歌姫 6
「あっ、もしもし。私、ナツキ。今大丈夫? あ、そう。良かった」
そこまで話すと、私の視線がある事に気付いてナツキはそそくさとベランダに出て行った。
確かにあまり人には聞かれたくない類の話かもしれない。ナツキが女になるところ、ちょっと見てみたかったのだけど。
何て言えばいいのか分からない、と言うナツキを無理やりダンデに電話させた。
一度話し出したら何となく言葉が出てくるよ、なんてまた無責任な事を言った。本当に言葉なんて出てくるのであろうか。でもずっと連絡しないのはよくないと思ったのだ。まったく、ハタ君みたいにすらすらと言葉が出てくれば楽なのに。
昼のイタリアンでもハタ君はしつこかった。
ナツキにいろいろな事を話し、聞き出し、戸惑うナツキから最後は連絡先まで聞いていた。私の事なんて少しも見向きもしないで。どうでもいいのだが、それはそれでちょっとおもしろくなかった。
ヒロシは今日はもう寝てしまっていた。何だか知らないが酷く疲れた顔で帰ってきて、ご飯も食べずに寝てしまった。
私は久しぶりにステレオをつけてパートナーシップのCDを流した。ナツキがうちに来る少し前、大阪に来てからの事を思い出す。私はこのアルバム、「ベベ」というアルバムを気に入っていた。心地よい音楽だった。
音楽は不思議だ。心に音楽がひゅっと入り込んで来る時。朝だって夜になるし、冬だって夏になる。悲しい気持ちだって愛になる。本当に不思議だ。
しばらくしてナツキが戻ってきた。
「どうだった?」
「ん……うん、まぁ、まぁね」
「何よ、まぁって。はっきり言いなさいよ」
「はっきりなんて言われてもねぇ……とりあえず少し話しただけよ」
「告白の結果は?」
「そんな話してない」
「なーによそれ。じゃ何の電話だったのよ」
「だから、うん。とりあえず、ありがとうって言ったの。嬉しかったって」
「それはそれでいいけど。それじゃ何の解決にもなってないじゃない」
「解決って言われたら何も解決してないけど……あれ? これ、パートナーシップじゃない」
ナツキが部屋に流れる音楽に気づいて言う。
「話をそらせないで」
「別にそんなつもりじゃないわよ。シズカ、パートナーシップ好きだったの?」
「昔ね。最近なんとなく思い出してこのアルバム買って聴いてたの」
「そうなんだ。もっと早く言ってくれたらいいのに。私、パートナーシップ大好きなの。CDも全部持ってるし、ライブにも何回も行ってるのよ」
「へぇ、そうなんだ。何か意外ね」
「ね、ボーカルの女の人、なんて名前か知ってる?」
「知らない」
本当は知っていたが、私は知らないフリをした。
「ふふふ、ナツキって言うのよ。なんと私と一緒なの」
「へー、そうなんだー」
「何よ、その薄いリアクション。ね、今度一緒にライブ行こうよ。パートナーシップの」
「でも活動休止中なんでしょ?」
「今はね。でもファンの間ではそろそろ復活じゃないかって言われてるの」
「そうなんだ」
「だからさ、復活したら一緒にライブ行こ」
「いいけどさぁ」
すっかり話を変えられてしまった。結局、この日はそれ以降ダンデの名前は出なかった。
週末、ヒロシとナツキと三人で万博記念公園まで出掛けた。
太陽の塔を見るのはみんな初めてだった。
「わ、すごい」
ナツキが素っ頓狂な声を出す。
「でっけぇ」
珍しくヒロシも感動している様子だった。
私だってもちろん感動していた。しかし二人がそんな上手なリアクションをするので、何も言えなかったのだ。私は黙って太陽の塔を見つめていた。確かに何か訴えかけてくるものがある。
私達は草原に横たわってビールを飲んだ。ビールはぬるくなるのが嫌で公園の中の売店で買った。外で買うより少し高かった。
「気持ちいいー」
ナツキは簡単に酔っ払ってスカートの足をピンと伸ばした。間からパンツが見えないか気になったが、よく考えたら別に私が気にする事でもない。
夏の風が私達の肌をなぞった。玉みたいな汗がちょっとだけ揺られて、気持ちが少し軽くなった。
「遠出した甲斐があったなぁ」
ヒロシが太陽の塔の背中を見て言った。
「太陽の塔の背中の模様、なんか刺青みたい」
私は何となく言った。
「本当だね」とヒロシ。
「刺青って言えば、ね、ヒロシ君の刺青っていつ入れたの?」
私も今まで聞いた事がなかった事をナツキは簡単に聞いた。
「刺青なぁ、入れたのは十九の時だよ」
「へぇ、何で入れたの? その模様は自分で考えたの?」
「理由なんて特にないよ。何となく。鯉の柄にしたのは御利益がありそうだったから」
「刺青って何となく入れるもんなの?」
私が口を挟む。
「ま、若気のいたりといいますか」
「ふーん」
「でもさ、それがあると市営のプールに行けないわよね?」
ナツキが空を見ながら言った。
「まぁ……それはそうだね。今の日本はそういうの厳しいし」
「もし行こうと思ったら、競泳選手みたいな上半身もがっちり包んだ水着じゃないと駄目よね?」
「そうだね。多分」
「でもさ、じゃプールに行こうと思ったらそんな水着に見合った泳ぎができるようにならないと駄目なのよね。競泳選手みたいな水着で中途半端な泳ぎなんてダサいもん」
「うん、まぁナツキの言う事も一理ある」
なぜかヒロシも妙に納得していた。
「刺青も楽じゃないなぁ。あ、でも女の人だったらお腹や胸元に入れたらバレないな。市営プールに行ける」
「セクシーなビキニを着たらバレるよ」
ヒロシとナツキのやりとりを聞きながら私はごくごくとビールを飲んだ。
「あ、そうか。そうか。やっぱり刺青も楽じゃないなぁ」
「そういう観点から見るとね」
「ね、ヒロシ君はその鯉の刺青を入れてなんか御利益はあったの?」
「あったよ」
「えー、どんな?」
「シズカに出会った」
急に自分の名前が出てきて驚いた。
「わー、わー、素敵。ね、シズカ、聞いた? 今の聞いた?」
「聞いたわよ。もう、うるさいって」
私は柄にもなく少し照れていた。くだらない話からまさかそんな話になるなんて思わなかった。
「大事なのね」
「うん、すごく大事」
「もういいって」
万博記念公園に寝転がって見た空は高かった。綺麗だった。
しばらくしてヒロシの就職が決まった。
詳しくは聞いていないが、印刷工場の倉庫管理の仕事らしい。最初は契約社員だが、勤務態度によっては正社員になれる可能性もあるようで、まずまずの条件だった。
「えー、ではこの度は無事ヒロシの就職が決まったと言うことで……」
「カタいよシズカ」
ナツキが笑う。三人でのヒロシの就職祝い。珍しく私が乾杯の音頭をとっていた。
「あんまりこういうのに慣れてないのよ。えーっと、まぁとにかくおめでとうございますという事で。えー、乾杯!」
「乾杯!」
スーパードライの缶が鈍い音でぶつかり合う。マンションの小じんまりとした机にスーパーで買ってきたお惣菜とポテトチップスを広げてつまんだ。
「でも、就職が決まって本当に良かった」
ナツキが自分の事のように嬉しそうに言った。ヒロシは少し照れくさそうにしている。
私だって嬉しかった。
昨日、ヒロシが帰ってきて「あのさ、仕事決まったよ」なんて急に言った時、最初は言葉の意味が上手く理解できなかった。でも、ちょっとして凄く嬉しい気持ちになった。
「おめでとう。良かったじゃない」
「うん、良かった」
「就活してたんだね」
「うん、ちょっと前から」
「本当に良かった。いつから働くの?」
「ん、明後日から」
「そう。すぐじゃない」
「うん」
それだけ言うとヒロシは早々に自分の部屋に入り寝てしまった。
寝る前にナツキにその事を伝えると「駄目だよ。ちゃんとお祝いしないと!」と言われてしまい、急遽今日の就職祝いの開催が決まったのだ。
お酒が適度に入り、いつものように三人でだらだらと話をした。
網戸にした窓から時々車が通り過ぎる音が聞こえる。途中、暴走族みたいな音をしたバイク達が一度通ったが、基本的には静かな夜だった。
ヒロシは珍しくにこにこしていた。多分こんなふうに誰かに祝われる事に慣れていないのだろう。もしかしたら初めてかもしれない。
「不思議な感覚だよ。俺が定職に就くなんて」
「定職に就くのは初めてなの?」
ナツキがまた聞きにくい事をあっさりと聞いた。
「そうだなぁ。定職なんて言えるようなちゃんとした仕事は今回が初めてかな。高校出てからほとんどがバイトだったから」
「どんなバイトしてたの?」
「土方に居酒屋、雀荘にレストラン、コンビニ、交通整理、パチンコ。ほんとにいろいろやったよ」
「へぇ。すごい」
ナツキは素直に感動していた。
「ビルの清掃、レンタルビデオ。あっ、アダルトグッズのお店でもバイトした事あったなぁ」
「うそ、それ面白そう」
「面白い? そんなけばけばしたグッズに毎日囲まれてたらなんか頭が変になりそう」
私はお惣菜の唐揚げに箸をのばして言った。
「いや、あれは面白かったよ。アダルトグッズを買いに来るいろんな人が見れたし」
「ね、どんな人が来るの?」
ナツキは興味津々だった。
「基本的にはみんな普通の人。本当の変態なんてほとんど来なかったよ。でも腹の中ではみんな一風変わった趣味を持っている人達なんだろうなぁーて思ってた。あと、人は見かけによらないって事がよく分かったよ。黒縁の眼鏡かけためちゃくちゃ真面目そうな女の子がロウソクと鞭を買ってったりとか」
「そういう真面目な娘の方が意外とエッチだったりするもんね」
「そうそう。その娘、何回か来てた」
ヒロシとナツキが盛り上がり出した。この二人はたまに変なところで波長が合う。
「いいなぁ。私ももっといろいろバイトすればよかった」
お酒で顔を赤らめてナツキが言う。
「ナツキは何のバイトしてたの?」
「あれ? シズカに言ってなかったっけ? 私、大学の時はずっとCD屋さんでバイトしてたのよ」
「へぇ、知らなかった!」
「じゃ音楽が好きだったんだ」
「うん。そうね。と言うか私、実は歌手になりたかったの」
私は飲んでいたビールを吹き出してしまいそうだった。
「本当に?」
「うん。友達とか全然いなかったからバンドはできなかったけど、一人で歌ってデモテープをレコード会社に送ったりしてた」
いきなりぶっちゃけられ過ぎて逆に驚けなかった。
「俺も昔バンドやってたんだ」
ヒロシがぼそっと言った。
「えー、そうなんだ」
「うん。長続きしなかったけど、俺も本気でデビューしようと思ってた。自分で曲作って必死で歌ったよ。でも駄目だった。難しいもんだよな」
「私も自分で曲書いてた。今となっては恥ずかしくてとても聴き返せない曲だけどね。しかも私の場合、そもそも歌が下手だったから」
ナツキが自虐的に笑う。歌が下手な事、自覚はあったんだな、と思ったが当然何も言わなかった。
「あ、それ違うよ。ボーカルの良し悪しは歌の上手さじゃない。大事なのは気持ちが入っているかどうかだから」
「どうなのかなぁ。私もそう思ってたけど、現実はやっぱり上手な歌で上手な歌詞じゃないと受け入れられないのかなぁとも思うよ」
「うん、まぁそりゃ俺だってそれが現実な事も分かるよ。でも誰しもが上手く歌えるわけじゃないんだしさ。そんな事考え出したら何も歌えなくなる」
ヒロシが少し言葉に詰まったので私とナツキは顔を覗き込んだ。
「大事なのは下手くそでも自信を持って歌い出す勇気なんだよな」
翌日から仕事が始まるのでこの日の会は早めにお開きにした。ヒロシは二、三言お礼を言って自分の部屋に入って行った。
私は何となく一人でベランダでコップに入れた焼酎を飲みながら空を見ていた。
夏の空には星が点々と散りばめられていた。
東京よりも星が多いような気がしたが、そうでもないのかもしれない。
東京にいた時は空なんて見なかった。
「シズカ」
ナツキがグラスを片手にベランダに出てきた。
「あら、まだ飲めるの? 大丈夫?」
「これ、水。もう飲めないわよ。酔い覚ましに風にあたりたいと思って」
「そっか」
「シズカ、まだ飲んでるの? 本当お酒強いね」
「そうかな? 別に普通だよ」
ナツキはグラスの水を一気に飲み干して大きく息をついた。
「それにしても、ナツキが歌手になりたかったなんて意外だったなぁ」
「そう? 何回か一緒にカラオケ行ったじゃない。私の魂の歌、聴いたでしょ?」
「そりゃ、聴いたけどさ」
「もう懐かしい、昔の話よ。でもなんかその時は必死だった。必死で歌ってた」
「すごいね」
「私、ナツキみたいになりたかったの。あ、パートナーシップの方ね」
「わぁ、それはまたハードルが高い」
「パートナーシップが結成される前、ナツキがまだソロでやってた頃からずっと好きだったの。ライブにも何回も行ったわ。その頃はまだ今みたいに知名度がなくてね、お客さんも少なかったからすごい近くでナツキが歌ってるのを見てた」
私はナツキの話に頷いて焼酎のグラスに口をつけた。
「その頃、目の前で歌うナツキを見る度に思ったの。なんでこんなに近くにいるのに、同じように音楽が好きなのに、ましてや一緒の名前なのに、どうして私達こんなに遠いんだろうって。だから、どうしてもそこまで行きたいって思ったの」
「うん」
「でも駄目だった。結局は才能なのかなぁ。残念だけど。就職してからパートナーシップのライブを見に行った時、めちゃくちゃ大きなステージでナツキが歌ってるの見て、あぁ諦めて就職して良かったぁって心から思ったわ」
ナツキが少し笑う。
「あっちのナツキは歌が上手で、こっちのナツキはそうじゃなかった。それだけよ」
「ま、そうなんだけどさ」
「違うよ。あんたが駄目だったって言ってる訳じゃないの。同じようにあんたも歌ったんだから。向こうの方がちょっとばかし歌が上手かっただけ。気持ちは負けてないという事よ。きっとね」
「ありがとう。もしかしてちょっと慰めてくれてる?」
「ちょっと、だけどね。所詮人生なんて無い物ねだりの連続だよ。そんな事もある」
「あ、なんか哲学的」
「ふーんだ」
「ねぇ、昔さ『追いかけても掴めないことばっか~』みたいな歌なかった?」
「何それ、知らない」
「確かにあったよ。なんだっけなぁ……」
「全然分かんない。でも、そんな感じなんだろうね。誰の人生も。もしかしたらナツキもね。あ、パートナーシップのナツキの事ね」
「そうかもねぇ」
少しずつ夜が深まってきた。相変わらず静かな夜で、私達の声以外は何も聞こえなかった。
「良かったね。ヒロシ君の事」
「うん、良かった」
「歌おうとしてるんだよ。あの人も」
「うん」
「下手くそかもしれないけどね」
「うん、そうだね。でも応援してみるよ。精一杯、応援してみる」
「それがいいよ」
歌を歌うヒロシの柱になりたい。
そう思った。
ヒロシは真面目に働いているようだった。
仕事の内容等は特別聞かなかったが、毎日何だか大変そうだった。小さい会社だから即戦力で使われているのだろうか。
だから私もなるべく早く帰って夕飯を作るようにした。
今まではその日、その日で作ったり作らなかったり、勝手に外食してきたりと二人自由に暮らしていたが、何となく夕飯を作ってヒロシを待った。だからヒロシも自然と飲まずに家に帰る事が多くなった。
まったく、これではまるで新婚の夫婦じゃないか。
ナツキは私のいない間に洗濯や掃除や、細かい家事をしてくれていた。それはそれで彼女にとっては慣れない作業だったみたいで毎日へとへとになって私の作った夕飯を食べていた。
ダンデの奴とはたまに電話で話しているみたいだった。こちらも詳しい話は聞いていないが電話での語り口や表情から二人の関係が良好な事が見てとれた。
その証拠に最近ダンデの奴は私に会いに来ない。うまくいっていると連絡もよこさないのだ。調子のいい奴だ。でも良かった。
ある日、帰りにビルの下でハタ君に会った。またしゃがみこんで煙草を吸っていた。
「久しぶり」
ハタ君が煙草を吸いながら言う。この人はいつも煙草を吸ってるな、と思った。
「久しぶり。って毎日顔は見てるけどね」
「うん、確かに。話すのは久しぶり」
「そうね。じゃあ」
私はさっさと帰りたかった。ハタ君の横を足早に通り過ぎる。
「シズカさんの顔は毎日見るけどさ、ナツキさんの顔はあれ以来見ないね」
ハタ君の声が私の背中に刺さる。私は振り返った。
「だったら何よ?」
「何よって何だよ。会って食事でもしたいのに全然顔を見せない。メール送ってもあんまり返って来ないし、なーんか思ったよりノリ悪い人なんだね」
「ノリが悪い?」
「そうだよ。ノリが、悪い。どういう事情か知らないけど、せっかく大阪にいるならちょっとくらい遊べばいいのに。彼氏がいるとかいないとかそんな事は全然知らないけどね」
「馬鹿にしないでよ」
信じられないくらい冷たい声が出た。
「え?」
「馬鹿にするな! みんな真剣なんだぞ! 遊びでふらふらするな! ノリが悪いなんて二度と言うな!」
思いっきり怒鳴ってしまった。ハタ君は急に怒鳴られてぽかーん、としていた。道行く人も驚いて何人かこっちを見てる。私ははぁ、はぁと肩で息をする。
「馬鹿っ!」
それだけ言うと私は駅の方に走って行った。一度も後ろを振り返らなかった。