやってあのバカ力が出されているのか、皆目見当もつかない。
体を流れる水滴が妙になまめかしい。慌てて視線を逸らすと、今度は千影と目が合った。
その顔は、もはや見間違いようがないほど、真っ赤になっていた。大きく目を見張り、口をパクパクと動かしているが、結局言葉になっていなかった。
「ち、千影! すまブッ!?」
謝っている途中で頬を平手打ちされた。あと二秒待ってほしかった。
「いつまで乗ってんのよバカ!」
「す、すまん……」
めっちゃ痛い……と思ったが、それほど痛くなかった。というより、あまり力が入っていなかった。ちょっと意外だ。いや、残念とかそういうんじゃなくて。
そんなわけで、テイク2。気を取り直して、俺たちは元の位置に戻る。今度は、千影は俺の隣から回りこんでシャンプーを取った。うちの浴室は結構広いから、さっきのような接触は起こらない。
……べつに残念がってなんかないぞ。
そうして頭を洗いはじめる。普段はバカ力なくせに、いまはやさし気というか、正直ちょっと気持ちいい。のだが、
「うっわ、全然泡立たない。あんた何日お風呂入ってなかったの?」
一気に現実に引き戻された。
「ほっとけ」
一度髪を洗い流してから、もう一度シャンプーをつけてくれる。すると、今度はすこし泡立ったみたいだ。それをもう一度繰りかえすと、ようやく満足したらしい。
「やっと泡立った。どんだけ汚かったの」
「うるせぇな。じゃ、もう帰れよ」
「いまさらなに言ってんの?」
からかうように笑ったかと思うと、それに合わせて手の力がすこしだけ強くなった。
「痒いところはございませんかー?」
「……ない」
「じゃ、歯がゆいところは?」
「ねーよ」
そんなとぼけた会話をしていたら、いつもの癖でつい言ってしまった。
「いや、ちょっと下のほうが……っていてててててててて!?」
言い終わるまえに、とてつもない力で頬を引っ張られてしまった。めっちゃ痛い。痛すぎて頬が取れるかと思った。さっきまでのやさしい手つきがウソのようだ。
「あんた、それセクハラよ」
「なんだよ。いいだろ、ちょっとくらい、減るもんじゃあるまいし……っぷ、おい! 急に流すなよ……いた、ちょ、タンマ……目にシャンプー入ってるって! ごめんごめん、マジごめん!」
予告なく、いきなり泡を洗い流してきやがった。なんてやつだ。
「ふん、これに懲りたら、私にセクハラは止めることね」
「おい、それよりタオルを……」
顔を拭かないと目を開けそうもない。目をつむったまま、やみくもに手を伸ばすと……
むにゅ。
と、またやわらかな感触に当たった。
なんだこれは。やわらかくて、ちょっと弾力もある。手に収まるか収まりきらないくらいの丸っこい……。
正体を確かめるため、触り続けていた俺の額に、なにか衝撃波のような、鋭い痛みが襲った。
「あべしっ!」
つぎの瞬間、俺はバランスを崩してしりもちをついてしまった。
「いきなりなにすんだよ! いってぇな!」
「それはこっちのセリフよ! 言ったそばからあんたなにやってんのよ変態!」
変態? なんて人聞きの悪い。こんなベリージェントルな俺を捕まえて……。
抗議の視線をむける俺。さっきまで目を開けられなかったわけだが、いまは痛みが上回っているために反射で開いてしまったらしい。
千影はさっきのように顔を真っ赤にして、両腕で胸を隠すようにしてプルプル震えている。
こいつのこういう反応は、新鮮でいいなぁ。いいもん見れた、アドレナリン万歳。
というか、胸を隠す格好にこの反応……まさか……。
「俺、いま千影の胸触ってたのか?」
「ふんっ!」
ズバン! というなんだかよく分からない謎の音とともに、俺の頬が思い切り叩かれた。
「あべひろしっ!?」
あまりの痛さに頬を押さえて、床の転がりたい衝動に駆られる。でもなんとかこらえた。
「はにすんだよ!」
「あんたがセクハラするからでしょうが!」
「さっきのはただの独り言だろ!」
「うっさいバカ!」
短い捨て台詞とともに、俺にタオルを投げつけてきた。
「まったく、なんてバカ力だよ……」
顔を拭きながらぽつりとつぶやく。ついでにタオルを見る。大丈夫だよね? 血とか出てないよね?
どうやら大丈夫みたいだ……いまのところは。
「おまえ、ゴリラにも勝てそうだよな」
「もう一発いっとく?」
と千影がこぶしを振り上げたので、
「すんませんした姉さん!」
ここは素直に謝っておく。あまり調子に乗ると、ここから生きて出られなくなりそうだからな。
「まったく、ホントいい度胸してるわねあんた」
ついと顔を背ける千影。その顔はまだ真っ赤に染まっていた。
「悪かったよ。そう言わないからさ。もう頭も洗い終わったしそろそろ……」
頬を押さえて立ち上がったときだった。はらり、と腰に巻いていたタオルが取れてしまった。
「あ」
「ちょ」
抑えようとするが時すでに遅し、タオルは床に落ちてしまい……。
「す、すまんっ!」
慌てて後ろを向くが、
「ちょっとぉ……見ちゃったじゃない……」
「見たって、なにを?」
「うるさい!」
後ろを見ると、千影の顔は今日で一番赤くなっていた。
「見てない……私はなにも見てない……」
呪文みたいにぶつぶつ言っている。ので、ついまた調子に乗ってしまった。
「なあ、見たってなにをだ?」
「うるさいって言ってんでしょうが!」
相変わらず顔を赤くしたままキレる千影。うむ、いい反応だ。これが見たくてつい余計なことを言ってしまう。
「ほら、さっさと座りなさいよ」
「なんでだ? もう頭は洗い終わっただろ」
「背中よ背中。言ったでしょ、臭いって」
「いちいち臭い臭いと言うなよ!」
なんて失礼なやつだろう。と考えていると、またまたまたものすごーい力で無理やり座らされた。正直ちょっと怖いゾ。
内心ビビる俺だが、千影は俺の背中を洗ってくれる。
「おい、いいって。自分で洗うから、もう出てけよ」
「いいからじっとしてなさい」
ものすごーい力で押さえつけられたらアレだし、ここはじっとしておこう。
そういえば、背中を流してくれるってことは、べつのところも洗ってくれるんだろうか。例えばその、まえとか……下のほうとか。
と訊こうかと思ったが、さすがにやめておく。これ以上調子に乗ったら、命がないかもしれない。
「ホント世話のかかるやつ」
とか言っておきながら、こうして構ってくれるんだよな。
俺が学校に行かなくなってからも、頻繁に来てくれてるし、いまだって……。
「なあ千影、なんでこんな面倒見てくれるんだ?」
「……べつに。ただの気まぐれよ」
ぶっきらぼうに言って背中をごしごしとこする。
「……ありがとな」
自然と、そんな言葉が出てきた。
夏休みまえから、千影には本当に世話になったっけ。いろいろと相談に乗ってもらって、助言をくれて……。
いまだって、多分、俺のことを心配してくれてるんだろうな。
「なあ、千影」
「今度はなによ」
「俺さ、雨宮のことが好きだったんだ」
千影の手が止まった。でもそれは一瞬のことで、またすぐに動き始める。
最初に見たときからずっと好きだった彼女。
中三になっておなじクラスになれて、すこしは仲良くなれたと思った。
だから、夏祭りに誘った。
雨宮はOKしてくれた。
だから、そこで告白しようと思ってたんだ。そのために、プレゼントも買って、浮かれていた俺は、一時間まえから待っていた。
でも……。
「雨宮はさ、結局来なかったよ。暗くなるまで待ったけど、来なかったんだ……」
言ってみれば、ただそれだけのことなんだ。
だが、俺は〝それだけのこと〟なんてふうに、割り切ることはできなかった。
それから俺は、話をした。
雨宮を始めて見てからのこと、中三になってからのこと、そして、あの日のこと。
いままで溜まっていた感情を吐き出すみたいに、一息に話した。
俺が話し終えるまで、千影はただ黙って話を聞いてくれていた。
「俺さ、自分では頑張ったって思ってたんだ。積極的に話したりして、金剛にも手伝ってもらって計画を立てて、おまえには、女子が喜びそうなプレゼントを訊いたりしてさ……。
でも、結局雨宮は来なかった。なんでだろうな……?
自分で頑張ったつもりになってただけで、なにもできてなかったのかな……それとも、なにか嫌われるようなことをしたのかな……。
千影……おれ、頑張れてなかったのかな……?」
最初はうまく喋れていたのに、だんだん口が回らなくなってきた。もっとキチンとしゃべりたいのにしゃべれない。
なんだか、喉の奥がひりひりと痛む。息をするのも苦しくて、まるで息の仕方も忘れたみたいになってしまう。
なんとか息を整えようとするが、なかなかうまくいかない。
そんななか、ぴとっと、やわらかな感触が当たった。
「お、おい!」
突然のことで驚いた。かすれた声で抗議しようとするが、それよりまえに、千影は手を俺のまえに回してきた。
「千影?」
「大丈夫よ」
千影の声は、普段とはまったく違う。まるで子供を落ち着かせるかのような、やさしくやわらかなものだった。
「あんたはよくやったわ。私はよく知ってる。全部、見てたから。あんたの頑張り……なにをやってきたかもね。だから、大丈夫よ。あんたは頑張った。悠は、悪くない」
――悪くない。
その言葉に、ハッとした気持ちになった。
心が軽くなって、救われたような気持になった。
急に目頭が熱くなる。気づけば、俺は涙を流していた。
いままでのことが、改めて思い起こされる。自分がやってきたことはもとより、千影や金剛に協力してもらったこと。それが頭の中を駆け巡った。
「千影……俺……」
「大丈夫よ」
千影はまた言って、俺の頭を撫でてくれた。
「いまここには、私しかいないから。だれも見てないから。だから、大丈夫」
その言葉で、俺の感情は完全に決壊してしまった。
いままで、どうすればいいのかすら分からなかった感情が、止めどなく溢れ出てきた。




