私と彼女の話
扉を開け、重たい一歩を踏み出す。
一歩外に出た途端、予想以上に冷たい風が通り抜け、私は首を縮めた。いつの間にこんなに寒くなったんだろう。少し前まで、うだるような暑さに悩まされていたというのに。もう少し温かい服装にした方が良かったかな、と少し後悔する。日によって気温がコロコロ変わる季節の変わり目は、いつもこうやって服装に悩まされる。しかし、着替えに戻るほどの余裕はない。そもそも今着ている服だって、散々悩んだ末に決めたものなのだ。
他人の服装なんて、案外いちいち気にしたりしないもの。それこそ、好きな人でもない限り。
そんなこと分かってはいるけれど、それでも今日は少しでも見栄えの良い恰好がしたかった。下手に今から急いで着替えたりなんかしたら、変てこな格好になってしまいかねない。だったら、少しくらい肌寒い方がまだマシだった。
自転車に乗ろうとしたところで、鍵を持ってきていないことに気づく。慌てて階段を登り直し、閉めたばかりの扉を再び開けると、玄関の横に提げてある小さな鍵を手に取ろうとする。しかし、慌てているせいか、鍵は私の手をすり抜けて、玄関に並んでいた靴の中に落ちてしまった。
ああ、もう。この時間のない時に。
私は慌てて鍵が落ちたあたりにあった靴をひっくり返す。スニーカーとブーツを三つほどひっくり返したところで、ようやく鍵を見つけた。
腕時計を見ると、最初に家を出てからもう十分近く経ってしまっていた。玄関はひっくり返った靴が散乱しているひどい有様だが、そんなものに構っている暇はない。
私は急いで家を飛び出し、自転車に飛び乗って重たいペダルを思いっきり踏み込む。自転車を全力で漕げば、時間には間に合うはずだ。あの長い坂を全力で駆け上がるのは相当疲れるが、背に腹は変えられない。何より時間に遅れてしまうこと、それだけは避けたかった。
息を切らせながら目的地にたどり着いた私は、その中に人の気配がないことを確認し、ほっと息をついた。予定の時間は少し過ぎているが、どうやら間に合ったようだ。
軽音部という札の書かれた扉を開くと、石造りの建物特有のほこりっぽい臭いと、ひんやりとした空気が私を出迎える。額に汗の浮かんでいる今としては、この冷え切った空気が心地良かった。部室の左手にはギターとベースのケースがずらりと並んでおり、奥にはドラムセットが鎮座している。それら軽音を代表する楽器たちの前をすり抜け、私はドラムセットの奥に立てかけてある黒い無骨なケースに手をかけた。
人が入っていてもおかしくないくらいの大きさの、棺桶のようなハードケースが二つ、並んでいる。そのうちの一つを、倒れないように支えながらゆっくりと傾け、床に寝かせる。ケースだけで数キロはあるだろうそれは、横に倒すだけで一苦労だった。
蓋を開くと、姿を表したのは白黒の鍵盤。バンドでよく使われるプラスチックのキーボードとは違い、電子ピアノと同じような木製のものだ。それだけに、普通のキーボードよりずっと重い。華奢な女の子では、一人で持ち上げるのも難しいだろう。私はそれを気合と共に持ち上げ、専用の四つ足スタンドに運ぶ。
比較的小柄だとか華奢だとか言われることが多い私だが、実は腕力には結構自信がある。特にスポーツや筋トレをしていた覚えはないが、吹奏楽部だった中高生時代に散々重たい楽器を運ばされていたせいかもしれない、と勝手に思っている。
苦労してスタンドまで運んだキーボードだが、これだけではまだ準備は整っていない。ギターやベースと同じように、アンプにつながないと音が出ないのだ。毎度準備に手間がかかるな、とは思うものの、私はこの準備がそんなに嫌いではなかった。
棺桶ケースの中から、アンプに繋ぐためのシールドと呼ばれるコードを取り出して繋いでいると、外からコツコツと焦ったようなヒールの音が聞こえてきた。この石造りの建物では、遠くからの足音もかなり響く。私は思わずアンプの後ろに立てかけてある鏡を見て、乱れた髪を整える。さっきまで額に浮かんでいた汗も、この数分の間に大分おさまっており、今では少し肌寒いくらいだった。やっぱり服装間違えたかな、と思っていたところで、
「はあっ、はあ。遅れちゃってごめんねーっ。」
と、息を切らせた彼女が入ってきた。あの坂を走って登ってきたのだろう。息が切れるのも当然だ。少し前まで同じように息を切らしていた私は、アンプの電源をつけながら澄ました顔で答える。
「まあ、いつものことでしょ。」
「うう、ほんと、ごめんね?」
本気で申し訳なさそうに頭を垂れる彼女。
「ん、怒ってないよ。それより」
そこで一旦言葉を区切ると、私は彼女を見て、微笑んだ。
「おはよ、ナナ。寒いね。」
「おはよー、ハル。寒いねー。私、ちょっと服装間違えちゃった。」
「ナナもか。実は、私も。」
顔を合わせて、二人して笑いあう。
今日のナナの服装は、すっきりとした黒いスキニーに、緩いラインのTシャツの上に、白くてふわふわしたニットカーディガンを羽織っている。彼女本人のふわふわとした雰囲気に反して、服装はスカートよりもパンツスタイルの方が多い。でも、そんなところがちょっとだけ大人っぽくて、すごく似合っていると思う。口には出さないけれど。
彼女が鞄を近くのテーブルに置いている間に、私はもう一つの棺桶から鍵盤を取り出し、彼女の前のスタンドに設置してあげた。
「わ、ありがとね、ハル。」
はにかみながら彼女が言う。このくらいなら、お安い御用だ。こういう時だけは、自分の体力に感謝する。どういたしまして、と答えようとして、彼女が鞄から取り出そうとしてるものにぎょっとした。
「うわ、なにそれ。」
可愛らしい彼女の鞄から出てきたのは、やけに長く継ぎ合わされた紙束だった。ナナがきょとんとした顔でこちらを見る。
「これね、新しい曲の譜面。この曲、繰り返しが全然ないんだもん。全部きっちり譜面に起こしてたら、こんなことになっちゃったの。」
「・・・なるほど。」
言われてみれば、今日合わせる新曲は展開が結構複雑だった気がする。ピアノの譜面は、曲中に楽譜をめくらなくてもいいように、横に並べてつなぎ合わせることが多い。
「それにしても・・・長いね。譜面台、一個で足りる?」
長い譜面を広げようとして苦戦している彼女に私は問いかける。
「あ、二個欲しいかも。」
「だよね。じゃあ私の、あげる。」
私の前に置いてあった譜面台をナナの前に移動する。ナナはありがと、と言うと、二つの譜面台の上に屏風のような長い譜面を置いた。
代わりに私の鍵盤の前から譜面台はなくなったが、別に問題はない。私は楽譜を見ながら弾けないのだ。だから、いつも曲を頭に叩き込んでから練習に臨む。ナナは、楽譜を覚えられるなんてすごいと言ってくれるけど、正直私は、ナナのように楽譜を見てさらっと弾ける人の方がずっと羨ましかった。
それだけじゃない。口には出さないけれど、彼女は私にはないものをたくさん持っている。まっすぐな素直さとか、人を惹きつける笑顔とか。字の綺麗さとか、絵の可愛さとか。それが羨ましいやら、誇らしいやら。その辺のごちゃごちゃした感情を、全部まとめて私は「ずるい」と呼んでいる。
「それじゃあ、やりますかー?」
「ん、やりますか。」
彼女の準備が整ったようだ。私も鍵盤に指を添える。それを確認した彼女が、鍵盤をゆっくりと弾き始めた。
高音を基調とした、ゆったりとした旋律。左手はアルペジオで、右手は単音。シンプルな構成から曲は始まる。メロディの盛り上がりと共に、徐々にベースラインが低音に下がっていき、メロディラインにも和音が重なり始める。少しずつ音の重厚感が増していくが、ここからが本番だ。リタルダンドがかかり、テンポがゆっくりになったところで、彼女の目がこちらを向いた。
それまで彼女の演奏に聞き入っていた私は、そこで初めて指に力を入れる。彼女と私の目が合い、心の中で「せーの」という声が聞こえた。それに合わせて、彼女が作った音の流れに、私の音が重なる。
そこで響いたのは、突然の不協和音。
「あ、ごめん。思いっきり音間違えた。」
その素っ頓狂な音に、思わず二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「もー。せっかくソロ上手に弾けたのにー。」
口を尖らせて言う彼女に、私は適当に取り繕う。
「あー、ほら。もっかいやればいっぱい弾けるし、練習になるじゃん。」
「最後のフレーズだけ弾くから、次はちゃんと入ってねー。」
私の言い分を無視し、彼女がリタルダンドがかかる前のフレーズから弾き直す。さすがに二回も間違えたら本気で怒られるよな、と出だしの和音を頭の中で確認して、再び彼女と目を合わせる。その目が若干笑っていて、「今度こそ間違えないでよね?」と言っているように見えた。「任せなさい」と同じように目で返して、私は思いっきり鍵盤を叩く。
今度こそ、完璧な和音が響いた。
一人では到底出せない重厚な音色。和音から始まり、互いのアルペジオを掛け合いながら、二人の間のテンポが合っていく。そのままメインの旋律へと雪崩れ込み、オクターブをずらしたユニゾンで二つの音はぴったりと重なる。私の低音と、彼女の高音が混ざり合う。
譜面だけじゃない、私たちの弾き方は、全くの間逆だ。アタックが強くてはっきりとした私の音と、丸くて穏やかな彼女の音。例えば部室で私かナナが弾いていたら、中に入らずともどちらが弾いてるか分かるくらい、私たちの奏でる音は違う。そんなちぐはぐな連弾のはずなのに、どうしてこんなにも気持ちが良いんだろうか。つい口元が緩んでしまう。
思わずナナの方を見ると、ちょうどナナもこちらを見上げたところで、目が合ってしまった。多分、考えてることは同じだ。ナナの緩んだ口元がそれを物語っている。曲が後半に近づくにつれて、だんだん聞こえてくるのが私の音なのか、彼女の音なのか、分からなくなる。
まるで二人が一体になったみたいな感覚。これが、たまらなくクセになっていた。
「文化祭まで、あと何日だっけ。」
一時間と少しの練習を終えて、部室前のベンチに腰掛けたナナがつぶやく。お互い練習で疲れ切っていて、一旦ここで休んでから帰るのが、いつもの流れだった。
「んー、あと二週間、かな?」
私は指折り数えて答えてから、
「・・・まじか。もう二週間か。」
自分で言って驚いた。もう本番までそんなに時間がないのか。
「あっという間だったね、ここまで」
そうだね、と答えかけて、ふと疑問に思いナナに尋ねる。
「それは、連弾の練習を始めてから?それとも、軽音に入ってから?」
「んー、どっちも。」
会話がそこで途切れる。
部室からは力強いドラムの音と、歪んだギターの音が響いていた。次の練習は、確か三年生の後輩たちのバンドが入っていたはずだ。
「上手くなったよねー、ユウちゃんとか、アキくんとか。」
「ほんとに。入部したての頃はあんなに覚束なかったのにね。」
「子供たちの成長は、あっという間ですなあ。」
ほーっと息を吐きながら言うナナに、思わず笑ってしまう。
「ナナ、おばあちゃんみたい。」
「いやー、おばあちゃんっぽさならハルだって負けてないよ?」
「どういう意味よ、それ。」
そう言って笑いあってから、お互いにふっと遠くを見る。
「私たちも、最初はひどいもんだったよね。」
「ねー。思ったとおりの音が全然出せなくて、ハルに泣きついたことあったなあ。」
「泣きつかれた私も全然わかんなくて、逆切れしたりして。」
もう、遠い昔のことのように思える。私たち四年生は、文化祭を最後に引退だ。
「もう四年、経ったんだな・・・。」
「ねー・・・。早いね。」
「私、今でも忘れてないから。部活に入ったばかりの時、いきなりナナがメタルバンドのCD貸してきたこと」
「もー、またその話?もう時効にしてよー。」
「ほんと、もうびっくりしたんだから。こんな大人しそうで、クラッシックしか聞きません、みたいな見た目してるのにさ。」
「うう、もう。でも、今はハルもメタル大好きじゃん。」
「おかげさまで、すっかり染められましたわー。」
「ふふ、染めてやりましたわー。ライブも行ったもんね。」
「あー行ったね!駅のコインロッカーに上着入れていったら予想以上に寒くてさ。」
「そうそう、しかも思った以上にライブハウスが駅から遠くてねー。」
「でも盛り上がりすぎてさ、帰りは全然寒く感じなかったんだよね。」
「帰りの電車、二人で爆睡したもんね。懐かしいなー。」
そんな思い出話をしている私たちの間を、風が吹き抜けていった。寒さに体を縮めたナナが言う。
「じゃ、そろそろ帰ろっか。」
うん、と返事をしながら、私はまだ若干過去に思いを馳せていた。
私にとって、彼女がかけがえのない存在になったのはいつだっただろう。
ナナと二人で並んで、坂をゆっくりと下る。二人でも、一人でも、もっと大勢でも。今まで何度も登って、下った坂。ナナはあまり歩くのが速い方ではない。隣を歩くと、いつも私が自然とペースを合わせる形になっていた。この坂をこうやって二人で歩けるのは、あと何回だろうか。最近、そんなことを考えるようになった。その度に、この時間がずっと続けば良いのに、と思ってしまう。もっとゆっくり、ゆっくり。
「あれ、どうしたの、ハル。」
珍しくちょっと遅れて歩いている私を、ナナが不思議そうに呼び止める。
「んー。もうすっかり、秋だなって思って。」
すっかり黄色くなった木々を見上げながら、私は答えた。
「だねー。でもちょっぴり肌寒いこの空気、結構好きかも。」
「あ、私も。」
ふふ、と楽しそうに笑いながらナナが続ける。
「秋ってさー。」
「うん?」
「いつの間にか涼しくなったかと思えば、気がつくと過ぎ去っちゃっていて。」
「うん。」
「いっつも、秋服を出したりしまったりするタイミングが、分からなくなっちゃうんだよねー。」
「あ、分かるかも。」
ナナにつられて笑いながら、私も返す。
「でも、そんなちょっとしか着れないからこそ、いっそう愛おしくなったり。」
「あ、そうそう!やっぱ分かってるね、ハルは。」
ナナとの会話は、いつも取り留めがないけれど、ちょっとした幸せにあふれている。改めて、ああ、こういうとこだな、と思う。私が彼女を大好きなのは。
この坂の下についてしまったら、私たちの向かう方向は逆だ。実家暮らしの彼女は、駅のある右に。私は、一人暮らしの家がある左に。この幸せな時間は、そこまで。あと、何回あるかも分からない、この時間。この会話。
私の心に一つの染みが、ぽつり、と垂れる。
「・・・ねえ、ナナ。」
「んー?」
「この後さ、ご飯、行かない?」
何てことないように、私は切り出した。でも、心臓は早鐘みたいに高鳴っている。断られたらどうしよう。誘われて嫌じゃないかな。忙しくないかな。この前も、練習終わりにご飯に誘ってしまった気がする。あんまり誘いすぎるのは、彼女にとっても負担だろうか。
返事が来るまでの、おそらく数秒間。その間に私の心臓は、一体何回脈打っただろうか。普段の何気ない会話なら、なんてことなく話せるのに。こうやって自分から誘うのは、いつもバカみたいに緊張してしまう。
「うん!いいよー、行こ行こ。」
さらっと返されたその言葉に、私は飛び上がりそうなほど嬉しくなる。その気持ちは心の奥底に大切にしまいこみ、何てことなさそうな笑顔を作って私は答える。
「嬉しい。じゃあ、どこ行こっか。」
多分、彼女は気づいていない。私がこんなに、彼女の所作で一喜一憂していることに。いつも間にか、私は自分の感情を隠すのがとても上手になってしまった。
だって私は、彼女と同じだけの好きでいたいから。お互いの好きが同じくらいだから、心地よい関係でいられる。どちらかの好きが大きくなりすぎたら、きっと天秤は壊れてしまう。
「うーん。どうしよっか。」
ナナが考え始めたところで、こういうのは誘った側が提案するべきなのでは、と我に返り、私は慌てて頭の中のお店を検索する。二人でよく行く喫茶店は、確か今日は定休日だったはず。お財布に優しいパスタ屋さんも、お気に入りのお蕎麦屋さんも、彼女の向かう駅とは逆方向だし。ラーメン屋さんっていうのも、ゆっくり話したい今の気分にそぐわないんだよな。
そこで、私の頭に妙案が浮かんだ。うっすらと口元に笑みを浮かべながら、私はナナに提案する。
「じゃあ、駅前に新しくできた、カフェに行ってみようよ。あそこ、チーズケーキが美味しいんだって。」
「あ、そのカフェこの前行ったの!ハルも好きそうな、良い感じだったよ!」
その言葉に、私の笑みは硬直した。
そうか、そりゃそうだよな。だって、あのお店がオープンしたのは、もう一ヶ月くらい前だ。オープン直後には、結構話題になっていたカフェ。カフェ巡りが好きなナナを、彼が誘ってないはずがない。
「あー・・・っと。コウ先輩と?」
「あ、えっと・・・そう。」
ちょっと照れたように彼女が答えた。少しはにかんだ幸せそうな顔が、私にはどうにも眩しくて、直視できなかった。
「そっか、流石。お目が高いね。」
動揺を悟られないように、私は必死で言葉を紡ぐ。
「あ、チーズケーキ、美味しかった?」
「ううん。メニューに美味しそうなオムライスがあってね、それが思ったより大きくて。おなか一杯になっちゃって、食べれなかったの。」
「あらら、そっか。じゃあ、今度リベンジだね。」
ついそう答えてしまってから、しまったと気づく。この流れは良くない。
「あ、それなら今日・・・」
「あーっ、じゃあさ、今日はあそこにしようよ!」
私は咄嗟に、ナナの言葉を遮ってしまっていた。自分から言い出しておきながら、今の私はそこに行きたくない気持ちのほうが、ずっと強かった。
きっとナナは、前来た時のことを楽しそうに話すだろう。そして私も、それに何てことない顔をして相槌を打つだろう。
想像しただけで、胸がきゅっと痛くなった。そんなことを考えてしまう自分のみっともなさにも、嫌気が差した。
「えと、あそこって?」
急に大きな声を出した私に、困惑したようにナナが言う。
「・・・えっと」
私は言いよどんでしまう。あそこって、どこだ。私が聞きたいくらいだ。様子のおかしな私に、彼女が困惑の表情を浮かべているのを見て、私は慌てて口を開く。
結局、口から出てきたのは、ありきたりなファミレスの名前だった。
「あー、そういえば最近行ってなかったね。久々に行きたいなあ」というナナの一言によって、私たちは駅前にあるファミレスに向かうことにした。
「ごめんごめん、お店の名前、ど忘れしちゃって。」
「もー、やっぱりハルのがずっとおばあちゃんじゃん。」
「いや、だからおばあちゃんじゃないし。」
言葉を交わしながら、私の頭の中は後悔でいっぱいだった。
正直、私にだってナナと新しいカフェに行ってみたかった。彼女と新しいお店に行くのはいつだって楽しい。新しい思い出が増えるから。それを棒に振ったのは、他ならない自分自身だ。
ああ、馬鹿なことをしているなあ。ともう一人の私が冷めた目で見つめている。余計な気持ちを持たなければ、もっと幸せに過ごせるのに。楽しく過ごせるのに。折角の時間を自分で台無しにしちゃって。馬鹿だなあ。
「あれ、そういえばハル、今日は自転車で来なかったんだ?」
「・・・あ、うん、そう。」
上の空になっていたところに問いかけられ、私の口からは咄嗟に嘘が飛び出る。自転車は、大学の駐輪場においてきた。
大学から駅までの道は歩道が狭く、自転車を引きながらだとどうしても隣に並んで歩きにくくなる。それに駅までの道のりも坂になっているので、自転車を引きながら歩くのは結構しんどい。でも、なんとなくそれを彼女に悟らせたくはなかった。
「自転車でこの急な坂を登るのも、この年になるとなかなか大変でねえ。」
口からすらすらと出てくる嘘に、心の奥で辟易とする。いつの間に、私はこんなに嘘をつくのが上手くなったんだろう。
「いつまで続けるの、このご老人トーク」
ナナがくすくす笑いながら答えてくれる。その笑顔に罪悪感を感じながらも、私は笑顔を返した。ナナといるときは、できるだけ笑っていたい。
すると、ナナが何かに気づいたように、私の後ろを指差した。
「あっ、ハル。あれ。」
ナナが言うのと同時に、おーい、という声。彼女が指差した向かいの道路から、手を振っている人の影が見えた。私は視力が悪いので、いまいち誰だか分からない。首を傾げながら曖昧に見ていると、ナナがその人物のもとに駆け寄っていく。
「お久しぶりです、カナ先輩!」
「偶然だね~。二人は練習帰り?」
私たち二人ともよくお世話になった、ドラムのカナ先輩だった。現役の時にはドラムパートのリーダーをしていて、楽器はとても上手だし、後輩の面倒見も良い。その上教え上手で、二人とも尊敬している先輩だった。去年の文化祭の時には、先輩が演奏する最後のライブを見ながら二人で大号泣してしまった。卒業後も大学の近くで就職していて、今でも時々部活には顔を出してくれる。夏休みのライブ以来だから、こうして話すのはちょうど三ヶ月ぶりくらいか。
「お久しぶりです、先輩。そうですよ、二人で連弾やるんです。文化祭で。」
「おっ連弾なんてやるんだ!そりゃまた珍しいねえ。」
確かに、軽音でピアノ連弾なんてなかなかやるものでもないだろう。最近は随分ツーピースバンドなんかも増えてきたが、大体はギターとドラムとか、ベースとドラムとかの編成だ。
「ふふ、変わってますよね。最後に二人でなにかやりたいねー、ってハルと話してて。」
「そっか、同じパートだとなかなか一緒にバンドできないからねえ。」
「とはいえ、やるのはクラシックじゃなくて邦楽のピアノアレンジですよ。ナナと二人で好きなやつ選んで。」
「おっ、ってことは二人が好きなあの曲とかもやるかな?俄然楽しみになってきたー!」
「えっ!先輩、文化祭来れるんですか?」
「もちろん行くよー!しっかりお休みとったからねー!」
やったあ、と私たちはハイタッチする。先輩が見に来てくれるなら、一層頑張らないと。
「二人は相変わらず、双子みたいに仲良しだねえ。」
「えへへ、私たち、キーボードパートの双子なので。」
そう言ったのはナナ。
後輩先輩問わず、私たちは二人まとめて双子と呼ばれることが多かった。同期のキーボードパートが二人しかいないからだとか、いつもライブに一緒に来るからとか、背丈が同じくらいだからだとか、誕生日が近いからだとか、由来は結構色々ある。あまり自分から吹聴して回ったりはしないけれど、私はこの呼ばれ方がこっそり気に入っていた。
「つまり、七海ちゃんとハルちゃんの双子連弾か!これは息ぴったり間違いないねえ。」
七海ちゃんというのは、ナナのことだ。彼女のことをナナと呼ぶのは、私くらいしかいない。それに対して、私は部活のみんなからハルとか、ハルちゃんとか呼ばれていた。入部直後、お互いに呼びやすいように短いあだ名を付け合っただけなのだが、なぜか私のあだ名だけが他の人にも浸透してしまったのだ。若干解せない気もするが、単に四文字もある私の名前が長くて呼びにくいだけかもしれない。
「それに、二人ともピアノすごく上手だしね。うん、楽しみだ!」
カナ先輩の言葉に、私は少し気恥ずかしさを感じつつ、正直に答える。
「私より、ナナの方がずっと上手いですよ。」
「また、そんなこと言って。ハルのが絶対上手いもん。」
私は本気でそう思っているのだが、ナナが同じように返してくるせいで、いつもどこか茶番っぽくなってしまう。客観的に見れば確実にナナの方が技術が高いと思うのだが、彼女は頑としてそれを認めない。私がナナの演奏を羨ましいと思うように、ナナも私の演奏に何かしら思うところがあるのだろう。隣の芝はなんとやら、というやつだ。
相変わらず始まった私たちの押し問答に、先輩がやれやれ、と苦笑した。
「はーいはい。どっちも上手だから、喧嘩しないの、ね?」
はーい、と二人で声をそろえて返事をする。あまりにもいつもどおりのやり取りに、三人でぷっと吹き出した。三ヶ月ぶりとは思えない、この感じ。
「あー、喧嘩といえば、さ。七海ちゃん。」
笑いすぎて涙の滲む目尻を擦りながら、カナ先輩がナナに話を振る。
「またコウキと喧嘩したらしいじゃん。」
「えっ」
その言葉に、ナナが分かりやすく動揺を示した。その横で、表情を変えずに私も動揺する。
「なんでカナ先輩が知ってるんですか!」
「この前、仕事終わりに同期で飲んでねー。その時にボヤいてたよ。」
先輩たち同期は近場で就職した人が多くて、卒業してからもよく飲みに行っていると、別の先輩からも聞いていた。
「うう。またすぐ、そういうことを人に言うんだから。」
はあ、とナナがため息をつく。
「だって、今回のは彼が悪いんですよ。」
ナナが事の経緯を先輩に話し始めた。
「あー、それはひどい。私が聞いた話とちょっと違うなあ。」
「もう、そうやってすぐ、自分に都合よく話すんだから。」
私は一歩引いて、二人の会話を静観する。
コウキこと、コウ先輩のことは、私も大好きだ。あっけらかんとしていて、まっすぐで、裏表がなくて。楽器もとても上手だし、オススメのバンドもたくさん教えてもらった。飲みに連れ出してくれたり、一緒にバンドを組んだり、現役時代にもすごくお世話になった。だからこそ、こんな風に思ってしまう自分が嫌になる。
「ハルちゃんはないの?そういう話。」
突然振られて、ドキリとする。思わずナナの方を見そうになってしまって、慌てて、
「もう、カナ先輩ってほんと、この手の話好きですよね。」
と無難な回答に努めようとしたのだが、
「あ、話そらす気かー?怪しいぞー?」
「えーっ、なんかあるの、ハル!」
と一斉に詰め寄られてしまった。だいぶ平静を取り戻した私は、苦笑しながら答える。
「ないない。ないですって。」
そんな私を訝しげに眺めながら、カナ先輩が言う。
「そういえば、ハルちゃんと恋バナってしたことないなあ。」
「実は、私もなんですよ。ハルってば、全然相談してくれないんだもん。」
そう言うと、ナナは私の目を上目遣いで見つめる。
「ちょっと、寂しいなあ。」
この言い方は、ずるい。
う、と思わず言葉に詰まってしまった私を見て、カナ先輩が吹き出した。
「あはは。出た。七海ちゃんの殺し文句。」
見事にその文言に殺されてしまった私は、急に顔が熱くなるのを感じた。
「ハル、顔が真っ赤。」
「クールぶってるけど、ハルちゃんのこういうとこが可愛いよねえ。」
「別に、クールぶってないですってば・・・。」
完全にからかわれている。カナ先輩のこういうところは今でも健在だ。気恥ずかしさで、火照った自分の頬をぺしぺしと叩いていると、先輩は腕時計を見て思い出したように言った。
「さて、と。そろそろ行かなきゃだわ。」
「あ、そういえば大学に用事ですか?」
「そうそう、ちょっと研究室に顔出そうと思ってね。」
研究室。あまり聴きたくない言葉だ。思わず目を逸らした私たちに
「二人とも、バンドもいいけど、卒論も頑張りなねー。」
と先輩が追い討ちをかけてきた。
あー、あー、聞こえなーい、ととぼけている私たちに、せいぜい頑張りなさいよ、学生たち!と無責任な言葉を残して、カナ先輩は去っていった。
先輩の背中を見送りながら、私たちは顔を見合わせる。
「相変わらずだったね、カナ先輩」
「ねー、まったく、もう。」
まだ若干顔が熱い気がして、思わず頬を押さえる。そんな私の仕草にくすっと笑ってから、でもさ、とナナが続ける。
「なんか、大人っぽくなってたね。」
「それ、私も思った。なんというか、全体的にスラッとしてる感じ。」
「やっぱ働き始めると、大人っぽくなるのかなあ。私も早くカッコいい大人の女性になりたいなあ。」
「え、なんか想像できない。」
「あ、ひどーい。私だって、来年の今頃にはカッコ良いキャリアウーマンだもん。」
「・・・ま、せいぜい頑張りなさいな。」
先ほどの意趣返しとばかりに、ナナの膨らんだ頬にぷすり、と指を刺す。ぷう、と頬に溜まった空気が、彼女の唇から漏れ出した。
「来年の今頃、かあ。」
尖らせた唇から、空気と共に言葉が漏れる。
「私たち、何しているのかなあ。」
その言葉に、私は思わず嘆息する。
「全然、想像できないね。」
同じ場所、同じ道を歩いているように見えても、人それぞれ進む道は違う。それぞれの道が、今たまたま重なっているだけだ。
来年の今頃、きっとナナの隣に私はいない。
「楽しみなような、不安なような。不思議な感じ。」
そう言った彼女の瞳は、どんな未来を見つめているのだろうか。そう考えると、胸がきゅっと痛くなった。
本当に、私たちが双子だったら良かったのに。
ファミレスは、休日の昼間なだけあってなかなか混んでいた。大学の最寄駅のすぐ近くという立地もあり、客層はかなり若い。ほとんどが同じ大学の学生だろう。少し見渡せば、簡単に知り合いを見つけられそうな雰囲気だった。
「カナ先輩も言ってたけどさ、ナナ、卒論どう?」
「うう、ちょっとピンチかも。最近良い文献が見つからなくて、ちょっと行き詰ってるなあ。」
「そっか。そっちの学部はもう結構追い込みなんだよね。」
「そうなのー。年明けたらすぐ提出だし・・・もう大変だよー。」
「あーあ、私も早く実験結果出さなきゃ。」
注文した料理を待ちながらそんな会話をしていると、
「お、いらっしゃい。」
と後ろから声がかかった。振り返るとそこには背の高い男性店員の姿。私と同じ学部のマコトだ。そういえばこのお店でバイトしてるって、いつだか話していた気がする。
「あ、今日シフト入ってたんだ。」
「久々にな。最近研究ばっかりでなかなか入れなくてさー。」
「ああ、君のとこの教授、人使い荒いもんね。」
「まーな、まあガッツリ研究したくて入ったから良いんだけど」
「あ、そういえばマコト、大学院行くんだっけ?」
「お?言ってなかったっけ?」
「マコトからは聞いてないよ。確か、ショウタとかミズキが言ってた気がする。私は院は厳しいなあ・・・もう既に研究しんどい。」
「まあ、よっぽど好きじゃなきゃ、朝から晩まで研究なんてやってらんないよな・・・っと」
そこで、ぼんやりとカフェラテを飲んでいるナナの存在に気づいたらしく、
「そっちは?」
と小声で聞いてきた。別にそんな小声じゃなくても・・・と訝しみながら、私は答える。
「軽音の同期。今一緒にバンド組んでてね、練習帰りなんだ。」
そう言うとマコトは怪訝な顔をした。
「バンドって・・・二人で?」
「あー、まあバンドとはちょっと違うか。私もあの子もキーボードだから、二人で連弾やるの。」
ふうん、と言ったかと思うと、何を思ったのかマコトは急にニヤニヤし始めた。
「可愛い子じゃん。」
ああ、そういうことか。私は思わずため息をつく。
マコトはそこそこ学部でも話す仲で、なかなか気の良い奴だ。良い奴なんだけど、どうもこういう軽薄なところがある。ナナが可愛いと思われるのは嬉しいが、こういう言い方をされると複雑だ。可愛いでしょう!と胸を張りたい気持ちを堪えつつ、私はマコトのニヤケ面を睨みつけた。
「やめてよね、そういう見方するの。」
「いいじゃん。ここのところ男臭い研究室漬けだからな。こういう潤いが欲しいよな。」
「おい、あんまガン見すんな。」
言い争っていると、自分の話をされていることに気づいたらしいナナと目が合った。私のこと?というように首を傾げるナナに、
「あっ、ごめんね。こっちで話し込んじゃって。」
と慌てて私は取り繕った。まさか聞こえてないよな、と内心冷や汗をかく。対するマコトは相変わらずのニヤケ面で、
「おっと失礼。ごゆっくり、お二人さん。」
と軽口を叩きながら仕事に戻っていった。私はその背中を思い切り睨み付けながら、
「サボってないでちゃっちゃと働いて来い、ばか。」
と罵声を浴びせておいた。
「学部の友達?仲いいんだねえ。」
ナナを蚊帳の外にして話し込んでしまったことも気にする様子なく、そう言っておっとりと笑っていた。これだけ言い争っているのを仲が良いで済ませるナナは、さすがというかなんというか。まあ、こういうところが彼女の魅力のひとつなんだけど。
「ほんとごめんね、研究室配属になってから、授業もないし同期にもなかなか会えなくてさ。つい色々話しちゃった。」
「いいよいいよ。私も同じ学部の子に全然会えてないなあ。」
「ありがと。ほんと、なかなか会えなくなってくるよね。」
当たり前に顔を合わせていた人たちと、なかなか会えなくなる日が来る。いつかそんな日がやってくることは分かっていたけれど、もう私たちはその分岐点にいるんだ。
いざその事実を目の当たりにすると、複雑な感情が首をもたげる。今でこそこうして毎週のように会えているナナとも、気軽に会えなくなる。文化祭が終われば練習のために毎週集まることはなくなるし、卒業してしまえば尚更だ。
浮き沈みの激しく、心が騒がしい毎日。私は、この日々を続けていたいと思っているのだろうか。それとも、いっそ早く終わらせてしまいたいと思っているのだろうか。
自分でも、分からなくなる。
離れたほうが、きっと楽だ。でも、離れるのは寂しい。そんなジレンマが頭をぐるぐる巡って、やまない。
「ハルって、実は結構寂しがり屋さんだよね。」
私がハッと顔を上げると、ナナが心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
「なんだか、寂しそうな顔してる。」
こういうところ、ナナは妙に鋭い。誰かが落ち込んでいたり、悲しんでいたりすると、いち早く気づいて、手を差し伸べてあげる。それは、彼女の優しさの表れだろう。その優しさを嬉しく感じると同時に、きっと誰にでもこうして声をかけるんだろうな、という寂寥感が私を襲う。
こんなことを考えてしまうなんて、私は本当に嫌な奴だ。
「大丈夫だよ。卒業しても、私はハルに会いに行く気満々だから。」
「ん、ありがと。ナナ。」
そう言って笑いながらも、分かっていた。実際に生活環境が変わってしまえば、なかなか会うことなんてできなくなる。高校時代の友達とも、大学に入ってからは徐々に疎遠になっていった。すごく仲の良い友達だって、会えるのはせいぜい三,四ヶ月に一回くらい。
友達っていうのは、そういうものだ。
でも、今はナナのその言葉が嬉しかった。会いたいと思ってくれることが、それだけで嬉しかった。今の私には、それで十分だ。
結局、ファミレスで長々と話し込んでしまって、いつの間にか外はすっかり日が傾いていた。こうして練習で顔を合わせているとはいえ、最近はお互い忙しくて、なかなかゆっくり話をする暇なんて取れない。話せば話すほど、さらに話したいことがどんどん出てきて、私たちの会話はいつまでも終わらなかった。
こんな日々があと少しで終わってしまうなんて、未だに信じられない。でも、その時がくれば、案外あっさり別れてしまうものなんだろう。こんな気持ちは、きっと今だけのものだ。
夕方になっていっそう冷たさを増した風に、二人して身を縮める。駅までは歩いて五分もかからないが、この寒さはなかなか堪える。自然と私たちの歩みは早足になった。
「うわあ、夕日がきれい。」
歩きながら、空を見上げたナナが言う。
「ほんとだ、空が真っ赤。」
「夕日ってさ、じっくり見てると、何だか切ない気持ちになるよね。」
「黄昏時、ってやつか。確かに、不思議だよね。」
そこで言葉が途切れて、赤々と輝く夕日に見とれる。お互いに無言でも苦にならない関係は、本当に心地よいと思う。
夕日に照らされているナナの横顔を、こっそりと盗み見る。まっすぐと夕焼け空を見つめている、その瞳。彼女はこの空に、何を思っているのだろう。彼女の横顔に、なんだか色んな想いが溢れそうになってしまって、慌てて目を逸らす。
きっと、夕日のせいだ。
正面には、もう駅が見えていた。夕方は、一番人が多くなる時間帯だ。忙しなく歩く人々が、様々な会話を交わしていて、喧騒を作り上げていた。その喧騒を聞きながら、ぼんやりとすれ違う人たちを眺める。
スーツに身を包んだお兄さん、私たちと同じような大学生、手を繋いだカップル、買い物帰りのお母さん・・・。
私たち二人は、他の人から見たら、どう見えているんだろう。私は、どう見えていて欲しいと思っているんだろう。
そんなことを思っていると、母親に手を引かれた小さな女の子が、ハンカチを落としたところが目に映った。女の子も母親も、落としたことに気づかず、歩き去ろうとしている。
「ハル、あれ。」
さっきまで夕日を見ていたナナも、同じことに気づいたようだ。ナナよりも母子の近くにいた私は、ハンカチを拾って母親のほうに声をかけた。
「あの、落としましたよ。」
私が手に持っているハンカチが、娘のものだと気づいたのだろう。
「あっ、すみません!ありがとうございます。ほら、タクちゃん。」
「あー!それタクの!」
タクちゃん、か。女の子に見えたけれど、どうやら男の子のようだ。タクちゃんは、プーさんが描かれた黄色いハンカチを大事そうに握り締めていた。
「ほら、タクちゃんも、お姉ちゃんにありがとうって」
そう母親に促され、男の子も言う。
「おねーちゃん、ありがとー。」
私は少し苦笑しながら、どういたしまして、と返しておく。未だにこういった時の対応には困るな、と思っていると、男の子が私に向かってぺこり、と可愛らしいお辞儀をしてくれた。あまりにも可愛らしいその仕草につられて、私もついお辞儀を返してしまう。なんだか気恥ずかしくなって後ろを振り返ると、ナナが案の定くすくすと笑っていた。
「何よ、その顔は。」
「ううん。別に。ハルちゃんは可愛いなあって。」
ナナのその言葉に、私は複雑な気持ちになる。からかっているのは分かっていたが、その言葉になんて返せば良いのか分からなくなってしまって、私はつい黙り込んでしまった。いつもだったら、適当な軽口で誤魔化せるのに。
私の沈黙を誤解したのか、ナナは
「え、お、怒った?ハル、ごめんね?」
とあたふたしていた。その仕草があまりに可愛らしくて、思わず笑ってしまう。
「そんなに慌てるくらいなら、最初からからかったりしなきゃいいのに。」
そう言ってナナの頭にぽん、と手を置く。
「怒ってないよ。ちょっと、考え事してただけ。」
ナナはほっとしたように息をついた。その素直な感情が、仕草が、たまらなく愛おしく感じる。
「ほら、あんまもたもたしてると電車乗り遅れちゃうよ?」
私の言葉に、ナナは腕時計を確認する。
「あっほんとだ。」
「それじゃあ、また来週の練習でね?」
「うんっ。またね!」
手を振りながらパタパタと改札の奥へ消えていくナナを見送りながら、
「またね、か。」
と小さくため息をつく。
ナナと別れた途端、相変わらず忙しない駅の中が、なんだか急に静かになった気がした。自分を取り巻く周囲だけが、しん、と冷え切ったような感覚。
駅には相変わらず大勢の人がいて、各々会話を交わしている。その声が、膜を張ったように遠く聞こえた。
改札の前で、大学生らしきカップルが何事か話しているのが見える。背の高い男の人が、女の人の頭にぽん、と手を置いた。女の人は嬉しそうに笑うと、手を振って改札へ入っていく。男の人は手を振り返しながら、去っていく彼女を愛おしそうに眺めていた。
まるで、さっきまでの私たちみたいだ。ぼんやりとそんなことを思ってしまってから、私は慌ててかぶりを振る。そもそも、こんな風にジロジロ人のことを見ているなんて、失礼極まりないだろう。
自責の念も込めて自分の頬を軽く叩くと、パチン、と泡が弾けたように、周囲が音を取り戻した。どれくらいぼんやりとしていただろう。時々こうして所構わず物思いにふけってしまうのは、私の悪い癖だ。踵を返そうとしたところで、周囲の声に紛れて、
「おーい」
という聞き覚えのある声が、どこかから聞こえた気がした。しかし、この喧騒の中では、誰が呼びかけているのかも、誰に向けられたものなのかも分からない。気のせいかな、と思い駅を出ようとしたところで再び聞こえたのは
「おーい、マサハル!」
間違いなく、私を呼ぶ声だった。
振り向くと、そこにはさっきまで店員をやっていたマコトの姿。ファミレスの制服ではないものの、随分とラフな格好をしていた。
「おつかれ。バイト、終わったんだ?」
「おう。お前らあれからずっと喋ってんだもんな。びっくりしたわ。」
言われてみれば、知り合いのいる店内に長時間居座るというのも、なかなか恥ずかしい。これからは駅前のファミレスを使うのは控えよう。
「あー、うん。ゆっくり話せるのが久しぶりでつい、ね。」
私が曖昧に返すと、マコトはまたニヤニヤし始めた。
「あの子、マサハルの彼女なんだろ?」
多分、この話がしたくて彼は声をかけてきたのだろう。
私と彼女のことをよく知っている人達は、いちいちこんな風に勘繰ったりはしない。面と向かってこう聞かれるのは、随分と久しぶりな気がした。
カナ先輩といい、マコトといい、どうしてこんなにも人の色恋沙汰に興味が持てるのだろうか。別に、否定するつもりはない。話のきっかけになるだろうし、真剣に話せば、彼らは相談に乗ってくれるんだろう。
けれど、私のことは、そっとしておいてほしかった。
言葉にしてしまった時、初めて人の想いは現実になる。心の中から出さなければ、それは存在しないのと同じだ。
だから私は、嘘をつき続ける。
「・・・そういうのじゃないよ。」
笑顔を作って、答える。
「ただの、友達。」
こうしてはっきりと口に出すのも、随分と久しぶりな気がした。
私の言葉に、どこか納得がいかないように、ふうん、とマコトが言う。
「それにしては仲良さそうだったけどなあ。」
「友達なんだから、仲が良くたっていいでしょ。」
少しムキになって返す私に、マコトはいつもの調子で笑った。
「普通、女友達とあんなに仲良くなれないって。お前、見た目が女っぽいからってずるいわ。」
まるっきり的外れな、彼の言葉。鈍く重たい音が、頭の中に響いた気がした。私はなんとか笑顔を貼り付けて、口を開く。
「・・・ともかく、変な勘ぐりはやめてよね。それじゃ、私帰るから。」
「お、それじゃまたな、マサハル。」
「ん、また」
またね、と言おうとして、途中で口を噤む。そのままマコトに軽く手を振って応え、私は駅を出た。
外に出ると、辺りは既に暗くなり始めていた。心なしか、風も強くなっているような気がして、私は身震いする。
朝よりも、ずっと寒い。震える体をぎゅっと抱きしめる。
まっすぐ家の方に向かおうとして、大学に自転車を置いてきてしまったことを思い出し、私は向かう方向を変えた。
目の前に広がっているのは、数時間前にナナと二人で下ってきた坂道。長い坂道を早足で登りながら、先ほどのマコトの言葉を反芻する。
顔にはまだ、先ほど作った笑顔が張り付いたままだった。
「・・・本当に。」
泣き笑いのような表情で、ぽつりと呟く。その言葉は、喧噪に紛れて消えていった。
「ずるいなあ。」