歌姫 1
しまった、と思った時にはすでに蛍は私の指をすり抜けて森の方へ飛んで行ってしまっていた。
声をかけられ後ろを振り向こうとしたほんの一瞬の隙だった。か細い光が夜の闇を自由に泳いでいく。小さなその背中。
私と森の間には川が流れている。その上を何匹かの蛍が舞い、水面に薄い緑がぼんやりと映っていた。森の中にはそれよりももっと沢山の蛍が飛んでいるのが見える。
「逃げられた?」
後ろからヒロシが再び声を掛けてくる。振り返ると煙草の火を河原の石で消していた。こんな暗闇でもヒロシの金髪はよく目立つ。
「うん、逃げられちゃったよ」
「むしろよく一瞬でも掌の中に捕まえられたもんだ。俺にはとても出来ない」
「コツがあるのよ。コツが。小さな頃やらなかった?」
「ううん。俺ってさ、ほら都会育ちだから」
森の方から野鳥が飛び立つ音がした。足で思い切り枝を蹴り、ばさばさと羽を広げて飛んでいく音。姿が見えないぶん不気味だった。それに私はもともと鳥が好きじゃない。
森はその存在自体を圧倒的な闇に覆われていた。木々は背が高く、そのシルエットだけが闇に黒く縁取られていた。風はたまに思い出したかのように真っ黒な葉を揺らし、もののけの鳴き声のような不思議な音を鳴らした。
この森の奥には邪悪な何かがいる、と私は思った。
それは私と同じ様に息をする生き物であり、同時に得体の知れない何かであると、私は勝手に確信をしていた。しかしもちろん姿形は見えない。
闇に覆われた森は美しかった。
私はそれを見つめ、恐怖と美しさを半分半分に感じていた。蛍は灯りを点けたり消したりして飛ぶので、その数が増えているのか減っているのかよく分からなかった。
「俺、こんなにたくさんの蛍初めて見た」
気付いたらヒロシも煙草を吸うのを止めて目の前に虚ろう初夏を眺めていた。
「目に焼き付けた?」
「うん、これはちょっとやそっとじゃ忘れない」
「それは良かった。蛍の季節は短いからね」
「来週もまだ見れる?」
「さぁ、どうかな? もしかするともう駄目かも。でも近いから来週もまた見に来ようか」
「うん」
「東京にはこういう場所はあんまり無いのかもね」
「うーん、少なくとも俺が小さい頃住んでたあたりにはなかったよ。大人になってからは蛍の事なんて考えた事がなかった」
「そっか。まぁ、そうだよね」
川の流れは穏やかだった。私は少し足をつけてみようかとも思ったが止めた。しゃがみ込んで片手だけ水面に触れてみる。
流れはさらさらと私の指を無視して行った。思っていた以上に冷たい。
しばらくしてヒロシが立ち上がる。
「さ、そろそろ行こうか」
「うん、そうね」
私も立ち上がる。指先は冷たかったが、こめかみに少し汗が滲んでいる。それに気付いたら、急に夏の匂いが鼻についた。
そして私達は帰路につく。散りばめられた細やかな星が頭上に見えた。
「大阪には慣れた?」
ごつごつした足場の悪い川原の帰り道、斜め前を歩くヒロシに問いかけてみる。
「うーん、まだ慣れないなぁ。話し方とかさ。みんななんか怒ってるみたいに聞こえる」
「あぁ、それは分かる。私も慣れない」
「でもシズカは高校を出るまではこっちだったんだろ?」
「うん、でもその後の東京暮らしが長かったし、こっちのことなんてあんまり覚えてないよ」
「そういうもんか」
「東京の方が好きよ」
「ふーん」と言ってヒロシはまた煙草に手を伸ばした。
私達はつい一週間前に東京から大阪へ移って来たばかりだった。
理由は私の転勤だ。
私は大学を出て就職してからずっと東京で働いていた。
大学も東京だったし、働いていた会社の本社も東京だったのでごく自然に東京での暮らしに落ち着いていた。だからまさか今頃になって急に大阪転勤を言い渡されるなんて、少し驚いた。
ヒロシの言う通り、私は高校を出るまではこっちに住んでいた。だから一応出身地は大阪という事になるのだろう。
大阪に帰ってくるのは本当に久しぶりだった。多分、十二年か十三年ぶりだ。だから私としてはそれはもう「帰ってくる」という感覚ではなかった。気持ちとしては「見知らぬ土地に放り出されてしまった」と言う方が正しいくらいだ。
それに私には帰る場所なんてなかった。
両親とは東京の大学に行く前に揉めてそれ以来絶縁状態だし、高校までの友達なんて誰一人として会いたいとは思わない。だからそういう意味ではヒロシが居てくれて良かったのかもしれない。
私が大阪に転勤になった事をヒロシに伝えたら、私達はそれでもう終わると思っていた。でもそれも仕方ないかなと思っていた。
ヒロシとは東京の夜に何となく知り合い、何となく気が合って、そして何となく一緒に暮らしていたが、お互いにそこまでの執着は無いと思っていた。
だからヒロシから「一緒に大阪に行きたい」なんて意外な答えが返って来た時は少し驚いた。
「なんで? だってヒロシ、大阪なんて縁も所縁もないでしょ?」
東京で暮らしていた古惚けたマンションの小さなベランダ。
ヒロシは煙草を吸って、私は残り少なくなったビールの缶をくるくると回していた。春過ぎの夜で、少しずつ暖かくなってきた頃だった。
「うん、まぁ、大阪には縁も所縁もないよ。俺、生まれてからずっと東京だし。だけどさ、一緒に行きたいんだ。シズカと一緒に。今なら動きやすいし。バイトだって多分すぐ辞められるし」
「ふーん」
一緒に、なんて言われると弱かった。私だって一応女なのである。
「ふーんって何だよ。嫌?」
「嫌じゃないよ。でもいつ帰って来れるかも全然分からないよ? それでもいいの?」
「別に構わないよ」
「分かった」
「で、いつ引っ越すの?」
「ん、三週間後かな。急でしょ」
「十分だよ。もっと早くてもいい」
ヒロシは今年で二十九歳、私より一つ歳下だ。
高校を出てからは転々と職を変え、そうこうしているうちに親とも折り合いが悪くなり絶縁。孤独になった。
私と知り合った頃はどこかの工場で品出しのアルバイトをしていたが、今はコンビニと雀荘のアルバイトを掛け持ちでしているらしい。知り合ってから髪はずっと金髪。右腕にはびっしりと鯉の入れ墨が入っていた。
悪そうな付き合いも多く、たまに紹介される友達は誰も彼も真っ当な仕事をしている様には見えなかった。ヒロシ自身も気性が荒く、たまに酒の場で隣の客と喧嘩になったりもした。本当にどうしようもない奴なのだ。でも困った事に私に対しては優しかった。
そして予定通り私は転勤前の準備を整え、ヒロシはコンビニと雀荘のアルバイトを辞めニ人で大阪へ移った。
慣れない事も多いが押し出されるように生活は進んでいく。でも地方転勤のお陰で家賃補助も思っていたより出て、東京にいた頃よりもランクの高いマンションに住むことができたのだし、こうしてタイミング良くマンションの裏手を流れる川で蛍を見れたのだから、とりあえず順調なスタートが切れたと考えても良いのだろう。
私達は暗がりを抜けて薄黄色のライトが灯る家路を一歩、一歩と歩いていった。
まだ夏の始まりだった。
転勤から一ヶ月も経たないうちに私は東京本社に打ち合わせで呼ばれた。
ついこの間まで働いていたはずなのに、最寄り駅を降りると街並みが妙に懐かしかった。
しかしまさか転勤してからこんなに早くに呼び出されるとは思わなかった。大阪の上司からは「まだ引き継ぎが終わってないの?」と嫌味を言われてしまったが、引き継ぎはちゃんと終わっているのだ。
今日呼ばれたのは新しい案件の相談だと聞いている。でも大阪の上司からしたらむしろそっちの方が面白くないだろうと思い何も言わなかった。
だから私は「期限通りに引き継ぎも終えられない奴」と、転勤早々に新しい職場での評価を無駄に下げてしまったのだ。
まったく、簡単に呼び出してくれるが本社の連中はそういうところに気が回らないのだろうか?
腹が立つので今日はビーチサンダルで出張してやった。
真っ赤なビーチサンダルで、去年海へ行く為に買ったやつだ。まだ一度しか使っていないので新品同様に綺麗だ。アイボリーのビジネスパンツに良く似合う。それに足が涼しくて楽だった。
通い慣れた本社ビルの正門に社員証を当てる。カードリーダーは快い音を鳴らして私を受け入れてくれた。向かう古巣の部署は四階なのだが、私はエレベーターを使わずに運動がてら階段を使った。ここに勤めていた時からずっと続けていることだ。古い大理石の階段を一歩ずつ上がると、まるで転勤だとか引っ越しだとか、この一カ月の事が全て嘘だったかのように思えた。それくらい私はこの場所に慣れ親しんでいたのだ。
そんな事を考えていたら不意にビジネスパンツに浮かぶ(おそらく浮かんでいたのだろう)下着のラインを後ろから誰かに指でなぞられた。
「きゃっ」
不意打ちだったのでつい女の子みたいな声を出してしまう。振り向くとナツキがいた。
「あんた……」
「お元気そうで」
とナツキが不敵な笑みを浮かべる。
「そっちこそ」
「今日はどうしたの? 引き継ぎ?」
「まったく、みんなして同じような事言う。引き継ぎはもうとっくに終わってるわよ。今日は新しい案件の相談らしいわ。人の迷惑も考えず呼び出してくれちゃって」
「ふーん。そうなんだ。大阪の事務所には慣れた? あれ? まだ関西弁には戻ってないみたいだけど」
「ふん。そんなに簡単に戻りませんよ」
私はそう言って思い切りアカンベーをした。
「でも丁度良かった。私、今日さ、急に約束がなくなっちゃったのよ。シズカ、打ち合わせ終わったらご飯行こうよ。十八時に正門集合ね」
「ちょっと、ちょっと。私、今日中に大阪に帰らないと駄目なのよ。明日は普通に大阪の事務所に出勤だし」
「別にちょっとならいいじゃない。じゃ十八時に正門ね」
ナツキは繰り返す。
そして私が何か言う前に手を振って何処かの会議室の中に消えて行ってしまった。相変わらず勝手な奴だ。
ナツキは私の東京本社時代の同僚だ。
私達は同期入社で、私が転勤するまではずっと同じ部署に所属していた。私達が入社した年は景気が良かった年で、七十人も大卒の同期入社がいた(次の年は景気が悪く三十人くらいまで減ったのだが)
何故だか分からないが、ナツキは七十人の同期入社の中でも最初から私を慕っていた。私はというとそれほどではなかったのだが、今日みたいな強引な誘いを受けたり、断ったりしているうちに何だか仲良くなってしまったのだ。
ナツキは不思議な女の子だった。
背丈は私と同じくらい、髪は私より少しだけ長くて緩いパーマをあてていた。そして性格は一言で言うとマイペースだった。
少し変わっているという事もあるが、とにかくマイペースなのだ。今日のやり取りがいい例である。そんな調子だから他の同期からは少し敬遠されていた。でも仕事に関しては手際が良く、業務成績も良かったので上司達からは気に入られていた。そんなよく分からない女の子だった。
打ち合わせ自体は滞りなかった。
私はわざわざ大阪から呼び出されて最初は不機嫌な顔付きだったが、打ち合わせが始まると思っていた以上に自分が元同僚達に必要とされていることを感じ、嬉しかった。
そうなると急に自分の真っ赤なビーチサンダルが恥ずかしくなる。
そして計ったかのように十八時少し前に終わった。
ナツキとの約束までに終わらなかったら上手く誤魔化して大阪に帰ろうと思っていたのだが、これはナツキとご飯に行けという事なのだろうか。
四階の窓から正門の辺りを見てみると、辺りをきょろきょろと見回すナツキの姿が見えた。
「それで実際、大阪の事務所はどうなの?」
私とナツキは東京ドームの近くの居酒屋に入ってビールを飲んでいた。
ナツキはあまりお酒に強くない。まだ一杯目だがすでに少し顔が赤かった。
「みんないい人だよ。本社に比べたら人も少ないしアットホームな感じ」
「ふーん、でも何でシズカが大阪転勤だったんだろうね?」
「課長からは一度地方を見て勉強してこいって言われたけど、本当のところはどうなんだかねぇ」
そう言って私はビールを飲み干して早々と焼酎に切り替えた。
「大阪出身だったからかな?」
「さぁね。そもそも今から勉強ってさ、私はいったい幾つになったらお嫁に行けるのよ」
「あら。でも大阪で彼氏と一緒なんでしょ?」
ナツキがつきだしで出てきたポテトサラダをつまみながら言う。
「うん、まぁ一応」
「一応って何よ。良かったじゃない」
「良かったって?」
「だってわざわざ大阪にまで付いてっちゃうのよ。向こうも本気よ。もうゴールインも近いんじゃないの?」
「ゴールインって結婚? それは無いわよ。だってあいつ、無職よ。無職。こっちにいた時もアルバイトだったし」
「今頃必死で就活でもしてるんじゃないの?」
「いや、無いと思う。金髪だし」
「シズカとしてはどうなの? 彼、ヒロシ君だっけ?」
「そう、ヒロシ。うーん、いい奴なんだけどね。どうなんだかねぇ……まぁとりあえず定職にはついてほしいわよね」
「それは確かに」
ナツキが笑う。
焼酎に手を伸ばすと、水割りに月が浮かんでいた。
綺麗だな、と思ってよく見てみると居酒屋の天井からぶら下がる電球が映っているだけだった。そもそもこんな室内の居酒屋で月が見えるはずないじゃないか。
本物の月じゃなくて少しがっかりしたが、ぼんやりとした頭にそれは不思議と本物の月よりも綺麗に見えた。
「ナツキの彼は? 上手くいってるの?」
「うん、上手くいってるよ」
ナツキがニヤけて笑う。こういうタイプは本当に感情が顔に出る。おそらく本当に上手くいっているのだろう。
「もう何年だっけ?」
「もうすぐ二年かな」
「結婚するの?」
「おほほ。そのつもりよ」
「そうなんだ。彼とそんな話するの?」
「しょっちゅうするわよ。私が聞くの」
「聞く? 結婚したい? って?」
「そう」
「で、彼は何て?」
「したいって」
「何よそれ。言わせてるんじゃない」
「そんな事ないわよ」
やれやれ。ナツキに付き合わされる彼の事を思うと同情してしまう。でも彼はそんなナツキが良いのだろう。二年。ちょっとした時間だ。一緒にいるには長過ぎる気がする。
「彼、何してる人だっけ?」
「美容師よ」
「あぁ、そうなんだ。格好いいじゃない」
「ふふふ。あれ? シズカに会わせた事なかったっけ?」
「無いわよ。そのうち会わせてよ」
「うん。いいよ」
そうして私は二杯目の焼酎を注文した。
ナツキの話はいつも当て所ない。左に右にどんどん飛ぶ。
酔っ払うと特にそれが酷くなる。まるで強豪野球部の千本ノックみたいだった。
私は最初のうちは必死でそれに食らいついていくのだが、いつもどこかで諦めてしまい、ふーん、そうなんだぁ、なんて空返事を繰り返してしまうのである。それでもナツキはそんな事まったく気にもしないで話し続ける。
今日にしたって私は途中からクーラーの冷風よりも涼しげな視線を送っていたのにまったく気付かない。皮肉と言うものは気づかれないと悔しいもので、なんとか気付かせようと小さな嫌々サインをちょっとずつ出す。
で、そんな事に夢中になっていたら、大阪へ帰る最終の新幹線を逃してしまった。
「もう。ナツキが話してばっかいるからよ。まんまと終電逃しちゃったじゃない」
東京ドームの外周を二人で歩く。
野球の試合はとっくに終わっているにも関わらずオレンジのタオルを首から掛けた人が沢山いた。それが私を更にイライラさせた。
「シズカがちゃんと時計見てないからじゃない。それにちゃんとうちに泊めてあげるって言ってるんだからこれ以上は文句言いっこなし!」
こういう時、ナツキも必ず言い返してくる。
「当たり前でしょ! ほんとにもう。その暴発したみたいな喋り癖はいつまでたっても治んないんのね」
「おっ、まだ言うか。その喧嘩買った!」
「何よ!」
「そっちこそ何よ。ビーサンのくせに!」
「うるさいわねぇ。あんたこそ変なパンプス履いてるくせに!」
しかしこれは完全な言い掛かりだった。ナツキのパンプスはどこも変じゃなかった。
地下鉄とJRを乗り継いでナツキの家まで行く間、私達は一言も話さなかった。
東京の夜は何だか慌ただしくて、行き交う人達のスピードを速く感じた。
私は周りの人達と同じスピードで歩けなかった。東京の人達が速くなったのか私が遅くなったのか、たった一ヶ月で何かが変わってしまったようだった。
でもナツキだけは変わらなかった。ずっとそうだ。ナツキは昔から全然変わらない。無茶苦茶な奴ではあるが、そこには変な安心感と信頼感があった。そんな事を考えるとちょっとだけ癖のある歩き方で斜め前を歩くナツキの背中を愛おしく感じた。さっきまでの怒りはいつの間にか雑踏の空に消えていた。
気まずい空気のままナツキのマンションに着いた。
当たり前だがどちらかが口火を切るまでこの沈黙は続く。さてさてどうしたものかと思っていたら、お風呂から上がってきたナツキはまるで何も無かったかのようにいつもの調子で話し出した。
「明日、朝一の新幹線で帰るの?」
バスルームから濡れたままの髪でナツキが顔だけ出して聞いてくる。
「うん。大阪の事務所に朝から出勤しないといけないからね」
私はソファに腰掛け、途中のコンビニで買ったペットボトルのお茶を飲んでいた。
「何時の新幹線?」
「ん、六時かな。六時に品川」
「わぁ、早い」
ナツキは水色のパンツだけの格好で髪をくしゃくしゃと拭きながらバスルームから出てきた。
「ちょっとナツキ。おっぱい見えてる」
細い華奢な身体に柔らかそうな乳房が二つ並んでいた。
乳首も綺麗なピンクで、ツンと前を向いていた。くそう。ナツキの奴意外といい身体してる。胸だって私よりも大きそうだ。私は初めてナツキの裸を見て何故か照れくささを感じた。
「いいじゃない女同士なんだから。それとも何? シズカ、まさかそっちの気あり?」
ナツキが悪戯っぽい笑顔を浮かべて胸を強調する。
「馬鹿。また怒るよ」
「冗談よ。本当に短気ねぇ」
そう言ってナツキは後手にブラジャーのホックを留めていた。
「シズカもお風呂入ってきたら?」
「あ、うん。ありがとう。じゃお借りするわ」
「明日さ」
「うん?」
「朝、最寄りの駅まで送ってくよ。って言っても自転車だけどね」
「えっ、いいよ。朝早いし悪いよ」
「いいの。私朝は強いし」
「そう……? いいの? ありがとう。助かるわ」
「うん」
私は浴槽に浸かって湯気で霧がかったバスルームの天井を見つめて一息ついた。自分の中にあるアルコールがゆっくりと蒸発していくのが分かる。
ナツキの奴、案外いいところあるじゃないか。そうだ、思えばナツキは昔から優しかった。周りからはなかなか理解されないが優しい子なのだ。
今日は久しぶりに会えて良かった。
でも結局、次の朝、いくら声をかけてもナツキは起きなかった。
腹立たしい気持ちを抱えて夜明け前の歩道を私は一人ビーチサンダルで走った。新幹線は朝なのに何故だか人が多かった。
だから私は更にイライラした。