第五章①
その日の夕焼けは、いつもと違って見えた。
それだけじゃなくて、いつも歩いている道や、見慣れた空に景色……全部違って見えたんだ。
でも、それは全部気のせいで……。
あのとき、俺は待ち合わせをしていたんだ。
中学校の始業式で、初めて見たときから、ずっと好きだった子と。
一時間前から、待ち合わせ場所で、ずっと待ってた。
でも、あの子は結局、来なかった……。
どうして来てくれなかったのか、それは分からない。というより、知りたくなかった。
理由を知るのが、とても怖かったから。
だから俺は――。
急に景色が途切れた。かと思うと、見慣れた天井が目に入った。
額の上に腕を乗っけて、何度か瞬きをする。
どうやら、俺は夢を見ていたらしい。できれば思い出したくない、あの日の夢を……。
それから、なにをするでもなくぼーっとして、体を起こし、気分転換もかねて窓を開ける。流れ込むのは早朝の空気。時刻は朝七時過ぎ。随分はやい時間に起きてしまった。ま、たまにはいっか。
階段を下りていると、リビングから物音が聞こえてくる。姉貴が帰ってるのか? と思いつつドアを開けると、
「おはよ」
いたのは姉貴じゃなかった。テレビを見ていた千影が、驚いたような視線をむけてくる。
「めずらしいわね。自分で起きてくるなんて。雨でも降らなきゃいいけど」
「俺だってそういうときもある」
っていうか、なんで千影はここにいるんだ? 平日はほぼ毎日来てくれてるけど、休日はほとんど来ないのに。姉貴はまだ寝てるんだろうか……と訊いてみると、
「茜さんは仕事よ。なんか忙しいみたい。それでまた頼まれたの、あんたの面倒」
「面倒って……」
こいつら俺をなんだと思ってんだ。
「なんか文句あんの?」
千影がジトっとした目をむけてくる。
文句ね……あるにはあるけど、まあ仕方ない。〝面倒〟っていうのもあながち嘘じゃないしな。ほぼ毎日食事作ってもらっておいて、こういうときだけ文句言うのも申し訳ないし、ここはひとつ、俺が大人になってやろうじゃないか。
「文句なんてないよ。いつもありがとう」
「……あんた、またなにか失礼なこと考えてたでしょ」
俺の丁寧な謝儀に、千影が眉をひそめて失礼なことを言った。極めて心外である。
「そんなこと、考えるわけないだろ?」
しかし、千影はジト目をやめない。すこしの間俺を見ていたが、やがて疲れたようにため息をついた。
「ま、いいわ。起きたんなら、とっとと降りてきてね。あんたと違って、私は忙しいんだから」
忙しいねぇ。そういえば……。
「おまえ、なんで制服着てるんだ? 今日土曜だぞ」
「委員会があるのよ。風紀委員」
「じゃあ、今日は一日中学校か?」
「委員会は午前中だけよ。でも午後からはバイトがあるから」
「なんか充実してんな」
それに比べて俺は、今日することといったら、寝たり……あと寝たり……ある意味充実してるな。
「あんたもバイトすればいいじゃない。なんなら紹介してあげるけど?」
「いや、いいよ」
働くの面倒くさいし。
「あっそ」
千影が呆れたように言った。声に出さなかった後半の言葉だが、顔に出てたのかもな。
「いまご飯準備するから、あんたも手伝って」
と言って立ち上がる。千影の制服姿が目に入った。
「ってか、まえにも言ったと思うけどさ」
「なによ」
「風紀委員がそんなに制服着崩してていいのか? 怒られんだろ」
「べつに。校則で許されてる範囲でしか着崩してないもの」
そう言って、千影は第二ボタンまで開けたワイシャツをいじったり、スカートの裾をつまんだりした。
俺の視線は、その無防備な太ももに引き寄せられる。脚フェチってだけでとくに他意はない。たまたま、偶然である。
「ちょっと、なによ……」
千影がいやそうな顔で、スカートの裾をつかんだまま身をよじる。べつに俺はMってわけじゃないんだけど、こういう態度はちょっとそそる。
「いや、べつに」
一度視線をそらしたものの、結局、俺はすぐに視線を戻した。だって脚フェチだし、太ももというか、スカートの裾というか、それが千影が動くたびにひらひらっていうか、ちょっと危なっかしい動きをするもんだからさ。
「なあ、そんなに短くて見えたりしないのか?」
「大丈夫よ。案外見えないもんだから」
「ふーん。そんなもんかね」
半信半疑でつぶやくと、千影はまたジトっとした目で俺を見てきた。
「あのね、あんたはどうだが知らないけど、人のパンツ見ようなんて思いながら生活してる人なんて、そうそういないわよ」
まあ、そういう言いかたをするならそうだろうが……。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて。幼馴染からの、なんていうか、心配してるんだよ。
なにを思ったのか、千影はからかうみたいに「ふーん」と笑った。
「ね、そんなに気になるの?」
「なにがだよ」
「見たいの? 私のパンツ」
「なっ……なわけねーだろ!」
いきなりなに言いだすんだこいつは!?
「いいわよ、べつに」
「はっ?」
「見たいんなら、見せてあげる」
と言ったかと思うと、スカートの裾をつかんで、ゆっくりと、持ち上げ始めやがった!
「なにやってんだよ千影!」
俺は慌てて目をそらした。
「なにって、見たいんでしょ? だから見せてあげる。ほら、こっち見なさいよ」
いやその理屈はおかしい。
だってこれはつまり、いま千影はスカートをたくし上げているわけで、ということはつまり……アレなわけだ。
…………。
れれれ、冷静になれ。
落ち着け。まずは状況を整理しよう。
千影が急に痴女になった。
以上。
だめだ、全然分からん。だれか説明してくれよ。
「ねえ、悠。こっち見なさいよ」
「やなこった!」
なんと言われようとそっちはむかないからな!
必死に目をつむっていると、なんか千影に笑われた気がした。
「ね、ホントに大丈夫だから、こっち見て」
んなこと言われたって……とか思いつつ、俺の視線はどんどん千影に戻っていく。
く……っ。ばんなそかな! こんなことあり得ない! 俺たちは幼稚園からの付き合いなんだぞ! ちいさいときは一緒に風呂に入ったりもしたんだ! いまさら千影の下着姿を見たからなんだっていうんだ! 俺はこんな誘惑には断じて屈しないぞ! そうか、これはアレだ。千影はきっと、俺が見れないと思っているんだ! いいだろう、だったらお望みどおり見てやろうじゃないか! これはべつに下心があるわけじゃなくて、千影を調子に乗らせないため! それだけなんだからねっ!
く、くそっ! 目が、目が勝手にぃ~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!
かくして、俺の目に飛びこんできた光景とは……。
スカートをたくし上げた千影の姿。そして……ほう、黒なのか。なんて派手な、風紀守れ風紀……。あれ、でもこれって……。
「スパッツ……か?」
見えていたのは、黒い、地味な、丈の短いスパッツだった。
「やっと気づいたの?」
千影はいたずらっぽく笑った。
「なんだよ……」
ちょっと拍子抜けしてしまった。……いや、べつにがっかりなんてしていない。
でも、これはこれで、背徳感があるというか……うむ、悪くはない。
「ちょっと、だからってそんなジロジロ見ないでよ」
スカートから手を離すと、いやそうに身をよじった。うん、そういう仕草も悪くない。
「あ、すまん……ってか、なんでそんなの穿いてんだよ」
「あんたみたいな変態がいるからよ」
失敬な。俺は変態じゃないぞ。仮に変態だったとしても……いや、いいや。
「十分変態でしょ」
また心を読まれた。俺ってそんなに分かりやすいのか……。
「はやく着替えて来て。準備しといたげるから」
「はいはい、分かったよ」
ご要望どおり着替えようとするが、
「ここで脱ぐな変態!」
怒られた。




