第三話 魂魄の仮面
その変化は、瑞樹とエルフの女性がキスをしてすぐに起きた。
彼女の肉体が、段々と輪郭を失いながらも光りだしたのである。
瑞樹が手で彼女の肩に触れようとすると、何の抵抗もなくすり抜けて河川敷の石や砂利の感触が伝わってくる。
足から始まった変化は最後に顔の感触をなくし、瑞樹の唇から女性の唇の感触も消えた。
馬乗りのような姿勢から立ち上がると、エルフの女性だった光の塊が、瑞樹の顔の高さで綺麗な球体となって浮いている。
やがてゆっくりと降りてきたそれを、瑞樹が両手を広げて受け止めると、光は形を変えつつ収束して消えていった。
その時現れた物体に疑問する余地を挟む前に、老婆から淡々とした解説が入る。
「それがあなたに必要な武器であり、あなたの能力の結晶体。その名も魂魄の仮面よ」
老婆の言う通り、物体の見た目は仮面である。
だが瑞樹の考えていた仮面とは、その模様があまりにも違いすぎた。
先程瑞樹がキスしたエルフの女性と、瓜二つの顔を模した加工がなされているのだ。
仮面の目と口に当たる部分には穴があり、金色の前髪が七三分けで額にかかったかのような見た目で、エルフの特徴だという鋭利に尖った耳が、ご丁寧に仮面の横端に再現されている。
そして、仮面は思っていたよりも薄く感じられ、手で簡単に割れてしまいそうに思えたが、ある程度の伸縮性を備えた素材で出来ているようだ。
「で、ババアさんよ。こいつをどうするんだ?」
「もちろん、自分の顔に嵌めるのよ。そうしたらもっと面白いことが起きるの」
「面白いことって?」
「あーもう、焦れったいなぁ!いいから早く被りなさいよ!」
「はいはい」
仕方なく生返事を送りつけ、瑞樹はそそくさと仮面を被る準備を始めた。
前髪が絡まないように手で少し押さえつけながら、帽子を被るようにして頭の位置を合わせてから着けてみる。
すると、顎の先までしっかりと収まることが出来ていた。
次に、目元と口の穴の位置を調整する。
被ってみると、瑞樹の顔より意外と大きな仮面であったため、頭の位置に合わせたせいか穴がずれてしまっていたようだ。
「あれ? いつの間にフィットしてんのか?…………!」
奇妙なほどの違和感の無さに驚く前に、強烈な頭痛が瑞樹を襲った。
まるでトンカチで餅つきをしているかのような、絶え間なく続く痛みである。
更に、この頭痛とほぼ同時に、全身を炎で炙られているかのようなほどの高熱が瑞樹の身体中を駆け巡った。
「あ……あぐぅ……うああああああああああああっ! いだいぃっ! あづいっ!」
「耐えて! 頭痛も体温も最初だけだから、二回目以降は大丈夫。身体が仮面に順応してスムーズに被れるのよ」
老婆の折角の解説も、自らの喚き声で阻害してしまい、瑞樹はそれを聞き取ることが出来なかった。
そして、身体の内部から溢れ出さんとばかりに湧いてくる、最初のものとは別の高熱を感じる刹那、あまりにも熱く、なおかつ頭痛を伴う高熱に耐えきれなくなった瑞樹は、自らを抱きしめるかのように互いの腕の肘を抱えながら、白目を剥いて膝から崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
森の中からヒグラシのような虫の鳴き声が響き渡り、空の上から時折聞こえるカラスのような鳥の鳴き声が鼓膜を震わせたとき、瑞樹はようやく長い昼寝から目を覚ました。
晴れ渡った青空は夕陽に照らされてオレンジに染まり、もうあと少ししたら山の陰に隠れてしまいそうなほどに沈みかけていた。
瑞樹たちのいる河川敷は、丁度下流の方から夕陽が差し込むために比較的に明るくなっていた。
しかし、夕陽とは真反対の空は少しずつ闇に移ろい、すぐそこまで迫っている夜の訪れを物語っている。
寝ぼけた眼を丸めた手で擦り、上体を逸らしながら大きな欠伸をかいた。
「ふぁあ〜………………へあっ!?」
数秒後、自ら発した声の違和感を認識して、瑞樹は素っ頓狂な声を上げた。
「ど、どうなってんだ!? なんで声が高くなってんだよ! それにおっぱいがあるうううううう!? おいおいちょっと待てよ、まさかアソコも!…………ジーザス!」
自身の身体の変化に驚愕し、感情の収拾がつかないでいる瑞樹。
締めるように掴んだ首には喉仏はなく、服の内側から盛り上がる半球を両手で鷲掴み、股間に伸ばした手が平坦になっていた現実を叩きつける。
あるものがなく、ないものがあるという倒錯感に苛まれた瑞樹は、再び膝から崩れ落ちこそすれ、気絶することはなかった。
その時、尻まで地面にストンと落ちたが、Mの字に開いたその体勢でも痛みを伴うこともない。
俗に女の子座りと呼ばれるこの体勢が、瑞樹に現状の身体の違いをますます実感させた。
どうにもこうにも落ち着かない頭を冷やすために、瑞樹は川に顔を浸けようとして────止まった。
「これが…………俺……なのか…………?」
くしゃくしゃに振り乱した金髪。
白魚のような透明感のある色白の肌。
色鮮やかに輝く紺碧の眼。
そして、特徴的な鋭角に尖った耳。
この顔の元の人物が誰なのかは知っている。しかし、今この顔が自分自身のものであるという実感が、瑞樹にはまるで沸いてこないのだ。
それから、よくよく見ると覗き込んでいる女性(瑞樹)の襟元が自分の服と同じことに気づき、変わっているのは身体だけだということを今更ながらも理解した。
肩幅が狭まって腕も短くなっていることから、長袖の中に完全に隠れてしまっている。
ズボンも丈は長いものだが、女性(瑞樹)の身長が高めだからか足が長く、その点では違和感はない。
また、腰のベルトが元より細いためか緩くなって隙間があるが、逆に尻が元より膨らんでいるためかずり落ちることもない。
片足を宙に浮かせて揺らすと、遅れて靴も揺れ動く。足の大きさもどうやら縮まったようだ。
これらの変化にあたふたしている瑞樹を、老婆は、
「あっはははははははははは! 傑作! 傑作よそのリアクション! ひゃーっはははははははははは!」
時折彼を指さしながら、腹を抱えて仰向けに笑い転げていた。
「ちょっ、クソババアてめぇ! 笑ってねーで説明しろ! 一体何がどうなってんだよ!」
「あっははは何がどうなったって、ナニがそうなったんでしょうがーっはっはっはっは! あー腹が! 腹がよじれるぅ! あー誰かぁーっはっはっはっは!」
抱腹絶倒を斜め上にレベルアップさせたような、老婆のキャラクターの崩壊ぶりに呆れた瑞樹は、彼女の下腹部に目掛けて真顔で手刀を振り下ろした。
細腕のためか、全力で振り下ろした反動で手首が痛むが、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような大仰なリアクションをした老婆に比べれば、いくらかはマシだろうと思うことにした。
「ふぅーっ、笑いすぎてあわや死ぬかと思ったわい」
「ならいっそ死ねばよかったのに」
「なんじゃと貴様!? 小娘の分際で生意気な口の利き方しよってからに……!」
「小娘にしたのはお前だろ!? 自分のこと棚に上げてんじゃねーぞ!」
笑い止むなり、瑞樹の小言にキレのあるツッコミを見せる老婆。
その精神的な余裕のある様に、瑞樹はそこそこの感心を覚えた。
罵倒で押し問答をしても何も解決しないことを悟り、どちらからだったか、互いに近くの大岩に腰を下ろすと、瑞樹の方から話題を切り出した。
唐突に元に戻った声色については、黙殺した。
「で、結局これはどういうことなんだ? 何で仮面を被ったら、その面を生き写ししたような姿になるんだ? まずはその辺りから聞かせろよ」
「あいや分かった。じゃがその前に、下準備がいるわい」
「何の?」
「今から話すことは、お前さんだけに話しても意味がない。第三者のやつにも知っておいてもらわんと困るのじゃよ」
「第三者ぁ? そんな奴どこにいんだよ……」
言いながら、瑞樹は辺りを見渡して他に誰もいないことを確認する。
それが間違いでないと確信していざ向き直った瞬間、老婆は右腕を振りかざして人差し指を突きつけて来た。
「そのおっぱいの本来の持ち主じゃよ」
刹那、その指先が今の瑞樹の豊満な乳頭に、神速に匹敵する速度で接触した。
動作自体は瑞樹の動体視力でも捉えていたが、直前の言葉のリアクションが喉元に出かかっているタイミングだったので、その反応にほんのわずかな時間を用した。
「ひゃあっ! な、何すんだいきなり!」
「おーおー、なかなかいい声で喘ぎよる。お主はからかいがいがあって楽しいぞ。ほれ、もっと喚いてみい」
滑らかに五指を弄び、今にも胸部全体を手にかけようかと腕を伸ばす老婆。
「やめろ! とにかくその下準備とやらを早くやれよ!」
しかし、瑞樹が手押し相撲のごとく両手で合掌して押し返したことで、危うく揉まれるという事態を未然に防いだ。
「なんじゃつまらん。せっかくの女体じゃよ? もっと楽しもうとは思わんのかい」
「そんな余裕があるのなら、俺は元いた所に帰る方法を探すな。まぁんなこと無理なのほぼほぼ確定だがよ」
愚痴をこぼす老婆に愚痴で返して、返事がなかったのでそこで再びの問答は終わった。
どこか物足りなさげにため息を吐いた老婆は、またしても幼い女の子の声で語り出す。
「エルフの彼女の意識はね、仮面の中に眠っているの。一度被ることで起きるんだけど、被った人の意識がある場合はそっちの方が優先されるのよ。彼女の意識を表に出すなら、あなたが寝るか身体から抜け出るしか方法がないわ」
「つまり、二つの人格が俺の中で同居しているけど、普段は主人格である俺の方が優先されるってことでいいのか?」
「厳密には違うけど、まあそういうことね。今から教えるのは、彼女の意識を呼び出すための後者の手段。霊体になって身体から抜け出るのよ」
まずはイメージでやってみて、と言う老婆の言葉に従って、瑞樹は目を瞑って頭の中で想像力を働かせる。
ただ、オカルトチックなことが嫌いでもないけど好きでもない瑞樹には、これからやろうとしている文字通りの幽体離脱のイメージが、まるで浮かんでこないのだ。
何せ現実にそんな事象が目の前で起こることなんて、万が一にもありえない。絶対の常識として疑問にすら思わなかったためだ。
ましてやそれを自分のイマジネーション一つでやろうなど言語道断。
──無理だろ。
頭ではそう考えた方が早かったが、出来るか出来ないかを考えるより、やらなければこの場で何も進展しないことを悟り、黙ってまた想像を膨らませていく。
すると、いつしか重力を感じなくなり、触覚が機能しなくなったのではと感じる瞬間が訪れ、瑞樹はすぐさま目を見開いた。
「すげー! 出来てる! いつの間に!?」
あまりに長く考えすぎて、いつの間にか本当に身体から抜け出てしまっていたようだ。
真下を見下ろすと、そこにいる人物の金色のうなじが、夕陽に照らされて輝いて見える。
元は自分自身の身体とは思えないほど変化に富んでいて、見た目は完全にエルフの女性になっていることを、瑞樹は再認識した。
そして今の瑞樹自身は、全身を青色に透き通らせて宙に浮いていた。
頭でイメージした霊体の印象そのままに、下半身がボヤけておらず、全裸である。また、股間は真っ平らで、胸部には乳首がない。
どういう理由かは分からないが、瑞樹は空を見上げてこの事実に感謝した。
「う、うーん……あれ、私……」
そんな時に、軽く頭を抑えながら、エルフの女性はゆっくりと起き上がった。
どうやら老婆の言葉にあった通り、彼女自身の意識が表に出てきたようだ。
「ようやく起きたようじゃな。気分はどうじゃ? ……言っとくが、お前さんも見えとるからな。とりあえず近くに浮いとけ」
女性の意識の覚醒に気づくや否や、老婆は近くに歩み寄りそっと肩に手を置く。ただ、瑞樹には少し愛想が悪い態度をとった。
瑞樹のこの霊体状態は、仮面の顔の持ち主からも見えているそうだ。
──それは好都合だけど、浮いとけって……雑だなぁ。
「気分? 気分は…………って、ひゃあ! 私の左腕と右脚が……! それに……変態が浮いてる……!」
「変態じゃねえよ! あと俺は好きでこんな姿になってるわけじゃないんだが!?」
「まあまあ落ち着け若者共。では役者も揃ったんで、語るとするかのう……」
気がついて早々驚き続けるエルフの女性と、唐突な変態認定に異議を申し立てた瑞樹。阿鼻叫喚に喚く二人をなだめつつ、老婆はのんびりとした態度で語り出した。
「まずは私のことから話すとするかのう……おそらくじゃが、お前さんはもう……気づいてるわよね、私の正体」
「なんとなくな。まず、俺のカバンだ。どこに落ちたかは知らないが、老婆の足で往復するにはこの森は険しすぎる。大木の根っこや石で地面がデコボコだからな。次に、あの骨董屋でのことだ。油断してたとはいえ、俺を押さえつけた握力と腕力が、老人のそれじゃない。そして何より、その時々言ってる幼女声と、俺に教えた仮面のことだ。つまり、お前は彼女と同じように、死にかけの婆さんを変えた仮面を被っていた、俺と同じくらいの歳のアニメ声の女。違うか?」
「……」
老婆は沈黙。
状況証拠からの推測を適当に口に出しただけだが、案外当たっていたのではないか。瑞樹の中で、そんな憶測が頭をよぎった。
それを察してか、老婆は無言のまま両手で顔の輪郭辺りに力を入れる。すると、その輪郭に沿って彼女の顔が光を放った。
無表情のままの顔が皆既日食のように輝いている光景は、なかなかに笑いを誘うものがある。
瑞樹はさすがに鼻でしか笑わなかったが。
「少し違うわ。私はあなたよりずっと年下よ、お兄さん」
完全に外れた仮面を右手に持ち、左手でローブを翻しながら目の前の人物は答えた。
そこに居た人物は、瑞樹の想定よりもずっと幼い少女だった。
黒色でショートカットの髪、ふっくらとした輪郭からは想像できないほど真摯で大人びた顔、少しくびれのできた成長期の体つき、そして彼女が着るには奇抜すぎる黒を基調とした服装。
腋、鎖骨付近、臍、腿の付け根、背中の一部と、局所的に露出していて、それ以外の首から下の皮膚は全て肌に密着したタイツのようなもので覆われている。
その上から、肩から胸にかけてと腰周りに、リボンをあしらえた特徴的な上着とスカートを身につけている。
髪色から衣類まで黒一色だが、反対に顔や露出している肌が白粉を厚塗りしたかのように白いため、先程までのような大きなローブを羽織った状態でもない限り非常に目立つ装いだ。
──今だって、視線を全く逸らすことができずにボーッと……
「……あんまりジロジロと、こっち見ないでくれる? 恥ずかしい……」
「あ、いや、その……悪い。分かったよ」
さすがに指摘され、しどろもどろになりかけたが、瑞樹は素直に謝った。
お前が目立つような服着てるからだろ、とは言えず、かといって意地を張る理由もなし。何よりも、そんな自分が情けなくて大人気ない。瑞樹の完敗である。
そんな心情も露知らず、少女はローブと老婆の面を近くに置き、座り直してから言った。
「改めて、私の名前はヴェネツィア・レジーナ・マスカレード。ヴェネットでいいわ。よろしく」
「ああ」
「よろしくねヴェネットちゃん……ところで……」
一通り挨拶は済ませたところで、何やら気になることがありそうなエルフの女性がヴェネットに問いかけた。
「ヴェネットちゃんって……もしかしてあのスプリガンの子なのかな?」
「よくご存知ですね。私たちのことを知っている人は少ないと思っていたのに」
「私の生まれたパトリフィアの、国で唯一にして最大の図書館に、ディエスピラの史実が記載された本があって、その中で少しだけ触れられてたよ。大昔に滅んだってなんとなく覚えてるけど……」
「滅びはしましたが、厳密にはそのタイミングが違います。つい最近まで数十人程度ですが、南の方で細々と暮らしていましたから」
「へえ、初耳だわ」
「俺も初耳なんだが?」
会話に置いていかれそうな気がしたので、瑞樹は無理矢理同調するようにして割り込む。
「ガールズトークに花を咲かせるのは構わん。が、とりあえず俺も混ぜてもらった上で、最初から全部話してくれ。他所から来た俺ぁ、お前らの会話についていけてないんだよ。悪いが察してくれ」
「あっ……ごめん」
「分かったなら哀れみの目でこっち見んな」
ヴェネットの顔が引きつっていることで余計に辛辣である。
「そういうわけで、だ。まずはちゃんと自己紹介からしようや。俺はアルシオン。異世界から来た。よろしくな」
生年月日や所在地など、暦や地理が違うであろう世界の人間に、これらを言っても無駄だと感じ、瑞樹は淡々とした自己紹介を済ませた。
だが、
「ダッサ」
即答で彼の存在を否定された。
容赦のない声の主は、ジト目で偉そうに手足をそれぞれ組んで座ってるヴェネットである。
「まず、あんたの見た目が『アルシオン』から名前負けしてる。せめてもうちょっとまともな名前を名乗ったらどう? それと……裸で威張ってもねぇ……」
「仕方ねえだろ! 本名名乗ったって女っぽくて嫌だし……」
これは瑞樹の本心だった。
実際、小学校の高学年頃から高校卒業を迎えるまで、この中性的な名前を度々いじられることが多くあった。ほとんどが冗談のつもりで言っていたらしく、それが原因で自分がいじめられたとも思っていない。
しかし、思春期を迎えて男らしくありたいと心のどこかで願っていた瑞樹にとっては、人に言われるより先に自己嫌悪に陥ってしまう程には切実な問題なのだ。
そして、そんな自分を打破するべく、せめてSNSとかオンラインゲームならではと、自称するようになった名が『アルシオン』。
由来はフルネームに含まれる鳥類、翡翠のイタリア語、『Alcione』の英語読み。直訳で釣りの王様である英名、『kingfisher』を避けたチョイスである。
が、名乗り始めた後に同名の女神がいることをwikiで知って、激しく苦悶したこともあるが……それはまた別の話だ。
「それとえーっと……」
「私のこと? 私はフレシアよ」
「……に、俺の身体貸してるからだし!」
「……私、流れで名乗ったけどこれでよかったの?」
「いいんですフレシアさん。全てはこの醜い男のせいなので」
「見にくくて悪かったな! 今俺幽霊だもんな!」
再び騒ぎ出す瑞樹と、したり顔のヴェネットと、困惑しているフレシア。
収拾のつかなくなったこの状況を、ヴェネットが2回柏手を打って強引に終わらせ、やれやれとした様な溜息を零し、仕切り直すように言った。
「さて、では仕方がないので誰かさんのために私から話すとします」
一拍置いてから、ヴェネットは神妙な面持ちで語り出す。
「私はここより少し南にあった、スプリガンという種族の集落で育ったわ。スプリガンは昔から化けることが得意で、その力で人を脅かしたり物を盗んだりしながら生活していたの。だから他の種族の人たちからは嫌われていてね。そうやってこの世界で生きてきたの。ディエスピラと呼ばれるこの世界で」
そこで一旦話を区切ると、ヴェネットは瑞樹に向かって手を差し伸べてきた。
何かを欲しているような手の出し方だ。
「なんだよ」
「確かノートとペンみたいなの持ってたわよね、あのカバンで」
「ああ。で、それが?」
「世界地図書くから貸して」
──なるほど。そのディエスピラとかいうこの世界のことを、地理的に説明しようということか。なら貸さない理由もないな。
瑞樹は適当に、
「了解」
とだけ答えて後ろに振り返る。
だが今は自分のカバンといえど、幽体離脱中なので物理的に触れることが出来ない。
瑞樹は仕方なく、身体を貸している女性──フレシアに、代わりに頼むしかなかった。
「こんな格好ですまないけど、フレシア……さん。そこの焼けたカバンの中のグレーの本みたいなやつと、黒くて細長い小包の中から金属でできた細い棒出してくれな……ませんか?」
「分かったわ。私はあなたの身体を借りてる身分だし、そんな改まらなくていいわよ」
「……ありがとな」
瑞樹の言葉に微笑んで返すと、フレシアは言われた通りにノートとシャーペンを取り出してくれた。
ここに来て強く思うのは、こうして日本語が通じているだけで奇跡だということだ。
有名な某未来のロボットの道具のように、相手には全て母国語で聞こえるようになっているのかどうかは分からないが、瑞樹はそれでも固有名詞を口にすることが出来ず、とても回りくどい説明になってしまった。
だがそれでも、目的のものをキチンと取り出してくれた彼女には、どうにも頭が上がらない。
──後でちゃんと謝ろう。
「はい、これでいいのかな?」
「おう。ほらヴェネット」
「分かったわよ。ありがとう」
受け取ると、ヴェネットは何の迷いもなく、瑞樹が書いた題字とは反対の表紙をめくり、罫線が並んだノートを横に持って、適度に芯を出したシャーペンでスラスラと書き始めた。
瑞樹が上から少しだけ覗いていると、わずか十秒足らずで大陸と思われるものの形が完成し、その所々に記号を付けて、矢印で引っ張った先に見たこともない文字で地名と思われるものを書いていき、最後に一箇所だけ、特別目立つような記号を書いて芯を引っ込めた。
瑞樹が見てて思ったことは、どうやらヴェネットは少しだけでも瑞樹が元いた世界に来ていただけあって、カバンの中身の物も知っていれば、それを使いこなすこともできるようだ。
平らな所が周りにない時に、親指の爪を台の代わりにしてシャー芯を引っ込める所作を彼女も行ったことが、その直感的な理由である。
「とりあえずできたわ。これがディエスピラの全貌よ。横に長い大陸が三つ、アルシオンの世界でいう『川』の字のように並んでるわ。上からノーザンエンパイア、セントラルライン、サウザンバーグ。私たちが今いるのはサウザンバーグのこの辺り」
シャーペンの先で円を描くように強調した場所は、サウザンバーグの中心より少し西側辺り。
すぐ近くには丸記号があり、矢印で引っ張った説明には瑞樹の知らない文字と、カタカナで「パトリフィア」と書いてあった。
これは、瑞樹が読めない文字の翻訳を兼ねて書いたと思われる、ヴェネットの少しばかりの温情の現れかもしれない。
「ここがあなたの住んでいた街。そうよね、フレシア」
「ええ。ただ正確には王国よ。一番北の方に大きな城があって、今年は王女のウルティアが現国王から次期国王として正式に認められる戴冠式が行われるから、国中がすごく賑わってて…………ってああああああああああああああ‼」
突然頭を抱えながら、フレシアはこれでもかと刮目しつつ叫んだ。
そのあまりの咆哮に、瑞樹とヴェネットは同時に肩が竦んだ。
「おい、急にどうした。何か思い出したのか?」
「そうよウルティアよ! 思い出した! 早く行かなくちゃ!」
心配する瑞樹をよそに、フレシアは近くに置いておいた自らの剣を肩に背負い、今にもそのウルティア王女の所に向かおうとしていた。
が、一歩踏み出したところでヴェネットに左手を引っ張られる。
「ダメよフレシア! 今のあなたじゃ絶対に無理よ!」
「何よ! 私の事情なんか何も知らないくせに! 偉ぶってんじゃないわよ! 離して!」
先程までの惚気た様子とは打って変わって、今のフレシアは随分とヒステリックだ。
何が彼女をそこまで突き動かすのか。彼女の逆鱗に触れる覚悟で、瑞樹はフレシアに話を聞こうとした。
だが聞く直前になって、目に涙を浮かべながら口を開いた彼女の言葉に阻まれる。
「早くしないと王女が……ウルティアが……殺されてしまうかもしれないのに……!」
「…………」
フレシアの悲痛な心の叫びに、瑞樹はかける言葉も見当たらなかった。
しばらくの沈黙の後、砂利の上に膝から崩れ落ちたフレシアに、ヴェネットは背中越しに容赦なく言い放つ。
「まず装備が心許ない。あなたの剣だけじゃ武器としては力不足だし、何より最近酷使されたようで刃こぼれが酷い。これじゃ枝を斬るので精一杯ってところかしら。それと防具。あなたが着ていたものはボロボロだし、かといってそれよりも脆いコイツの服で戦おうものならすぐ死ぬわ。コイツごと」
「おい」
「次に時間と場所。もう日は沈みかけているわ。こんな時間から、あなたが流れてきた川の上流の方を探索するのは危険すぎる。命の保証がないわ。それに……」
「…………?」
「もう、あなたは一人じゃない。私たちがついてる。だから、一人で抱え込まなくていいのよ」
「ヴェネットちゃん……」
ヴェネットの言葉は、瑞樹やフレシアよりずっと冷静で、核心をついていて、包容力があった。
見かけが小学生程度の年の女の子が、高尚に口に出来るような語彙の選び方ではない。
瑞樹は聞きそびれたが、彼女は過去に何かあったのだろうか。
そんなことを考えていると、ヴェネットの言葉に感嘆したフレシアが、そのままの体勢で振り返って謝った。
「ごめんなさい。私、冷静じゃなかったわね。今こうして生きてるだけでも奇跡なのに、それに甘えてまた一人で背負い込んでた。止めてくれてありがとう、ヴェネットちゃん。アルシオンも……その、身体貸してくれてありがとね」
「いやいや、俺は謝られるようなことはしてないよ。事情を話してくれないか。俺たちにも出来ることがあるかもしれないから」
「ええ、そうね……全て話すわ。パトリフィアで何があったか。私がこの数日間何をしていたか、その全てを」
泣き止んだフレシアは再度岩に腰掛け、自分が覚えてる限りのことを全て話した。
何者かに誘拐されたウルティア王女、彼女を攫っていったというミノタウロス種の男ら二人、そして最後にフレシアを崖から落としたとされる燕尾服の男。
時には瑞樹のノートに大まかな地図と、話に出た人物の似顔絵や見かけの姿も書き留めての説明もあった。
王女はやけにデフォルメの強い表情だったり、逆にミノタウロスや謎の男は悪意ありきの酷い絵面だったりと散々だが、フレシア曰く特徴は捉えているらしい。
──ホントかなぁ……。
全てを聞き終えてから、男たちの全身図をまじまじと見ていたヴェネットが悩ましげに唸った。
「うーん、そうねえ。まあこいつらのことは置いといて、王女様って今もまだ洞窟の奥にいるのよね?」
「ええ、そのはずよ」
「攫われた理由に心当たりは?」
「私の勝手な想像だけど……多分こいつらは、ウルティアに国王になってもらいたくないのだと思うわ。でなきゃ、明日に戴冠式が行われようというこんなタイミングで誘拐なんてしないでしょ? その理由は分からないけどね」
「戴冠式の始まる時間は?」
「明日の宵。暗くなってからやるのが習わしみたい」
それを聞いたヴェネットは、灯りの代わりに用意した焚き火に照らされて、赤みが増して見える口角をあげてニヤリと笑う。
なんとなくヴェネットの心が読めてきた瑞樹は、同調するようなしたり顔で問い返す。
「なんだ。何かいい案でも思いついたのか?」
「別に。ただ助けられる望みは見えたわ! そのためにまず…………」
やけに長い間が空いたため、生唾を二度も飲んでヴェネットの奇想天外な発想にツッコミを入れる姿勢でいた瑞樹だが、違う意味で意外すぎて目を点にしてしまい、返す言葉もなくなってしまったため、仕方なく賛同して全員でほぼ同時に、
「寝るわよ!」
眠りについたのであった。
──幽霊状態のために自重を感じられず、まるで眠れる気がしないせいで叫ぶ俺に、女子二人が当たるはずもない河原の石を投げ続けて、結局自滅して気絶するというカオスな一夜を過ごしたことは、夜明けにその記憶だけが抜け落ちた二人には明かさないでおこう。
瑞樹は早朝の森の中で、ポニーテールに結い直した金髪を靡かせながら、マントを羽織っているにもかかわらず、まるで裸を見られてるかのように恥ずかしがっているエルフの女性を見て、そう肝に銘じた。
ご一読くださり誠にありがとうございます。
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