歌姫 2
次の週、またマンションの裏の川に蛍を見に行ったが、蛍はもうほとんどその姿を消していた。
弱々しい緑の光は二、三で、先週より川の音をずっと大きく感じた。私は何となく覚悟はしていたが、ヒロシは目に見えて落胆していた。
だから私はヒロシを家の近くの焼き鳥屋さんに誘った。入るのは私も初めてだが、前から気になっていた店だった。赤い暖簾に古くさい門構え、私はこういった老舗的な雰囲気が好きなのである。
「ほんとにちょっとの時期なんだなぁ」
ヒロシは少し寂しそうにビールを飲みながら言った。
「まぁ時期的にも最後の方だったからね。先週がぎりぎりだったみたいね」
私は壁に貼り付けられたメニューを見ながら言う。
「何でもそうだよな。綺麗なものは一瞬で消えていってしまうんだ。美しくも儚い」
「何よ。ヒロシに似合わずやけに詩的な事言うのね」
私はちょっと笑った。ヒロシと同じくビールを飲んでいた。
「いや……うん、何か切ないなと……久し振りに俺の中の詩的な感性がくすぐられた」
「そんなものがあったなんて全然気づかなかった」
「そうか? 俺、シズカと出会う前、バンドやってたんだぜ。ボーカルで歌詞も全部俺が書いてた」
「うそ、じゃヒロシ歌上手いの?」
「いや、上手くはない。分かってないなぁ。シズカは。ボーカルの良し悪しは歌の上手い、下手じゃない。要は歌に気持ちが入っているかどうかだよ」
ヒロシが煙草に火をつけて言う。ライターを擦るシュッという音がガラガラの店内に響いた。
「ふーん。でも何かそれって逃げみたいにも聞こえるよ」
「まぁ、確かにそうかもしれないな」
「バンドは何でやめちゃったの?」
「簡単な話だよ。要は人気が出なかったんだ。始めた頃はデビューするぞ、何てメンバーで言ってたんだけどね。すぐに駄目だと気づいた」
「諦めが良かったのね。どんな音楽をやってたの?」
「ロックだよ。まぁ最近はロックって言ってもいろいろあるけどね」
「ふーん。ザ・パートナーシップみたいな?」
私はそんなに音楽に詳しくない。知っているバンドの名前を挙げてみた。
「うーん、いや、ちょっと違うな」
「そっか」
焼き鳥は期待していたほど美味しくなかった。だから私達はひたすらビールを飲んでいた。
「ヒロシはさ、これから何をするの?」
少し酔いが回ったのだろうか、純粋な質問が私の中から自然と出てきた。ずっと聞きたかったけど聞けなかった事だ。
「これから?」
「そう。これから大阪でヒロシは何をするの?」
「まだ何も考えてないけど、どうして?」
「どうしてって……」
「お金の事? それならまた適当なバイトでも探そうか?」
「そうじゃないのよ」
「じゃ、何で?」
「もう、いいよ。何でもない。聞いてみたかっただけよ」
私は少し尖った声を出してしまった。それでヒロシも黙ってしまう。少し睨んだような目でこっちを見るから、私は少し怖かった。いざとなると迫力のある男なのだ。
「何かやりたい事はないの?」
しばらくして私は聞いてみた。
「やりたい事かぁ」
「バンドでも何でもいいじゃない」
「いや、バンドはもうやらない。やりたい事か、残念ながら何にも無いな」
「そっか……ゴメン、変な事聞いたね」
私は諦めたように冷たくなり始めた焼き鳥に手を伸ばす。
「シズカは?」
「えっ?」
「シズカはあるの? 何かやりたいこと」
「私は……」
何となく視線に困った私は空っぽになったジョッキの底を覗き込む。そこには白いかすかすのビールの泡が少し残っていただけでヒントになるようなものは何も無かった。こんな問題にヒントを探すようではそもそも駄目なのかもしれないが。
「駄目、思いつかない」
「意外と難しいだろ? この質問」
「うーん。何かよく分からないわ。普通に働いてお金もらって生活してて、何かやりたいことは? なんて言われても何も思いつかないよ」
「そう。そんなもんだよ。ほとんどの人において、欲望なんて短的なものなんだ。明日の朝はドトールコーヒーでモーニングを食べたいとか、来月にリリースされる好きなバンドの新譜が欲しいとか、そんなレベルだよ。欲望を昇華させた立派な目標なんて今時一部の才能のある人間しか持ってないよ」
ヒロシが悟ったような言い方をする。
「うーん、まぁ一理あるかもな」
いつの間にか私が諭されているから何だか悔しい。だいたいお前は働いてすらもないじゃないか。聞きにくい事を聞いたのにすっかりはぐらかされてしまった。
そのうち私達の横に騒がしいおじさん連中がやってきて、ヒロシの機嫌がだんだん悪くなってきたので喧嘩になる前に店を後にした。
マンションに帰ってお風呂の順番を待っているとナツキから電話がかかってきた。
「あんた、よく抜け抜けと電話して来れたわね」
私はリビングのソファに腰かけ、酔い覚ましの水を飲みながらナツキの電話に出た。本当はもう怒っていないのに少しキツめの声を出してみる。
「ゴメン、ゴメン。悪かったわ。あの日はちょっとお酒を飲み過ぎちゃったみたい。普段は絶対寝坊なんてしないのになぁ」
電話口のナツキの声は軽い。
私がもう怒っていない事を見抜いたのか? いや違う。多分ナツキの中でこの前の事はもう過去になって消えていってしまったのだろう。相変わらずのマイペース。もはや怒る気にもなれなかった。
「会社は? ちゃんと定時までに出社できたの? 遅刻しなかった?」
「あぁ、それは大丈夫。間に合ったよ。シズカは?」
「うん、私も間に合った。ちょっと眠かったけどね」
「そっか。良かった」
そこでヒロシがバスルームから出てきた。上半身は裸だが、ズボンをちゃんと履いているだけナツキよりは行儀がいい。鯉の入れ墨が露わになっていた。
バスタオルで髪を拭きながら口パクで「だれ?」と聞いてくるので、同じく口パクで「どうき」とだけ言った。ヒロシはナツキの事をあまり知らない。
「で、どうしたの? 何かあった?」
「うん、明日ね。ダンデがそっちに出張で行くみたいなのよ。昼過ぎに大阪の事務所に行くって言ってたから適当に相手してあげてよ」
「ダンデ? あぁ、そう。また急ね。明日なら予定空いてるから別にいいけど」
ダンデとは私達と同期入社の男である。そう言えば前からちょくちょく大阪に出張していたような気がする。
「じゃ頼んだわよ。確かに伝えたから。今、彼が家に来てるのよ。そろそろ切るね」
「はいはい」
自分から掛けてきたくせに随分な身勝手だ。バイバイと言う前にもう電話を切っていやがる。くそう。私は携帯をベッドの方に投げ捨てた。
「同期、何だったの?」
洗面所に姿を消していたヒロシが歯を磨きながら現れた。
「あぁー、別に大した事じゃなかったわ。明日別の同期が大阪に行くって事を伝えたかったみたい」
「ふーん」
「私もお風呂入ってくるわ」
「うん」
そう言って私はバスルームへ入った。薄く塗った化粧を落として素顔の自分に戻る。鏡を見て溜め込んでいた息を吐いてみる。はぁ。
明日、ダンデが来るのか。ナツキからの電話の訳も、私を訪ねてくる理由も、私にはだいたい全部分かっていた。
翌日、十五時くらいにダンデが現れた。時間すらも止まってしまいそうな退屈な午後だった。こんな事は珍しい。
私は内勤業務をしていて、視界の端で事務所に入ってきたダンデを確認したが向こうから声を掛けてくるまで気づかない振りをした。
私は遠くに見つけた友達に笑顔で手を振るようなタイプの女ではないのだ。
「シズカ、お疲れ様」
ダンデが私の席まで来て声を掛けてきた。
「あら、あら、久しぶりね。お疲れ様」
と、あたかも今気づいたかのように。
「大阪には慣れた?」
「うん、ちょっとずつね」
「それは良かった。今日は忙しいの?」
「ううん、全然。こんな暇なの珍しいくらいよ」
「じゃちょっとお茶でも飲みに行く?」
「いいわよ」
私は財布だけを持って事務所を出た。
事務所の向かいに喫茶店がある。昼はランチ営業をやっているような昔ながらの喫茶店だ。ダンデと二人で席に着く。
同期のダンデ。入社当初はダンデライオンと呼ばれており、それが長いのでいつの間にかダンデに略された。何故ダンデライオンなのかはもう忘れてしまった。くだらない奴が考えたくだらない理由だった気がする。
耳が隠れるくらいの黒髪に茶色のフレームの眼鏡、入社時から比べると少し肉が付いたが、元が痩せすぎていたので今でも太っているという印象は無かった。同期の中でも割と中心的な男で、話しやすい性格からか友達も多かった。
「それで? 何か私に聞きたい事があるんじゃないの?」
私はアイスコーヒーにシロップを入れながら目を伏せて聞く。
「んー? なんの事かな?」
「とぼけたって無駄よ。あのさ、もう何回このやり取りやってるのよ」
「ばればれか」
「当たり前でしょ。だいたい昨日だって何でナツキを通して連絡する必要があるのよ。直接私に連絡すればいいじゃない」
「まぁ……ね」
「どうせ私を口実にしてナツキと話したかっただけでしょ。シズカの番号消しちゃったからナツキから連絡してヨー、なんて言ったんでしょ?」
「まったく。ほんと、シズカには敵わないなぁ」
「あんたね、もういい歳なんだから女の子くらいちゃんと正面から口説きなさいよ」
「まぁ……そりゃそうなんだけどね」
ダンデは入社してすぐにナツキに恋をした。
もう何年も前の事だ。しかしこの男は恋愛には奥手な性格で、未だにナツキに近づききれていないのだ。彼としてはちゃんとアプローチをしているつもりなのだろうが、押しが弱すぎてナツキも含めて誰も気づいていない。彼の秘めた想いを知っているのはおそらく私くらいだと思う。それも打ち明けられるまでまったく気付かなかった。
そして、そうこうしているうちにナツキに彼氏ができて、それでも諦められないダンデは定期的に私にナツキの近況を聞きにくるのだ。ヒヤリングというやつ。いわば私はスパイだ。そんな事をして何の意味があるのか私には全く分からないが。
「それで、ナツキは最近どうなの? 彼氏とは上手くいってるの?」
「あのね。いつも言うけど、直接聞きなさいよ」
「そんな事言うなよ。俺はシズカだけが頼りなんだから」
ダンデが困ったような顔をする。
「頼りになんてしないで。あんた本当にこのままじゃ一生ナツキと結ばれないよ」
ちょっとキツく言い過ぎた。ダンデの顔が暗くなる。黙ってアイスコーヒーをストローで吸っていた。
「あのね、ダンデ。私は何もあんたが嫌いでこんなキツい言い方してるんじゃないのよ。私はあんたに幸せになってほしいのよ。だからいつまでもこんな事続けないでほしいの」
「分かってるよ。俺だって本当はこんな事したくない」
「ナツキ、結婚しちゃうかもしれないよ」
「えっ、どういう事?」
ダンデが驚いて店内に響き渡るくらいの大きな声を出した。
「ちょっと、ちょっと、静かに」
「なんで? そんな話があるの?」
ダンデは目に見えて焦っていた。
「落ち着いてよ。なんでって、そりゃずっと彼氏がいるんだからいつかはそういう話になるわよ」
「そんな具体的な話になってるの?」
「そこまでは私も分からないわよ」
「そう……なんだ……」
「ちょっと、しっかりしなさいよ。完全に決まった訳では無さそうだし、まだチャンスはあるわよ」
ダンデがあまりにも大丈夫じゃなさそうだったので私はとりあえずフォローした。
「そうか……でも正直ショックだな……」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ。いい加減に当たって砕けなさい」
「そんな事言って本当に砕けたらどうするのさ」
「それはもう仕方ないじゃない」
「今までの関係は? それも砕けちゃうの?」
「どうだろ。でもまぁ完全に元どおりには戻らないかもね」
ダンデは氷しか入っていないコップをストローで突き、黙っていた。
何かを考えているようだった。大きな氷が小さなコップの中をからからと回る。コップは彼等の汗で濡れていた。
「なぁ、シズカ。たった一つの気持ちだけを抑えて友達のままでいるっていうのはそんなに間違った事なのかな?」
「間違ってるとは言わないよ。でもあんたが本当に望んでるのはそれじゃないでしょ? その事実は間違いなくいつかあんたを苦しめるよ。音楽に関わる仕事をしたいって思っても、音楽を作るミュージシャンとそれを管理するレコード会社の社員とでは全然違うでしょ? それと一緒よ。みんな何かしらそういう妥協を受け入れて生きてるけど、あんたはまだ間に合うでしょ。だってナツキはそこにいるんだから」
「うーん、まぁそうか……そうだよな」
「そうだよ。言っちゃえ」
私もアイスコーヒーを飲み干してダンデのマネをして氷をストローで突く。
「ありがとう。うん、何だか今度こそ本当に頑張ろうという気持ちになったよ」
「なら良かった。頑張って」
「ありがとう。あーあ、俺もシズカみたいにモテたらこんなに悩んだりしないんだろうなぁ」
そう言ってダンデが伸びをする。
「ちょっと待って、私がいつモテた?」
「えっ、だって前にナツキが言ってたよ。シズカは昔からすごくモテるって」
「あいつ……ねぇ、前から聞こうと思ってたんだけどさ、ナツキのどこが良いの?」
「うーん、あの自分を曲げないとこかな。そこが何だか可愛らしい」
自分を曲げないか、なるほどそういうふうに言えば確かに聞こえは良い。
それから少し経ったある日、警察から電話がかかってきた。
用件を言われる前に私はだいたいの事を察した。またヒロシが酒に酔って喧嘩したのだ。
こういう事は初めてでは無い。東京にいる時も何度か同じ様な事があり、その度に警察までヒロシを迎えに行った。
大阪に来てからは初めてだった。でも遠からずそんな日が来るだろうなぁ、と思っていたので特別な驚きは無かった。ヒロシのいる警察の場所を携帯で調べるとマンションからはバスに乗らないと行けない場所だった。時計を見るとまだ何とかバスで往復できそうだった。
警察へヒロシを迎えに行く途中、私はいつも「会ったらまず何て言うべきなんだろう」と考える。今日だってそうだ。私は乗り慣れないバスの後部座席に腰掛けて一人、言葉を探した。
「喧嘩は駄目だよ」
何かが違う。私はヒロシのお母さんじゃない。
「二人のこれからの為にも、もうこんな事はやめて」
この台詞にはなんといっても涙が必須だろう。でも残念ながら涙は出なさそうだった。それに「二人のこれから」って何だ? いったい私はヒロシと二人で何になりたいというのだ?
そんな事を考えているといつも、私ってヒロシの何なんだろう? という考えに行き着く。
恋人。単純な括りだがもちろんそれもある。でも何かそれ以上のような、もしくはそれ以下のような気もする。不思議な感覚だった。
私だってもう三十だ。それなりに恋をしてきた。もちろん恋人だって何人かいた。でもこんな感覚はヒロシ以外からは感じた事が無かった。
私はヒロシの事をどう思っているのだろうか? 私達はこれから何処に行き着くのだろう?
今日みたいな事があったからでは無いが、市営バスの車窓から流れていく家々の明かりを見ているとそんな思いが頭をよぎる。
警察へ行くと片頬を腫らしたヒロシが出てきた。
酒臭い。警察官の人にお詫びをして、簡単な手続きをした。私はこの一連の流れにも慣れつつあった。外に出ると夏空。今日も星が綺麗だった。
あんなに考えていたのに最初の一言がまだ出て来ない。黙って二人でバスの座席に並んでいた。
このバスが今日の最終バスだった。
「ほっぺた、痛そうね」
沈黙が嫌で、私はどうでもいい事を言う。本当はもっと適切な言葉があるのだろうに。今日も結局思いつかなかった。
「うん、痛い」
「派手にやられたの?」
「まさか。相手はこんなもんじゃ済んでないよ」
「ふーん」
私は興味が無さそうな空返事をした。本当に興味が無かったのだ。
「ふーんって何だよ」
喧嘩の余韻が、ヒロシはまだ尖っている。
「何で喧嘩したの?」
「うん……ん、何でだっけな? 忘れた」
「せめてそれくらい覚えておきなさいよ」
「次からはそうするよ」
それ以上は何も話さなかった。家に帰るとヒロシは疲れていたのかすぐに眠ってしまった。
私は何故だか分からないけどナツキに電話した。
ナツキは三コール目で電話に出た。明るい声だった。
「珍しいわね。シズカから電話してくるなんて」
「そうかしら」
「そうよ。だって、いつも私からじゃない」
「うーん、そう言われるとそんな気もしてきた」
「どうしたの?」
「別に、何も」
「あら」
「何よ、用が無きゃ電話しちゃ駄目?」
「あらあら可愛い事言うのね。そういう事は私じゃなくて彼にでも言ってみなさいよ」
そう言われてさっきの自分の言葉が意外と可愛い台詞だった事に気づき少し恥ずかしくなる。
「シズカ、もしかして寂しかった?」
「別に」
「そんな夜もあるよ。誰にでもある」
「だから違うって」
ナツキは構わず続ける。
「でもね、絶望なんてたった一瞬の通り雨よ。人は悲しいくらい忘れてく」
ナツキの言葉に私は少しむっとした。
「通り雨だろうがなんだろうか、雨に打たれてない人間にはその冷たさも、痛さも、何も分からないでしょ。当事者にはそれが止むかどうかなんて分からないんだから。いつかは止む、みたいな優しい言葉だって気休めにもならないんだから」
私は少し感情的な話し方をしてしまったが、ナツキは落ち着いて続けた。
「うん。でもね、それでも止まない雨は無いのよ。今はそうは思えないかもしれないけど」
電気を消した深夜の部屋。外を行く車のライトが天井を照らし、部屋の中はまるで水族館みたいだった。
「ナツキ」
「うん?」
「ごめんね。ありがとう」
「いいのよ。そっちは雨?」
「ううん、雨は降ってない。あ、いや……今降り出したみたい」
私の声が消え入る。窓の外は月明かりで青かった。