2話
後ろから何かの気配がする。そう感じたのは女が風呂に入って間もなくだった。突き刺してくるような視線ではなく、舐めるような視線。不気味に感じる何かがそこにいる。まるで、目の前に盛られたご馳走を前に舌舐めずりする獣のような。女は霊感を持っていたり、第六感が常人より鋭かったりするわけではない。だから女にとって、この感覚は初めてだった。女はすぐにシャンプーをシャワーで流すと、湯船に逃げる。身を縮こませて気配が消えるのを待つ。ねっとりとした気配はどこから見ているかわからない。上か下か右か左か。得体の知れないものが過ぎるのをじっと待つ。
十分か二十分か、湯船が冷めるには充分すぎる時間が過ぎた頃になって気配はふっと消えた。身を抱きじっとしていた女は周囲を窺うように見渡す。そこは、浴室に来た時と何も変わらない様子が広がっている。さっきのはきっと気のせい。疲れていただけだ。女はそう思い込むことで心の安寧を保つと、湯船から上がり、身体を洗い始める。いつものルーチン通りに右手、右腕、左手、左腕、たまに鏡に目を向けるが、背後には何もいない。思い込みが確信に変わる。嫌な夢を見た程度の気分の落ち込みで、女は身体を洗い終えるとシャワーで身体を温める。
浴室が湯気で充満するほどに温め終えるとシャワーを止める。そして浴室の扉に手を掛ける。いや、掛けようとした。
ドンドンドンドンドンドン!
女は思わず小さく悲鳴を上げた。癇癪をおこした子供が力任せに叩いているように見えて、その音は成人男性が殴っているもの。女は口を押さえて冷め切った浴槽にダイブする。必死に気配を消し、それがいなくなるまでガタガタ震えるだけしかできない。
何時間たったことだろうか。音がふっと止んだ。いや、もしかしたらずっと前に止んでいたのかもしれない。女がそのことに気が付いたのが、ついさっきというだけなのだ。それでも女は外に出ようとしない。まだ待ち伏せしているかもしれない。唇が紫になり、指の感覚がなくなってきたころ、女は意を決して立ち上がった。女は浴室の扉を勢いよく上げる。
蛍光灯が消えた普段と何も変わらない脱衣所だった。そこにはなんの影も音もしない。女は深いため息と吐くと、脱衣所に出る。足元にあらかじめ置いておいたバスタオルを手に取ると、右手から拭き始める。ふと窓に目を向けると、外が白く輝き始めている。時間が時間だ、あれももう帰る時間になったんだろう、と女は心の底から安堵する。
左手を拭き終えたとき、右手が濡れていることに気付いた。女はなぜか上を見てしまった。天井に長さが1メートルはある顔が、満面の笑みで女を見つめている。その口は異様に開き、涎が女の体に垂れてくる。女はその場で声にならない悲鳴を上げ、気絶した。
目覚めると、12時を過ぎていた。女は脱衣所で倒れていたらしく、頬に赤い跡が残っている。もしかして湯冷めして気絶していたのだろうか? 淡い期待を持った女は、右手に残る爛れた火傷のような痣を見て、深い絶望に落とされた。