歌姫 3
ある日、仕事が思ったより早く片付き、時間が空いたので最寄りのタワーレコードへ寄った。
私はあまり音楽を聴かない。
一応持っている音楽プレーヤーだってもう一年近く更新していなかった。でもそれは別に音楽が嫌いだとかそういう訳ではなく、十代の頃なんかは人並みにヒットチャートや流行を気にしたりしながら音楽を聴いていた。今でもたまに(本当にごくたまにではあるが)こうしてCDを買いに行く事だってある。
店内には相変わらずおびただしい量のCDが陳列されていた。最近はCDが売れない時代になったという話を前にニュースで見た事がある。「この先、ネット配信が音楽産業のメインになってCDはこのまま姿を消していくのかもしれないですね」なんてキャスターはどちらでも良さそうな言い方で話していた。でもこんな光景を見るとそんなニュースは嘘みたいに思えた。
CDが無くなる。
生まれた頃からCDで音楽を聴く事が当たり前だった私の世代からすると、それはちょっと想像がつかない状況だった。
もっと上の世代だったらレコードやカセットテープ等、時代が変わる境目に立ち合っている。そんな世代はCDが無くなっても同じように「あぁ、今度はそういう事なのね」と簡単に変革を受け入れられるのだろうか。タフな世代だ。それに比べて私の世代は、弱い。
しかし本当にそんな事が起きたらタワーレコードはどうなってしまうのだろう?
ネット配信で事足りるのであれば当然店舗なんて必要無い。今はこんなに明るい店も潰れてしまうのだろうか。ネット配信に敗れ、まるで沈没船の様に真っ暗で、陳列されたCDもそのほとんどが姿を消し、割れたケースやディスクなんかが床に散らばっているタワーレコードを想像する。あの黄色い看板もすすけて横倒しにされていた。なんだか可哀想だ。可哀想なタワーレコード。可哀想な音楽の残骸達。
いや、止そう。
多分だが、そんな時代は来ないはずだ。CDを売っている側も馬鹿ではない。そんな事にならない様にいろいろと考えているのだろう。
店頭にポップで彩られ、ピックアップされているバンド達を私はほとんど知らなかった。
アーティスト写真を見ると、顔つきはまだ若い。おそらく若手のバンドなのだろう。「若手」と呼ばれるミュージシャン達はもう私よりもだいぶ歳下になっていた。
私と同世代だったバンド達はいつの間にか「中堅」になっていた。
輝いていた同世代のバンド達、ミュージシャン達。私が瞬きしている間に彼等の作った時代は歴史になっていた。長い長い歴史の一ページに。
そう言えばヒロシも昔、バンドをやっていたと言っていた。ヒロシのバンド、ヒロシのロック。一体どんな音楽だったのだろう?
一度聴いてみたいな。でも駄目だろう。例え音源があったとしても、ヒロシは私には絶対それを聴かせてくれないはずだ。
彼の性格から考えるとおそらく速く、激しい音楽だったのではなかろうか。でもそういう音楽はロックでなくてパンクと呼ぶのか? 私はロックとパンクの違いがよく分からなかった。
そんな事を考えて店内を歩いていると、棚にザ・パートナーシップのCDを見つけた。私が昔好きだったバンドだ。
パートナーシップは変わったバンドだった。
メンバーは男女六人で、全員がバンドでのデビュー前からそれぞれで活動をしていた。ある人はソロで、ある人はプロデューサーで、またある人はスタジオミュージシャンで。彼等がデビューしたのは私がちょうど大学を出て働き出した頃だった。
デビューアルバムの「ダンス・ダンス・ダンス」は当時ちょっとした話題になり、それなりにヒットした。
それは一般大衆に受け入れられるようなポップな内容では無かったが、ボーカルの女の人の歌唱力や重鎮批評家の後ろ盾もあり、マニア層には大いに受けた。その当時、このアルバムを聴いているという事が「通」っぽくて格好良かったのである。だから私もそれに乗っかってこのアルバムを聴いていた。
その次のアルバム「ロングバケーション」はもう少し大衆寄りな内容で、音もポップだった。だから一般大衆な私は前作よりこっちの方が断然好きだった。この二枚は本当によく聴いた。
しかし続く三枚目の「ロジック」はそんな俄か層を切り落とすようなマニアックなアルバムだった。アルバム発売前、作詞を担当しているメンバー(名前は忘れたが、詩は全てこの人が書いていたらしい)がラジオで「今回のアルバムはかなり難しいので心して聴いてください」と言っていたのを覚えている。その言葉通りの難解なアルバムで、私は良さが全然分からなかった。そしてそれを機になんとなくこのバンドから離れていってしまったのだ。
陳列された棚から「ロングバケーション」を引き抜いてみる。すらっとした女の人が草原でゴルフのスイングをしているジャケット。懐かしい。多分探せば家にまだあるはずだ。
一枚だけ知らないアルバムがあった。「べべ」というタイトルのアルバム。そう言えば私が離れた後にもう一枚アルバムを出していたような気がする。手に取ると白地にタイトル(bebeと書いてある)とバンド名だけが書いてあるシンプルなジャケットだった。
私はそれを手に取る。
ヒロシは相変わらず働き出す素振りを見せなかった。
相変わらず金髪だったし、生活態度からしてもそんな事を考えている人間にはとても見えなかった。
帰りが遅い日もちょくちょく出てきた。帰ってきた様子を見るとおそらくどこかで酒を飲んできているのだろう。そんな金が何処から出ているのだろうか、とも思った。今のヒロシには収入源なんて無いはずだ。東京にいた頃の貯金を切り崩しているのであろうか(そんなものがあるとも思えないが……)変なところからお金を借りたりしていないだろうか。それだけはちょっと嫌だった。
でも私は何も聞かなかった。
別に聞きづらかった訳でなく、単純にあまり興味を持てなかったのだ。普通、一緒に住んでる人間にここまで無関心になれるのだろうか。ちょっとそんな事も考えたが、結局は何もしなかった。
私も相変わらずだったのだ。
毎日家に帰ると私はステレオを点けてこの前買ったパートナーシップのアルバムを聴いた。昔聴いた前作「ロジック」に比べるとかなり聴きやすい内容だった。前作のマニアック過ぎた内容に対してメンバー達も「これは少しやり過ぎた」と反省したのだろうか。しかし歌詞は相変わらず意味がよく分からなかった。おそらく、こういう難しい歌詞を世間では「文学性の高い歌詞」と言うのだろう。多分私には一生分からない。
歌詞カードに目を通すとメンバーの名前が一番最後のページに載っていた。
初めて知ったのだが、ボーカルの女の人の名前は「ナツキ」だった。
あのナツキと一緒。なんだか可笑しかった。だって、私の同期のナツキはとんでもなく音痴だったから。前に何回か一緒にカラオケに行った事があるのだが、酷かった。しかも本人はまったくそれに気づいていないのだ。それが更に酷かった。
しかもパートナーシップのナツキはどこかミステリアスな雰囲気の、すらりとした美人だった。まったく、同じナツキなのにこんなに差が出るものなのか。あの歌姫とナツキでは雲泥の差だ。月とスッポンだ。
今頃ナツキの奴、東京でクシャミでもしているかもしれない。
そこでヒロシが帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
キッチンに行くために私を横切った時、煙草の匂いに紛れて微かながらお酒の匂いがした。また飲んできているのだ。
「御飯は? どうする?」
答えは分かっていたが私はあえて聞いた。
「いらない。外で食べてきた」
「あ、そう」
「何の音楽?」
ヒロシが冷蔵庫から取り出したボトルの水を飲みながら聞く。
「パートナーシップ。この前買ったの」
「ふーん。ここ最近ずっとそれ聴いてるよな。パートナーシップ好きなの?」
「昔ね、好きだったの」
「そうなんだ。あぁ、確か今は活動休止してるんだったよな」
「えっ、そうなの?」
「うん、何年か前からだよ。確か」
「全然知らなかった」
「俺はあんまり好きじゃないなぁ。いかにも頭がいいバンドって感じで好きになれない」
「そっか。ヒロシがやってたバンドの方が良かった?」
「いや、それはない。俺がやってたバンドは史上最低のバンドだったと思う」
と、ヒロシが笑う。私は何故だかヒロシよりヒロシのやっていたバンドの方に興味を持てた。
大阪の事務所にもすっかり慣れた頃、同じ事務所の別部署に偶然小学校の同級生がいる事を知った。廊下で声をかけられて最初は分からなかったが名前を言われたら思い出した。
小学校の頃は短い髪で男の子みたいだったナツコは二十年近くの歳月を経てすっかり女らしくなっていた。
「ナツコってあのナツコ? うわー、すごい偶然ね」
意外な再会に私は驚いた。
「ほんまにすごい偶然。小学校の卒業式以来? シズカはあんまり変わらへんなぁ」
変わらないという言葉を良い意味で取ればいいのか悪い意味で取ればいいのか分からず、とりあえず私は笑っていた。
何となく話が盛り上がり、その日の夜、ニ人で飲みに行くことになった。
ほんの昨日まで完全に私の人生の範囲外にいた人とチェーン店の居酒屋で向かい合ってお酒を飲む。何だか不思議な気持ちだった。
「この前東京から転勤してきたんやんな?」
「そうだよ。ナツコはずっと大阪?」
「うん、私はずっと大阪。大学もこっちだったし。私、大学院まで行ってたから入社はシズカより何年か遅いはず」
「私は大学から東京に出てたの。大学院なんてすごいなぁ」
「大した事ちゃうよ。そうやんな。すっかり標準語やもんね」
「東京暮らしが長かったからね。大阪にも全然帰ってなかったし」
ナツコはあまりお酒に強くないのか、甘そうなカクテルをちびちびと飲んでいた。それが更に女っぽかった。その薬指に銀色の指輪が光っている事だってすぐに気づいた。
「ナツコ、結婚してるの?」
「あ、うん。去年結婚してん。相手は会社の同期よ」
「そうなんだ。同期で付き合ってたんだ」
「うん、そうやねん。大阪の事務所の人よ」
そう言われて聞いた旦那さんはなんと私と同じ部署の人だった。それにしてもナツコが結婚か。すぐにイメージができなかった。
小学生の時のナツコは男の子みたいな見かけだったが、内面はもの凄く恥ずかしがり屋な女の子だった。
体育の授業の前後に着替えをする時、男子にパンツを見られる事をいつも気にしていた。他の女の子(私もだ)は恥ずかしいは恥ずかしいが何となく素早く脱いで着て誤魔化して着替えるのだが、ナツコだけはわざわざ水泳の授業の時に使うような大きなタオルを腰に巻いて男子の目線をガードしていた。
男の子みたいなナツコのパンツを男子が見たがっていたのかどうかは疑問だが、私にとってのナツコはその大きなタオルの印象が強かった。
そんな恥ずかしがり屋だったナツコが結婚か。と言う事は当然旦那さんとセックスだったりなんかもしているのだろうな。今でも彼女は変わらず恥ずかしがり屋なのだろうか。恥ずかし気な顔で「電気は消して……」なんて言って、全部終わった後はまたあの大きなタオルを腰に巻いて脱いだ洋服の一番下に隠しておいたパンツをそっと履くのだろうか。旦那さんであろうとその色を知らない純粋なパンツを。
確かめてみたくなったが止めておいた。
「シズカは? 結婚してるん?」
「ううん。してないよ」
「そっか。彼氏とかは?」
「まぁ、一応いる」
「そうなんや。まだ結婚しないん?」
「うーん、あんまり考えてないなぁ」
最近何だかこんな話ばっかりだ。そういう年頃なのだろう。しかし、みんな全然分かってない。彼氏と言っても世の中にはいろいろな彼氏がいるのだ。
「えー、そうなん? なんか事情でもあるん?」
「別に特別な事情がある訳じゃないよ。今すぐ結婚したいと思わないだけよ」
「そうなんや。今は仕事一筋、みたいな?」
「うーん、別にそういう訳でもないんだけどね。気持ちが向かないだけよ」
「ふーん、何か相変わらずやね。シズカって小学校の時からそういうちょっと摑みどころのないところがあったもん。普通の価値観じゃないと言うか何と言うか」
悪気がない事は分かっていたが私はちょっとむっとした。そう言えばナツコは昔からこういう奴だった。悪気なく思った事を素直に口にしてしまうのだ。
「普通の価値観って何よ。結婚ってそんなに大事なの?」
ジョッキの中のビールを飲み干して言う。言った後で何となく負け惜しみみたいな台詞になってしまっていた事に気づく。
「そりゃ、これくらいの年齢の女子ならみんなが意識するんやないの」
「ナツコは何で結婚したの?」
「私? 改めて聞かれると難しい質問やなぁ。そうやなぁ……言うなれば自分の人生に柱を作りたかったからかな」
「柱?」
「そう、柱。私ね、人生には誰しも丈夫な寄りかかれる一本の柱が必要やと思うねん。いざという時にそういう柱が無いと、本当に追い込まれた時に人は踏ん張っていけない気がするねん。で、私にとってそれは旦那さんやったってわけ」
「柱……かぁ」
「中には自分自身が柱やったりする人もいるんやろうけどな。もちろんそんな強い人はなかなかおらんやろうけど」
「つまりは何か揺るぎないものが欲しかったってわけね」
「まぁ簡単に言うとそういう事。そういう気持ち、分かる?」
「ちょっと分かる気がする」
「そう。それなら良かったけど」
会の後半はあまり盛り上がらなかった。もともと私達に共通の話題なんてほとんど無いのだ。大阪の事務所の違う部署の事なんてあまり知らないし、小学校の思い出だって口に出して話したい事なんてあまり思い浮かばない。
そんな事より私は私にとっての「柱」の事を考えていた。
目の前のナツコを忘れて頭の中でそれを探した。古い記憶も楽しかった出来事も、全部ひっくり返してみた。でも見つからなかった。だって私はそんなもの今まで一度も見た事も考えた事もなかったから。
ダンデがまた大阪に来た。
今度はナツキ経由の連絡も無く急に現れた。外回りから帰ってきたら私の席に奴が座っていたのだ。
「よう、お疲れ様」
「お疲れ様じゃないわよ。あんたまた来たの?」
「あっ、酷い言い方だなぁ。たまにしか会えない同期に対して」
「何がたまによ、この前来たばかりじゃない」
「まぁ、そうだけどさ」
「別にあんたに言う事なんて何もないよ」
「うん、いやそうじゃなくて、あのな」
「あんたね、この前私が言った事覚えてる?」
「覚えてるよ、もちろん。だから今日の出張はただの偶然なんだって」
今日の、ということはこの前のは何だったんだ。と思ったが何も言わなかった。
「シズカ、ちょっと聞けって」
「何を?」
「うん、いやちょっとここじゃまずい」
そう言ってダンデは私の腕を取って会議室に連れて行った。
「だから何よ」
会議室の椅子に座って私は不機嫌そうに言った。ダンデはそんな私の前に座って照れくさそうに話し出す。
「告白したんだよ。俺」
「えっ?」
突然の展開に私は驚いた。
「だから告白」
「告白……って、え? 誰が誰に?」
「お前なぁ。話の流れから考えろよ。ナツキにだよ。俺、ナツキに告白したの」
「うそ……また急になんで?」
まだ驚きが引かない。
「なんでってシズカが言ったんだろ。当たって砕けろって」
「そりゃ確かに言ったけどさ。まさかこんなすぐに当たって砕けるなんて」
「おい。誰が砕けたって言った?」
「えっ! そんなまさか!」
ついつい大きな声が出てしまった。
「失礼な奴だなぁ。当たって砕けろなんてアドバイスしといて砕けるって信じ切ってるなんて」
「いや、でもそんな……だってこの前は彼氏と結婚するなんて言ってたのに急にそんな事。まさか二股? そんな器用な事ができる女には見えないけど」
「待て。勘違いしてる。誰も成功したなんて言ってない」
「え?」
「成功したわけじゃない」
「は?」
「いや、だから。成功したわけじゃない」
「なんだじゃやっぱりフラれてんじゃん」
ここで私は少し冷静さを取り戻した。そりゃそうだ。まったく冗談は止めてほしい。
「違うんだよ」
「何が違うのよ。よく分かんない」
「ナツキ、何も言わなかったんだ」
「何も言わなかった?」
「うん。あぁ、そうって。それだけ」
「何よそれ。ちゃんと告白したの? また分かりにくい事言ったんじゃないの?」
「さすがに俺もそこは間違えない。ちゃんと好きだから付き合ってほしいって言ったんだよ」
「それで……あぁ、そう。だけ?」
「うん」
「そんな事ってある?」
「俺に聞くな!」
「なんだかナツキらしくないなぁ」
「うん、だからシズカだったら何か知ってるかなって思って。何だかナツキ、上の空だったし」
「何も聞いてないよ」
確かにおかしい。そんな事があったらいつものナツキだったら電話を掛けてきそうなのに。そう言えばしばらくナツキから連絡がない。
「シズカ、それとなく聞いてみてよ」
「あぁ、うん。分かった」
いつになく素直にダンデのお願いを聞いてしまう。何となく私も気になったのだ。だから近いうちにナツキに電話しようと思った。
けれども私は結局ナツキに電話をかける事はなかった。ダンデが来た次の日にナツキから電話がかかってきたのだ。
「もしもし。ナツキ?」
その時私は電車に乗っていて、震えた携帯にナツキの名前を見て反射的に途中下車した。
「シズカ?」
「うん。あのさ、ナツキ。あんたさ……」
「シズカ……」
「何? どうしたの?」
「私……彼に……彼にフラれちゃった」
それだけ言うとナツキは泣き出した。それは溜め込んでいたものを一気に吐き出すような、真夏の通り雨のような泣き方だった。
降りた事もなかった名前も知らない駅のホームで私は雨が止むまでずっとその雨音を聞いた。たまに「うん、うん」なんて相槌をうって、ずっと聞いた。