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台詞のない物語  作者: 海藻若芽
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1話

 ここは町の端にある喫茶店。町の中心部にある小洒落た喫茶店とは真逆に、昔からある古き良き店内を保っている。その店のこれまた端の席で、男はコーヒーを待っていた。

 男にとって、ここのコーヒーを飲むのが日課だった。古いが錆のないテーブルを指先でそっとなぞる。汚れ一つつかない行き届いた手入れに、男は一人満足した。マスターに注文はしていない。常連である男が飲む物は決まっていて、マスターもそれを承知しているからだ。マスターとっておきのブレンドコーヒー、それが男のお気に入り。

コーヒーミルの音が店内に流れる。男はこの音が好きだった。店内には他の音が一切ない。この音が店のBGMなのだ。男は酔いしれるように流れてくる音楽に聞きほれている。

男以外に客はいない。男が通い始めたころにはもっと店は繁盛していた。しかし、常連たちのほとんどが年配で、寄る年波には勝てなかったようだ。徐々に客足が減っていき、極めつけは町の中心部に新しくできた喫茶店。質のいい――もちろん、こちらの喫茶店の方がおいしいが――コーヒーや最新スイーツなどを提供し、店内では有名なジャズ音楽が流れる、流行に敏い若者たちに人気を博している。新規の客を見込めず、この喫茶店は徐々に忘れ去られている。いつか、この店はなくなってしまうのだろうか、と男は時折不安になる。いつの間にかコーヒーミルの音は止み、ドリップの工程に移っていた。いつの間にかサイフォンのフラスコのお湯は沸騰し、ぶくぶくとたった泡がロートのボールチェーンを伝っていく。男はまるで自分の不安を表しているように見えた。ロートの中にお湯が入っていき、浮き上がってきたコーヒーの粉をマスターが慣れた手つきで攪拌する。円を描くように竹べらを回し、粉がお湯に溶けていく。自分の不安も同じように溶けてなくなればいいのに、と男は心の中でため息をついた。

 男は目を逸らすように窓の向こうを見る。そこには町の外と中央部を繋ぐ一本道が伸びている。ここのコーヒーが飲めなくなったら、自分はどうするだろう。中央部の喫茶店で妥協するだろうか、それとも町の外に新しい味を探しに出るだろうか。どちらなら、自分は満足できるだろうか。

 悶々と悩んでいた男を現実に戻したのは、カップにコーヒーが注がれる音だった。次に匂いが波紋のように広がっていく。それが男の鼻をくすぐるまで一瞬だった。男は少し慌てた様子で振り返る。マスターがカップを持って、男の元までやってくる。そっとテーブルに置くと、カウンターに戻っていく。言葉はいらない、と戻っていく背中が語っていた。

 男はカップを手に取ると、口元に持っていく。香ってくる匂いは、いつもと変わらずいい匂いだ。そこに特別な言葉はいらない。男はコーヒーを一口含み、口の中で転がす。熱いコーヒーでやけどをしそうになるのを堪えながら、鼻に抜ける香りと舌の上で踊る味を堪能する。少し冷めたところで、男は一口目を飲み込んだ

 男は、ちらりとマスターに目をやる。自分よりずっと年上のマスターは誰も使っていないであろうカップを丁寧に磨いていた。

 男は、コップの一杯を一気に飲み干すと、代金をテーブルに置き、店を後にする。そこにマスターへの感謝や別れの挨拶などは一切ない。

 店から出ると、男は中心部に向かう道と町の外へ向かう道を一瞥した。

 そして、男はゆっくりと歩きだす。町の外へ向かう道へと。


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