歌姫 4
ナツキの彼氏はずっと浮気をしていたらしい。
それも、もう一人付き合っている人がいた、なんてレベルでなく、自分の美容院の女性客のほとんどに手を出していたらしい。それが彼の営業スタイルで、女性客と特別な関係を築き、固定客とにして定着させて自分の売り上げを確保していたようだ。そして残念ながらナツキもそのたくさんの女性客の中の一人だった。
それじゃまるでホストじゃないか、と私は思った。
ナツキの「フラれた」という言葉も私からしたら少し違和感があった。だってそんな奴とこれ以上一緒にいたくないじゃないか。本当ならこちらからフッてやるとこである。でも電話口で泣きじゃくるナツキの声を聞いていたら、当然そんな事は言えなかった。
もちろんダンデの事を尋ねる余裕なんてなかった。でも話は何となく分かった気がする。おそらくダンデが告白した頃、ちょうど彼氏の浮気が発覚してごたごたしていたのだろう。周りの声なんて耳に入らず全てが上の空だったに違いない。ナツキはそういう女だ。
そしてダンデ、あんたは何とタイミングの悪い男だ。
こんなタイミングで、偶然にも私は美容院の予約をしていた。大阪に来てからは初めての美容院。ネットで調べて幾つかピックアップした中で家から近いところを選んで予約した。
「いらっしゃいませ」
感じの良さそうな若い男の美容師さんが声をかけてくれた。背が高く、なかなか整った顔立ちだった。
「あの、予約をしてた者ですけど」
無駄にちょっと身構えてしまう。「予約をしてた者」って何だ。
名前と時間を伝えるとすぐに席に通してくれた。鏡の前ですっかりプリンみたいになってしまった自分と向かい合って次の髪色を想像する。
「お待たせしました。今日はどんな感じにされますか?」
やってきたのはさっき受付をしてくれた美容師さんだ。
「カラーをもう少し明るい茶色にしてほしくて、あと少しだけカットをお願いします」
「かしこまりました」
店員さんはヘアカタログを持ってきてそれを二人で見てイメージを固めた。
「東京の方ですか?」
カットが始まって少しした時、店員さんが私に声をかける。
「出身は関西なんですけど、東京暮らしが長くて。だから標準語なんです」
「あぁ、そうなんですか。それでまた最近関西に戻ってきたっていう感じですか?」
「そんな感じです」
ナツキの一件があったので私は何となく美容師というものに警戒心を抱いていた。
「そうですか。気に入ったらこれからも来てくださいね。ここ、比較的予約も取りやすいんで」
美容師さんが優しい笑顔を見せる。その後も趣味や休日の過ごし方だったりを聞かれた。私はそれを適当に答えたりしたが、警戒心からか何だかずっと歯切れが悪かった。それにもともと話して面白い趣味や休日の過ごし方なんてそんなに持ち合わせてはいない。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「なんですか?」
「お客さんと個人的に親しくなる事とかってあるんですか?」
初対面なのに失礼かな、と思いつつも私は聞いてみた。
「あぁ、ありますよ。お客さんと飲みに行ったりとか。たまにですけどね」
「やっぱりあるんだ」
「人によるとは思いますけどね。何でですか?」
「あっ、いえ。何となく思っただけです」
私は慌てて話を終わらせた。髪色はなかなかいい色に染まった。
それから何日か後、私は久しぶりにヒロシと夜にベランダでお酒を飲んでいた。
東京にいた頃はよく二人でこうして風にあたってお酒を飲んだ。大阪に来てからは何となくタイミングが合わずそんな機会がなかった。
そもそもヒロシとちゃんと話をする事自体が久しぶりだった。だんだんニ人の生活リズムにずれができている事に私だって気づいていた。
久しぶりに話すのにあまり話題が無く、私はナツキの話を出してみた。
「ドラマみたいな話だなぁ」
ヒロシは興味が有るのか無いのかよく分からない声でビールを飲みながらそう言った。
「まぁ、騙される方も騙される方だと思うけどね」
「しかしその男もやるね。ある意味、その浮気性で仕事してた訳だからね。それで御飯が食べれるんだから。よっぽど魅力のある奴だったんだろうなぁ」
「そこ関心するとこじゃない」
私は何だかむっとした。
「でも男としてはそういう奴って結構ポイント高いぜ」
「じゃヒロシはそういう男になりたいの?」
「そりゃ魅力がある男にはなりたいよ」
「魅力があったら何をするの?」
「そうだなぁ……あれ? シズカ、もしかしてちょっと妬いてる?」
「なんで私が妬くのよ」
「魅力があったら浮気するよって言ったらちょっと傷ついた?」
「どうだろね。そりゃ浮気は嫌だよ。ナツキの彼氏みたいな男は嫌だ」
「うん」
「浮気が何で悪いって、それは信じてくれてる相手を裏切ってるってところにあると思うの。恋愛じゃなくてもそういうのは良くない事だよ」
「そうだね」
ヒロシは煙草に火をつけてその煙をそっと夏の夜空に吹きかけた。真っ暗な闇に白い毛糸が浮かんで消える。
私は一本のロング缶をちびちびと飲んでいた。蛍の放つ光のように儚げな、弱いアルコール分が私の身体の中をふらふらと泳いでいた。
「シズカはさ、俺の事どう思ってんの?」
「えっ?」
意外な質問だった。
「いや、たまに思うんだよ。何だかはっきりしない関係だなって」
「うん、そうだね」
私はちょっと笑った。
「シズカは俺の事、好き?」
「好きだよ」
自分でも意外なくらいはっきりとした声が出た。夏の夜は信じられないくらい静かで、まるで世界中に二人だけになったみたいだった。
「良かった。俺も好きだ」
「私達、これからどうなるの?」
「正直分からない」
ヒロシは少し困ったような顔をした。
「分からないじゃ済まないでしょ。私達、もういい歳なんだから」
「それはそうだよ。分からないけど、一緒にいるための努力はしないといけないなって、最近そう思うんだよ」
「うん」
「頑張らないとなぁ」
そう言ってヒロシは遠くの空をぼんやりした目で見た。何を頑張るつもりなのかよく分からなかったが、それでも何だか嬉しかった。
何故だろう。分からないけど心の辺りが暖かかった。それは私にオーブンの中で焼けたトーストを連想させた。
「そうだね」
私もヒロシが見ている辺りの空を見た。目印になる特別な星もなく、その辺りはただの闇だった。でももっと目を凝らせばもしかしたら小さな星が一つくらい浮かんでいるのかもしれない。
「新しい髪色、いいじゃん」
「ありがとう」
「俺もそろそろ髪色変えようかなぁ」
「うん、変えてみなよ」
ヒロシはその数日後に髪を黒くした。
あの電話以来、何となくナツキに連絡し辛かった。
本当はもっと、毎日でも電話をかけて慰めてあげるのが友達というものではないか? とも思ったが、またしても私はかけるべき言葉が思い浮かばなかったのだ。
もう二、三日したらポンっと素敵な言葉が出てくるのかもしれない。なんて思ってるうちにあっと言う間に二週間が経った。
ナツキが今どんな言葉を必要としているのか、私なりに本気で考えていた。
ナツキが必要としているのは「文学的な歌詞」のような素敵な言葉なんかではなく、今直ぐに指先の煙草に火をつけられるライターの火のような小さく温かい言葉なんだろうなぁ、と漠然と思っていた。
言葉が出ない事がこんなに情けない事だと思ったのは初めてだった。
私は相変わらず仕事が終わったら家でパートナーシップのCDを聴いていた。ナツキから電話がかかって来たのはそんな普通の夜だった。
「もしもし」
「もしもし。シズカ、久しぶり」
「うん、久しぶりね」
私の方が妙に緊張していた。
「別に用はなかったのよ。どうしてるかなって思って」
「あ、そう。うん、何かゴメンね。なかなか電話できなくて。ここ数週間ちょっと仕事がバタバタしてて」
嘘だった。仕事はいたって穏やかだった。残業すらほとんどしてない。
「そうなんだ。いいのよ。気にしないで」
「その後、どう? 元気? 元気……じゃないか」
「うーん、どうかな。でもだいぶ吹っ切れたよ。だいぶ泣いたけどね。うん、でももういいの」
「そうか、良かった……のかな?」
「何よー。そんな心配しないで。良かったのよこれで。安心して。私はすっかり元気よ」
ナツキが電話口で明るい声を出す。
「そう、なら良かった」
「シズカ、近々東京来る用事ないの?」
「うーん、ないなぁ。私、一応大阪の部署の人間だからね」
「あぁ、そっか。確かにそうだよね。久しぶりに会いたいね。会っていろいろ話したい」
「うん、私も」
そんな事をナツキに言うのは初めてだった。いつもは嫌がったり渋々付いて行ったりという感じなのに、不思議と今はナツキに会いたいと思っている自分がいた。
「もし東京来る事があったらいつでも言ってね」
「うん。ねぇ、ナツキ?」
「うん?」
「本当に大丈夫?」
「心配性だなぁ。大丈夫よ」
そう言ってナツキは少し笑った。
「分かった」
それからしばらく取り止めのない話をして電話を切った。電話を切ったら妙に喉が渇いていて、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。いつの間にかCDも終わって音楽も止まっていた。
ナツキの声、本当に元気になったのかどうか測りきれなかった。
本人は大丈夫なんて言っていたが、私はその言葉を素直に信じていなかった。それはここ数週間ナツキの事を真剣に考えていたからか、何となく無理しているような声に聞こえたのだ。
でも本当に元気になってくれていたのなら、それは良い事だ。そう思い麦茶のグラスを流し台に置いた時、何かがチクリと私の心を刺した。
私は反射的に胸に手を当てる。
あんなに考えたのに私は結局何も言えなかった。
そうだ。本当は私が、私の言葉でナツキを大丈夫にしてあげたかった。だからあんなに言葉を探したんじゃないか。ヒロシの時と同じだ。私はいつも何の言葉もかけられない。
多分だけど、こういう時普通の人はもっと素直に言葉を見つけて相手に伝えるのだろう。
ナツコなんかはそういうのが上手だと思う。その場、その場でそれらしい言葉を見つけて相手に伝える。そうやって当たり障りのない言葉で少しだけ相手の心を暖める事ができるのだろう。
私はそれが間違った事だとは決して思わない。むしろそちらの方が正しいと思えるくらいだ。
では何故私にはそれができないのか?
答えは何となく分かっていた。おそらく私は考え過ぎてしまっているのだ。誰かの心の中に入る事に慎重なのだ。
私は他人の心の中へ入るのが怖い。
場合によってはその人に私の全てを否定されてしまうかもしれない。もしくは私がその人の全てを嫌いになってしまうかもしれない。そんな事を考えてしまうのだ。
おそらく私は傷付きたくないのだろう。だから虚勢を張って、できるだけ強いふりをしてしまうのだ。
それと反対に、私自身も他人に自分の心の中に入られる事をとても警戒する。心の中に誰かが入ってきて優しい言葉をかけてくれたとしても、「どうせすぐに離れて行ってしまうくせに」なんて考えがよぎってしまうのだ。
ナツコの言うような「柱」なんてものも私にはない。寄りかかったそれが本当に倒れないかどうかを疑い、結局何にも掴まれずにいるのだ。それなのに自分自身が柱になれるほど強くない。
私は駄目だ。そして孤独だ。本当にそう思った。本当はもっと自然に入って行きたい。ナツキの中にも。ヒロシの中にも。
暑さが本格的になってきた事もあり、同じ部署のメンバーで私の歓迎会も兼ねて暑気払いをすることになった。
中心街の駅ビルの屋上のビアガーデン。
夕方になると風があって涼しかった。私の部署は合計で二十人程度いるそれなりに大きな部署だ。部長の長めの挨拶から会が始まった。ビアガーデンにしては料理も美味しい。私は端っこの方で事務の女の人達とちびちびビールを飲んでいた。
「ずっと東京にいたのにいきなり大阪ってどんな気持ちなん?」
事務の中でもリーダー格の女性社員が私に尋ねる。そうすると周りの人達もうん、うんと頷いて私に回答を求めた。
「うーん。最初はびっくりしましたけど、別にそんなに嫌ではなかったですよ」
「ひどいわよねぇ。年頃の女の子に遠方転勤なんて、ねぇ」
「えぇ、まぁ。これも人生経験って事で」
「嫌な事があったらいつでも私達に言いなさいよ。文句言ってあげるから」
「あ、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。毎日楽しく仕事させてもらってます」
「そう? いくら女性に優しい時代になったとは言え、うちみたいな古い会社はまだ男尊女卑な風潮かあるからね。気をつけなさいね」
「はい。ありがとうございます」
まるでフーガのように私達の会話は少しずつズレているような気がした。この人は本当に私の話を聞いているのだろうか? とちょっと不思議になった。
そうこうしているうちに幹事の人が皆を制して私の名前を呼ぶのが聞こえた。歓迎会という事で一言お願いします、との事。
勘弁してくれ。私はそういうのが一番苦手なのだ。
しかし当然断る訳にも行かず、私は酔っ払った声援を受けながら、幹事の人に促され前に立つ。人々の視線を感じながら自分の名前を名乗った。緊張しているのか、切れ切れの掠れた声だった。
「まだまだ不慣れですが、精一杯頑張るのでよろしくお願いします」
それだけ言うと私は頭を下げた。拍手は最初はまばらだったが、一瞬で広がり私を包んだ。そんなに大した事は言っていないのに(と言うかほとんど定型文だ)私は少しバツが悪くなった。
元いた席に戻ると、さっきまでいた事務の女の人達はもういなかった。向こうの席にいるお偉いさんのおじさん達にお酒を注ぎに行ったらしい。なるほど。リーダーの言う通りまだまだこの会社は男尊女卑な風潮らしい。私は飲みかけていたビールの続きを一人飲んだ。
「ねぇ、ここいい?」
若い男が私の横から声をかけてきた。
「あ、はい。どうぞ」
反射的に敬語で、さっきまで事務の女の人達が座っていた席を勧めた。あの様子だと多分もう戻って来ないだろうから別にいいだろう。顔を見ると同じ部署のハタ君だった。ナツコの旦那さんだ。口元に少し笑みを浮かべている。
「挨拶、緊張してたねぇ」
「うるさいわねぇ。ああいうのは昔から苦手なのよ」
「そんな感じ出てた。小学校の学芸会とかで緊張してカチコチになっちゃうタイプでしょ?」
「覚えてないわよ。ナツコに聞いてみたら? 聞いてるんでしょ? 私達、同級生だって」
「うん、聞いた。ねぇ、この後何人かともう一軒行くつもりなんだけど、シズカさんも一緒にどう?」
「この後……うーん、うん、いいわよ」
少し迷ったが行く事にした。いつもなら絶対に断るのだが、今日はなんせ私の歓迎会も兼ねているのだ。無下にはできない。
「じゃ解散後ここのビルの角を曲がったところのコンビニに集合で」
「分かった」
その後、会は滞りなく終わり、みんなバラバラに解散していった。飲みすぎたのであろうお偉いさん達は足早にタクシーに乗って去り、事務の女の人達も少し酔ったのかきゃあきゃあ言いながら駅への道を歩いて行った。
私はハタ君に言われた通り、ビルの角を曲がりぼんやりと緑のネオンが光るコンビニへ歩いて行った。コンビニの前でハタ君が一人で煙草を吸っていた。私を見つけるとハタ君は煙草を灰皿に捨てた。
「お疲れ様」
「お疲れ様。あれ? 他の人は?」
「んー、来ないよ。俺ら、二人だけ」
「あっ、騙したな。最初からそのつもりだったの?」
「まさか。人聞きが悪い。みんな急に都合が悪くなっただけだよ」
ハタ君がにまにまとした笑みを浮かべる。
「嘘つき」
「ごめんね。ちょっとだけ、一杯だけ行こうよ」
私は軽くため息をついた。
「別にいいわよ。でもハタ君はいいの? こういうの、ナツコに知れたらまずいんじゃない?」
「あれ? ナツコに知れたらまずいような事、なんか期待してる?」
「馬鹿」
ハタ君に連れられて入ったのはいかにも大人が使う酒場という感じのバーだった。
バーテンダーとお酒だけ。無駄なものを一切削ぎ落としたようなバー。ヒロシみたいな奴には無縁の場所だ。ハタ君はかなり通い慣れている感じだった。
「いつもこういうところに来てるの?」
「いつもじゃないよ。たまに」
「ナツコとも?」
「昔はね。最近はあまり来ない」
「ふーん、いかにも女の子を口説くためのお店って感じだもんね」
私は改めて店内を見回した。
「そうそう。だから今日はここに来たんだ」
ハタ君は悪気もなくそう言った。
遊び人。キリリとしたネクタイに高そうな腕時計。清潔そうな黒髮にほっそりとした体格、長身。顔もまぁ悪くないし、それなりに女の子と遊べる事も理解できる。
全く、ナツコも男を見る目がない。何故こういうタイプを結婚相手に選ぶんだ? 傷つくだけなのに。
おそらく結婚後も構わずこのバーで何人もの女の子を口説いているのだろう。その燃えるような積極性を少しでもいいからダンデの奴に分けてやってほしい。そう言えばあいつ、最近どうしているのだろう?
「そんなに警戒するなよ。とりあえず乾杯」
そう言ってハタ君が私のグラスに自分のグラスを合わせる。琥珀色の液体がその中で少しだけ波打った。
「シズカさんってナツコと同い年なんだよね?」
「そう。小学校の同級生だからね。ナツコは院卒らしいから私の方が入社は早いけどね」
「そうか。俺はナツコと同期だから二つ上の代なんだな」
「あっ、そう言われたらそうだ。ハタ君、後輩じゃない。なのにタメ口」
「俺も院卒だよ。だから年は二人と同じ」
「なんだ。そうなの」
少し残念だった。本当はもっと生意気を責め立ててイジメたかった。琥珀色の液体を胃に流し込むと少し身体が熱くなった。こういうお酒はどうも飲み慣れない。ビールの方がいい。
「俺、シズカさんと一度話してみたいと思ってたんだ」
「へぇー。何で?」
「だっておもしろそうじゃん」
「私のどこがおもしろいのよ」
「いや、独特の空気を放ってると言うか……一回さ、ビーサンで出勤してた日なかった?」
ナツキの家から出勤した日だ。こいつよく見ていやがる。
「忘れちゃったわよ。そんな事あったかナァー」
私はとぼけた。
「絶対あったよ。俺、覚えてるもん」
「記憶にございません」
「あー、そう。ねぇ、シズカさん、二つ上って事はもしかしてナツキさんと同期?」
意外な名前が出て来て驚いた。
「そうだよ。なんでナツキの事なんて知ってるの?」
「やっぱりそうだ。だってナツキさんって俺らの代では有名だよ。すごい美人だしさ」
それを聞いて椅子からひっくり返りそうになった。
「ね、ちょっと待って。それって誰かと勘違いしてない? 本当に私の同期の安藤ナツキの話?」
「そうそう。安藤ナツキさんだよ。やっぱりその世代か」
「ナツキって……美人なの?」
「えっ、普通に美人じゃない」
「そうなの? まぁ、男の言う美人と女の言う美人は違うとも言うし……」
「同期の女の子達もみんな言ってるよ」
「あ、そう……」
そう言って私はテーブルの上のナッツに手を伸ばした。ナツキがそんなに後輩から人気だなんて全然知らなかった。美人だなんて考えた事もなかった。私の感覚がズレているのか? 正直言って少しだけ悔しくもある。
「それだけに今回の事、びっくりしたよ」
「何が?」
「いや、ナツキさんの事」
「何? ナツキに何かあったの?」
「あれ? 聞いてないの?」
「何も聞いてない。何なのよ」
嫌な予感しかしなかった。
「殴ったらしいよ。隣の部署のシラトリさんって人を」
「殴った?」
突拍子のない話でびっくりした。
シラトリさんなら私も知っている。同じく同期の女性社員で、少し嫌味なところがある子だ。顔は可愛いのだがあまり好きになれないタイプだった。
「何か事務所で口論になって殴ったらしいよ。周りが止めに入ったから大きな怪我とかはなかったみたいだけど、シラトリさんは凄く怒ってて、訴えるって言ってるみたい。それで結局ナツキさんは停職処分になって今は会社に来てないらしいよ」
「停職処分? それいつから?」
「さぁ、先週くらいの話だと思うけど」
「何でまたそんな事……」
「俺も人伝だから詳しくは知らない」
ナツキの奴、大丈夫だろうか? そんな事があったのなら電話くらいくれたらいいのに。一人で大丈夫だろうか? あんなに好きだった美容師の彼氏ももういない。おそらくナツキにも今寄りかかれる柱なんてないはずだ。
「ねぇ」
横から呼びかけるハタ君の声で我に返った。ちょっとの間考え込んでしまっていたらしい。
「あ、うん。ごめん」
「ナツキさんの話はもういいじゃない。もっと明るい話しようよ」
「……うん」
「何? そんなにナツキさんの事気になる? シズカさん、もしかして結構仲良かったの? あの人美人だけど友達とかは少なそうなのに。なんか意外だなぁ」
少しむっとしたが、それが何故かは自分でも分からなかった。何だか急にこのままここにいる事が嫌になった。ナツキの声が聞きたかった。
「ごめん、ハタ君。私やっぱり帰る」
「えっ? 何で? ナツキさんの話で気悪くした?」
「別に。ハタ君は起こった事を教えてくれただけでしょ? それで気悪くしたりしないよ」
「じゃなんで?」
「ごめん」
そう言うと私は席を立った。
「待てよ」
ハタ君が私の腕を掴んで顔を覗き込む。その目を見て私は思った。この人はこんな状況にも関わらず、まだ私の事を今夜どうにかしたいと思っているみたいだった。見上げた積極性だ。ダンデ、これだよ。あんたに足りないものは。これだよ。
でも私はもう一刻も早くここから立ち去りたかった。
「お金は今度返す。今日は帰るわ」
諭すように言って掴んだ腕をゆっくりほどくと、流石にハタ君も諦め、テーブルの上の煙草に手を伸ばして火をつけた。
「いいよ。お金は。気をつけて帰って」
「うん、ありがとう」
まだまだ納得のいかなさそうなハタ君を置いて私は店を出た。とにかく早く帰りたかった。とにかく早く帰ってナツキに電話をかけたいと思った。素敵な言葉なんてやっぱり浮かんでこないけど、とりあえず何か話さないとこのまま永遠にナツキを失ってしまいそうな気がしたのだ。
しかし、またしても私はナツキに電話をかける事はなかった。
急いで帰ったマンションのドアの前、ナツキが膝を抱えて座っていたのだ。