歌姫 8
目が覚めたら知らないソファの上だった。
本当にまったく見覚えのないソファ。口の中が痛かった。切れているようで血の味がした。どのくらい気を失っていたのだろう。
向こうに私を殴ったあの男が座っているのが見えた。
「気づいた?」
私は何故か律儀に頷いた。動こうとした時、初めて両手両足がガムテープで留められていることに気づいた。状況はまったく理解できなかった。
「何でこんな事になったか分からないって顔やな」
「分からない」
絞り出すような声だった。
「ヒロシって奴はお前の男やろ?」
私はまた律儀に頷いた。
「見ろ。これ」
そう言って男は青くなった目元を私に見せた。
「何だか分かるか?」
私は首を振った、
「ふん。教えてやるよ。これはお前の男に殴られた傷だ」
殴られた? あまり事態が読み込めなかった。
「俺もな。これでも一応極道の端くれやっとるからな、困るねん。一般人と喧嘩してやられたなんて噂が広まったらナメられる。まったく。いらん事してくれたわ。お前の男は。お陰で兄貴達から大目玉喰らったよ」
そう言って男は少し笑う。
段々と話が読めてきた。この男はおそらくこの前ヒロシが喧嘩した相手なのだろう。仕返しをしようとしているのだ。
「なんで?」
私は絞り出すように声を出した。口の中が痛い。
「ん?」
「なんで住所が分かったの?」
「あぁ。この前喧嘩した時にな、あいつ免許証落としていってん。それに住所が書いてあった」
そう言って男はまた笑う。
私は落胆した。あいつ、車なんて持ってないくせに律儀に住所変更しやがって。私ですらまだ変更していなかったのに。
「ヒロシは? ヒロシはどうしたの? あれから帰ってないのよ」
「さぁなぁ。あいつ自身の方は兄貴達が動いてるからなぁ。ま、無事ではないやろ」
「そんな……」
「下手したら死んでるかもしれんで。兄貴達は俺とは違って血の気が多いからな」
「そんなこと……」
あり得ないとも言えなかった。オトシマエにはそう言うシャレにならないものもあると、前に本で読んだ。
「だからほんまは俺は別になんもせんでもええんやけどな。でもそれじゃ俺の気がすまんからなぁ。やから在り来たりやけど女のお前を攫ったんよ」
「卑怯者。私に何をする気?」
「聞きたい?」
「いや、聞きたくない。と言うかやめて」
「安心しろ悪いようにはせん。ちょっとばかし傷付いてもらうだけや」
そう言うと男は私の着ていたシャツを胸元から破った。黒のブラジャーが露わになる。それ程いい身体だとは思っていなかったが破れたシャツから覗く私の胸は不思議とエッチだった。自分でも思うくらいに。反射的に起き上がろうとするが、両手両足を封じられているから上手く動けない。
「おっと、逃げても無駄や。てか動けんやろ。ガムテープて意外と強いやろ? ん、意外でもないか? ま、ええや」
男の手が私に延びる。怖かった。もう声を絞り出すこともできなかった。
「観念しい。仮にこの部屋を出ても下はうちの事務所や。兄貴達がおる。無事に逃げる事は不可能や」
男の手が私の右胸を握る。男の匂いが、野獣の匂いがモロに私を襲う。
気を失いそうなくらい怖かった。でも残念ながら気を失いそうになかった。そんな矛盾を抱えて混沌としていたその時、何かが思い切り男の頭に振り下ろされた。
突然男が低い声を出し私の上に崩れる。何が起きたのかまったく分からなかった。その時、崩れた男の頭の向こうに人影が見えた。
ナツキだった。
何故だか知らないが大きなスコップを持っている。
「そ、それ……」
私は震える声でナツキのスコップを指指した。
「あ、あの……すぐそこの、こ、工事現場で拾ったの、さっき……」
ナツキの声も震えていた。
「し、死んでないよね? そ、その人……」
「う、うん。気を失ってるけど、死んではいないと思う」
私は男の胸元に手を当てて心臓が動いているかを確認した。
「ナツキ、なんでここが?」
「いいから逃げるよ。とりあえず。し、下にタクシーを待たせてる!」
ナツキは焦っていた。だから私も段々現実に意識が戻り、焦ってきた。
「でも、下には兄貴達が……」
「だ、誰よ兄貴って。下の事務所には多分誰もいなかったわよ。静かだったから」
「嘘、じゃ兄貴達は……」
「だから兄貴って誰よ! 早く!」
そうに言ってナツキは男を乱暴に退かせて私を起こし、ガムテープを外した。
「行くわよ」
ナツキは勇ましかった。ドアを開けると階段があり、二人走ってそれを駆け抜けた。
一つ下の階に確かに事務所があった。静かで、確かにナツキの言う通り誰もいなさそうだった。
磨りガラスにプリントされた社名は、一見するとそんなに危なそうな社名に見えなかったのだが、さっきの男の顔を思い浮かべると、途端に怖ろしい社名に思えた。
事務所の下の階に出口があった。と、言うことは私が捕まっていたのは三階という事になる。もうどうでもいいのだが。ナツキの言う通りビルの下でタクシーが待っていた。
「さ、乗って!」
「うん」
タクシーに乗り込むとナツキは私の家の住所を告げた。振り返ったタクシーの運転手さんは驚いた顔をした。そこで私は自分のシャツが破かれ、ブラジャーが丸出しになっていた事を思い出した。慌てて胸元を隠す。
それから車内では一言も口を聞かなかった。
何分くらい乗っていただろう? 気がついたら私のマンションの前に着いていた。
「うちに帰るのは怖いよ。だってあの男はここの住所を知ってるから」
家の前まで来て私は言った。
「確かにそうね。とりあえず河原まで行きましょうよ」
私は頷く。ナツキは男を殴ったスコップを持ったままだった。
河原は相変わらず人気がなかった。真っ暗だった。目が慣れてきて、ようやくナツキの後ろ姿をしっかり識別できるくらいに。
ナツキが着ていた白シャツを脱いで私に渡してくれた。下には黒いキャミソールを着ていた。
「ありがとう」
「うん」
「ナツキ、なんであそこが分かったの?」
「家に帰った時、偶然シズカを担いだあの男を見たのよ。だから無我夢中でタクシーを捕まえて男の車を追いかけたの。怖かったけどね……でもシズカの方が怖かったよね」
「怖かった」
今になって泣きそうになってきた。
「そりゃ怖いわ。あんなの無茶苦茶じゃない。何なのあの男?」
「この前ヒロシと喧嘩した男みたい。それで仕返しに私を」
「何それ、小ちゃい。それならヒロシ君に直接ー……」
ナツキが何かに気付いた顔をする。
「ヒロシ君、ずっと帰らないけど、まさか、まさかあいつに……?」
私は頷く。
「さっきの男の話だとその兄貴達がヒロシを狙ってたみたい。殺したかもしれないって」
「そんな……」
「まだ分からないわよ。もしかしたらヒロシもまだ捕まってるのかも」
「まさかあのビルに?」
「事務所があるからね。その可能性はあるわね」
二人とも段々声が震えてきた。自分達が何をしなければいけないか、分かってきたのだ。
「ナツキ。私、もっかい戻ってヒロシを助けに行く」
すごい事を言っているのにナツキは不思議と驚かなかった。
「私も手伝うよ」
「ダメよ。危険過ぎるわ」
「何よ。シズカ一人じゃすぐやられちゃうわ。私は、ほら武器があるし」
そう言ってスコップを私に見せる。
工事現場からくすねたスコップ。二人で笑ってしまった。でもすぐに恐怖が戻ってくる。
「まったく、デートしてたと思ったら数時間後には暴力団の事務所に乗り込むなんて……考えもしなかった」
「あ、そうだ。ダンデどうだったの?」
「楽しかったわよ」
「それだけ?」
「詳しい事はまた話すわよ」
「生きてたらね」
私がそう言うとナツキは少しだけ笑い、そして森に向かって大声で歌い出した。
パートナーシップの歌。
あのナツキが綺麗に歌い上げていた歌をこのナツキが少し音程を外した声で歌う。しかも大声で。
やっぱり音痴だ。でも不思議と勇気をもらえた。私も大声で歌う。
森は相変わらず真っ暗で、私達の歌なんて届いてないみたいに揺れていた。それくらい闇は巨大だった。でも私達は負けなかった。
出てこい! 私達は絶対に負けない!
私は心の中で叫んだ。
森の中に潜む邪悪な何かに向かって全力で叫んだ。
風が揺れている。
河が流れている。
まるで関係ないみたいに。
あの歌姫みたいに上手には歌えないが、名前も知らない何かに向かって、私達は力の限り歌った。
しばらくして私達は顔を見合わせ、弾かれたように光の道へ駆け出した。
新幹線のホームは空いていた。
夏も終わりかけの水曜日の昼。午前十一時。ナツキの乗る新幹線は十一時十五分発だ。
「飲み物とか買わなくていいの?」
私は鞄の中の携帯を探しているナツキに声をかけた。
「いいよ。車内で買うから」
偶然だろうけど、ナツキは大阪に来た時と同じ格好をしていた。鞄の中をごそごそ探っている。
「携帯ないの? まさか忘れた?」
「ん、そんなことないと思うんだけど。あ、あった。あった」
そう言って鞄の奥から携帯を取り出しメールを打ち出す。
「職場復帰はいつからだっけ?」
「明後日よ」
「そっか」
「うん」
ナツキはまだメールを打っている。
「ちょっと、私の話ちゃんと聞いてる? もうちょっとでまたしばらくお別れなのよ」
私はちょっと苛立った声を出す。
「ごめん、ごめん。ダンデがね、東京駅まで迎えに来てくれるの。だからその時間の連絡だけ」
「あらあら、すっかり彼氏彼女じゃない」
「えへへー」
「羨ましいわねぇ。ねぇ、ヒロシ」
「うん。そうだな」
そう言ってヒロシが笑う。
ヒロシは無事に戻ってきた。
あれから私達は兄貴達の待つ事務所へ乗り込んだ。今思えば何故あんなことができたんだろう? 思い出すだけで背筋がゾッとする。
事務所に乗り込んだ時、今度はちゃんと兄貴達もいた(もちろん確認したわけではないが、おそらくあの人達が兄貴達なのだろう)話に聞いていた通り、怖ろしそうな男達だった。私を攫ったあの男もいた。何だか顔に新しい傷を作って、私達を見て驚いていた。
私とナツキは暴れられる限り暴れたナツキはスコップを振り回し、私は入り口に立ててあった木刀を振り回した。ヒロシを返せ! なんて恥ずかしい事を叫びながら。
でも相手は複数人の凶悪な男達。私達はけっきょくすぐに取り押えられたけど、あんまり騒いだものだから近隣住民の通報で警察が来て、最悪の事態は免れた。
私達は一度警察に連れていかれたけど、その後、警察の調べで兄貴達の会社が相当悪い事をしていた事も分かり、事情が事情なため私達は早い段階で釈放された。
まったく私まで警察のご厄介になるなんて。後から聞いた話では、兄貴達はみんな逮捕されたらしい。
ヒロシは事務所の奥に捕まっていたところを警察に保護された。私達があんなに苦労したのに、当の本人は目立った外傷もなくケロっとしていた。まったく。兄貴達に一発殴ってもらいたいくらいだ。
まぁ、でも良かった。
「ナツキ、もう大丈夫? その……職場復帰だけど」
「心配しないでよ。大丈夫。シズカのお陰よ。全部」
そう言ってナツキは私の頭をぽんぽんした。
「不安ならまたいつでも戻っておいでよ」
「そうもいかないわよ。でもありがとう」
新幹線がゆっくりホームに入ってくる。滑るようにすーっと。周りの人達も下に置いていた鞄を持ったり、乗車に備えていた。
別れの時間が近い。
「短い間だったけど楽しかった」
「私もよ。でもまさか大阪に来て暴力団を一つ潰すなんて思ってもみなかった」
ナツキがそう言うと、ヒロシは少しバツの悪そうな顔で笑った。
「またね」
「うん」
何故か握手をした。しかもけっこう堅く。
「ナツキ、あのさ」
「うん?」
「ナツキは私にとって柱だよ。大事な、立派な柱」
「柱?」
「で、私もナツキにとってそういう存在になりたいと思ってるよ。柱にね」
「何よ柱って」
「何でもない。こっちの話」
「訳分かんなーい」
そう言ってナツキは新幹線に乗り込んで行った。扉のとこで手を振ってる。満面の笑みで。
ナツキが笑顔に戻って良かった。そんな事を思った時、扉が閉まりゆっくりと新幹線が走り出した。これから二時間半かけて東京へ向かうのだ。
「何なの? 柱って」
不思議そうにヒロシが尋ねる。
「ヒロシも柱よ。私の。で、私もヒロシの柱なの」
「はぁ」
「そんなふうに支え合って生きていきたい」
「何となく分かるよ」
「あ、分かる?」
「うん、昔そんな曲を書いたことがある」
「うわっ、似合わないなぁ」
「うるせー。さぁ行こうか。早く仕事に戻らないと」
「あ、私もだ。今日も帰り遅いの?」
「うん、多分」
「頑張るねぇ」
「迷惑かけた分頑張らないと」
「よしよし、その粋だ!」
ホームを改札に向かい歩き出す。
途中、振り返ってみると、ナツキの乗った新幹線はもうとっくに見えなくなっていた。
線路の先、暑さで夏が揺れてる。
その横に立つ信号機の青は、いつか見た蛍の光にそっくりだった。