第二話 死せる森の美女
「う、うーん……ここはどこだぁ……?」
川瀬瑞樹は寝ぼけたことを言いながら、うつ伏せの態勢で目を覚ました。
謎の老婆に眼前で、酸化マグネシウムの化合実験を行ったときのような、強烈な光を当てられたためか、反動で瑞樹の視界は暗くなっていた。
まるで某アニメーションの大佐のような、目を抑える体勢で転がりながら、目の疲れを緩和しようとしていた。
瑞樹が目覚めたここは、アモルゴ大森林の一角に偶然出来ていた、局所的に大きく木の葉に覆われていない、木漏れ日が照らしている場所だった。
少し辺りを見渡せば、木々の根や幹が無作為に地面から突出している様が見て取れるが、彼がいるこの場所は、一部の草花を除いて植物はほとんど生息していないため、寝転がっても部分的に身体が圧迫されることはないのである。
しかし、寝転がることで瑞樹の服に土がまとわりつき、鬱陶しくてたまったものではない。
直前まで骨董屋のタイル張りの床の上にいた瑞樹にしてみれば、この変化は驚嘆に値する。
瑞樹はひとまず起き上がって、全身についた土を両手で払った。
そして手を組んで真上に伸ばし、限界まで伸ばしてから手を離して、身体の筋肉及び精神的なものも含めて緊張を解した。
「うー……っぁああっ! さて、と……ここどこだ……?」
それから瑞樹は、自分が置かれている状況の把握に努めた。
自分が今森の中にいて、だがどこの森かも知らないので、どこへ行けば森を抜けれるのかは分からない。
地図から検索しようと、ズボンの右ポケットに入れていたスマートフォンを取り出すが、左上に表示された電波はなく、通信環境も圏外で、更には右上の電池マークが赤くなっている有様だった。
「はぁ……マジか。っと充電器どこやったっけな……」
だが、瑞樹が大学の帰りに肩にかけていた、赤いエナメルバッグがどこにも見当たらないのだ。
どうやらいつの間にか、あの骨董屋に忘れてきてしまったようだ。
財布や自宅の鍵などの貴重品も、全てあの中に入れているため、服を除いた今の瑞樹の持ち物は、電池が切れかけのスマートフォンただ一つである。
「おいおいマジかよ。これでどうやって生きてけっつーんだ? どこのジャングルとも知れねえこの中でそりゃないわ……」
人はおろか動物の気配すら感じられない中、これから先どうしようかと本格的に悩み始めたその時────。
グギュルルル……
「腹……減った……」
唐突に瑞樹の腹の虫が鳴った。
そういえばと、あまりに調べ物に熱中しすぎて、大学で昼食を抜いていたことを思い出す。
更にいえば、気絶してからたった今起きるまで、どれだけもの時間を寝過ごしたのか分からないので、丸一日断食でいてもおかしくないのだ。
「あー……腹減ったなぁー……」
瑞樹の独り言が止まらない。
泣いても笑っても、食べ物を恵んでくれる人が現れるはずもないので、結局は自分で探さないとならない。
また、いつまでも森の同じ場所でじっとしていれば、熊のような野生の動物に襲われるかもしれないのだ。
仕方なく、瑞樹は森の中を当てもなく歩き始めた。
途中で木の実を探そうとするも、農業素人の瑞樹にはどれが食べられるのかまるで分からない。
仮にあったとしても、毒があるかもしれないことを考慮すると、やはり手が出しづらくもなるのだ。
キノコは論外。瑞樹は昔から、人口栽培のもの以外は全て毒物だと思っているからだ。
だが、別にキノコを意欲的に探しているわけでもないのに、キノコすら見つからないほど食べられそうなものがないのだ。
「お腹空いた……あー飯ぃ……」
足の運びが段々と遅くなっていく。
瑞樹の頭の中では、和洋折衷様々な料理が、中華料理店のような回る皿の上に所狭しと乗っている様子を思い描いていた。
「大盛りカツカレー……海苔6枚チャーシュー3枚卵1個の6:3:1ラーメン……本マグロ大トロオンリー丼……キャビア・フォアグラ・トリュフの三大珍味のサンドイッチ……A5ランク黒毛和牛の厚切りステーキ……蜂蜜とカラメルの二重奏ジャンボパフェ……はぁあああ…………」
食べたことのある、または出来ることなら食べてみたい、思いつく限りのメニューを何度も何度も呟いては、大きなため息を吐いて現実に絶望を抱き始めた瑞樹。
しかし、そんな調子で一時間ほど歩いた時のことだった。
「ん?…………この音は…………はっ!」
四方八方見渡しても木しかないが、どこからか聞いていて心地がいい音を、瑞樹の耳が捉えたのだ。
それは、普段からあまり聴いた覚えはないが、そこへ行けば大体は聴くことができる音。
気がつくと、瑞樹はその音がする方向に向かって足を走らせていた。
音の発生源らしき場所に近づくにつれて、段々ハッキリと聴こえてきていた。
それは川の音だった。アモルゴ大森林の南方、ガリフ川の流れる音が、瑞樹の耳には聴こえていたのだ。
この辺りはガリフ川の中流付近に当たり、大量の砂利の合間を縫うように川が流れている。
その河川敷周辺は、川に沿って十メイトほどの範囲に限り大森林の木々がなく、下流もしくは上流の方向に、大変見晴らしの良い景色が広がっている。
また上流の景色の背景には、東のパミラーナ大峡谷とアモルゴ大森林を分け隔てている山々が映えている。
瑞樹にしてみれば、森の景色ばかり見てきたせいか、山があり森があり川がある、この景色から感じられる雄大な自然に思わず目を奪われてしまう。
「あーやばい。ちょー喉渇いた」
しかし、そんな余韻もどこへやら、相変わらずの独り言全開で川のそばまで走っていって、瑞樹は川の水面に勢いよく顔を埋めた。
体感の気温が初春並に暖かいおかげか、水の冷たさが丁度いいくらいに気持ちがいい。
ふと思い立って水中で目を開けてみると、その透明度の高さに驚いた。
川底に沈んでいる砂や小石はもちろんのこと、たまたま通りがかった見たことのない魚の纏っている鱗までもが、模様や形までハッキリと分かるほどだ。
ひとまず三口ほど水を飲んでから、すぐさま顔を上げる。
「ぷっはーっ! きっもちいぃーっ!そしてうんめー!その辺の天然水より美味くねーか!? これでかき氷作ったら絶品だろ……!」
感想を口にするなり、再び顔を水面に浸した。
何分飲まず食わずの時間──無自覚だった間を考えても──が長かったせいか、相応に空腹にはなっていたのだ。
水分で腹を満たすのは瑞樹からしてもあまり良いとは思わないが、その水が前代未聞の名水──と、瑞樹が勝手に考えている──なら話は別だろう。
しかし、通算四口目のそれは決して美味とは言いがたかった。
「何だ……?急に鉄の味が……」
ものの一分ほど前は絶品に感じた水が、突然不味く感じるようになったのだ。
まるで軟水だった川がいきなり硬水に変わったかのような、異物感の混じった独特な味覚の原因は、川の上流の方に目を向けて理解した。
水中に何やら赤い成分が、独特な形を持って流動している様子が見て取れたのだ。
瑞樹は頭の中で、理科の実験で中学生の時に行った、アンモニア水を試薬のフェノールフタレイン溶液に溶かした時に起きる色の変化に似ている、と理系の知識で考えてしまったが、赤い絵の具を試験管中の水に垂らした方がそれっぽいだろうと思い直す。
しかし、前者なら成分的にほぼ尿ということになり、後者ならそもそも口にするなんて自殺行為は絶対にしないので、今命があることに多少の感謝はすれど、焦ることはなかった。
それでもなおどこかで口にしたであろう味に、訝しめた顔をして考えて、ふと思い至ったその答えのものは、瑞樹に突発的な吐き気を催すものを覆うようにして流れてきた。
流れてきたものは、瑞樹が今までの人生で見たことがないような、文字通りの絶世の美女だった。
水面から顔を覗かせた仰向けの姿勢で、胴体だけが浮力を保っていて、手足とほとんど髪の毛が水中で揺らめいていた。
瞳孔が開いたままの状態で、まるで空を睨みつけているような表情の人間が、左腕と右足のそれぞれ肩と股の関節から先が完全に失われた状態で、更にそこから溢れだしている血で川を汚染しながら流されている。
そのあまりに不気味でむごい女性の姿を見るに耐えられなくなって、瑞樹は視線を彼女から外し、近くの岩場に喉元まで込み上げていたものを吐き出した。
先程大量に水を飲んで満たしたつもりの胃から、今朝食べたものの残骸である固形物が逆流したことに、吐かなければある意味では食欲を満たせていたのでは、と後悔しつつも止めることは出来なかった。
そして一通り吐き出して、胃液の独特の酸味を舌で絡み取りながら、少し血の味が引いた川の水でうがいしてそれを消した後、未だ流れ続けている女性の身を助けようと、服が濡れるのもお構い無しに川に靴ごと長ズボンを履いた足を突っ込んだ。
◇ ◇ ◇
「はぁ……はぁ…………それにしても……なんて……」
美しいんだ……。
瑞樹はその一言を、声に出さずに心の中で呟いた。
艶のある長い金髪、目鼻立ちの整った東洋とも西洋とも違った顔立ち、胸や腰周りのくびれなどの女性的な身体のプロポーションなど、改めて見ても本当に綺麗で美しい人なのだ。
これほどの美貌を備えていながらも、四肢が半分ないというこんな無惨な死に方をしていることが、瑞樹にとっては他人事だが、惜しい人を亡くしたという後悔を感じさせていた。
一縷の望みに託す思いで、念の為に女性の右手首を持って脈を計る。
だが、氷のように冷たくなっていた彼女の腕からは、一切の脈動を感じることはなかった。
その事実で全てを諦めた瑞樹は、女性の開ききった瞼を閉じて、右腕の腋を閉めさせ、へその上に右手を重ねさせる。
そして羽織っていたスウェットで、顔と服が破けて派手に露出していた胸を覆い隠し、立ち上がってから合掌して、深々と一礼した。
顔を上げて、瑞樹は近くの大きな岩に腰をかけた。表面は太陽によって熱されていて、尻や太ももが焼けるように熱いが、瑞樹の心はどこか浮世離れした状態にあった。
「……これから……どうすっかなぁ…………」
放心したまま独り言にすら散々悩み抜いた末に、瑞樹はこう口にすることで精一杯だった。
どこかも知らない森の中、初春を過ぎて初夏のような暑さの下で、名前も知らない女性の死体と共に佇んでいる瑞樹。
手荷物は、圏外かつ電池が切れかけのスマートフォンただ一つ。
呆けた頭で何も行動に移さないまま、刻一刻と時間だけが過ぎていった。
そんな時ふと頭に浮かんだのは、謎の骨董屋で何の躊躇いもなく瑞樹を気絶させたあの老婆。
──訳の分からないままこんな場所に誘拐して、放置した挙句人を殺して川に流してそれを拾わせるだなんて、なんつう畜生だ。覚えてやがれよクソババアめ。
「おーおー、そろそろこの老いぼれが恋しくなった頃かのう。どれどれ」
瑞樹の苛立ちの矛先があの老婆に向けられかけた時、今までどこにいたのだろうか、当の老婆本人が彼を煽るような言動を添えて現れた。
瑞樹が最後に見た時と同じく、身体全体を覆うほど大きなフード付きのローブを纏い、足取りは年相応にゆったりとしているが、杖のようなものはない。
彼女の背丈はそれほど高くはないが、座っている瑞樹にしてみれば見上げる形になるためか、老婆の顔を以前よりはっきりと見ることが出来ていた。
黒ずんだ肌に近づかなくても分かるほどの小皺の量や、フードを外している今なら分かる、細くて長いが傷んでくしゃくしゃな髪の毛を、くびれの当たりで煩雑にポニーテールにまとめていた。
頬がこけ、目元が垂れ、鼻がつぶれ、額に皺が重なり、唇が乾燥しており、歯は数本抜けており、いくつかは銀歯に差し変わっている。
瑞樹の言葉でいうならば、どうしようもないほどのクソババアなのだ。
「あ、クソババア! てめぇよくも俺をこんな所に置き去りにしやがって! よくも喀々と……どの面下げて来やがった!」
「ほっほっほ、この老いぼれに開口一番にほざくセリフがそれかい。ここよりガリフの流れに沿って、西に四半日ほどの所にあったコイツを、死に物狂いで探してるだろうお前さんのために、わざわざ重い腰を上げて拾ってきてやったというのに。はぁ……恩を仇で返された気分じゃよ。ほれ、受け取んな」
くどくどと呆れた様子で吐き捨てるように愚痴を零すと、老婆はローブの中に隠し持っていた物を、ぶっきらぼうに瑞樹の方へと投げた。
やけに大きなその物体を、瑞樹は慌てふためきつつも両手で受け止める。
そしてそれは、失くしたとばかり思っていた、瑞樹にとって今は命の次に大切なもの。
「お、俺のエナメルバッグ! ……ちょっとボロボロだけど、よかった……。どうして、あんたが……?」
「お前さんの風に言うなら、ちょっとしたババアの気まぐれじゃよ。それにお前さんにとっても、中身の物はガラクタのばかりじゃなかろうと思ってな。礼には及ばんがのう、こんな老体に鞭打って歩いて取ってきてやったんじゃ。少しは感謝してもよかろうに。あーいたたたた。持病の腰痛が悪化しとるわい」
前傾して背中から腰を叩く老婆には目もくれず、瑞樹は慌ててボロボロになった赤いエナメルバッグのチャックを全開にすると、それをひっくり返して中身のものを全て河川敷の砂利の上に並べた。
シャープペンシルと黒と赤のボールペンに、消しゴムと替えの芯と折り畳める三十センチ定規の入ったペンケース、大学の授業で使う二冊のノート、住み始めて三年が経つアパートの自室の鍵、たまたま降ろしていた一万円札が一枚あった長財布、スマートフォンを買った時に同じ箱に入っていた携帯用充電器と専用の接続ケーブル、春学期の授業のレジュメや調べ物をした時に筆を滑らせたルーズリーフなどが十数枚入った、アニメデザインのクリアファイル。
これらは全て、骨董屋を訪れた時に瑞樹が肩にかけていた、エナメルバッグの中身であり、正真正銘の私物である。
バッグそのものは表面の合皮が剥がれていたり、一度開けたチャックが溶けていて閉められなかったりと散々だが、中身のものを保護し続けるという役目を果たしてくれて、瑞樹はまるで共に戦った戦友のように讃えてあげたい気持ちになった。
「その……なんだ。ええっと……持ってきてくれて、ありがとな。助かった」
「ふん。素直にそう言えばいいのにのう……これだから最近の若者は……」
「言いたいことは分かったが、あんたにだけは言われたくないわ!」
──恩をキチンと受けたのに、何故すぐに傷口を抉るようなことを言うんだこのババアは。
老婆の不器用な反応に、瑞樹は心の中で悪態をついた。
だが、老婆にそういう面があることを真っ向から否定できないことが、なんとも皮肉ではあるが。
「で、なにゆえお前さんはこんな所で道草を食らっておるのだ? こんなに日差しが差し込む下で、何時間も居座っていたわけではなかろうに」
「ああ。さっき森の中で目が覚めたんだがな、飯抜いてたせいか腹減っちまってな。それで食えるもんでもないかと思って探してたんだが、毒がありそうで野生の植物には手が出しづらくてな。そんな時に、水が流れる音が聞こえてきたから来てみたら、この通り川があったんだわ。それで喉渇いて、顔浸けて水分補給してたら上の方から……その…………彼女の死体が、な……」
語尾を濁しつつ苦い顔をしながら、瑞樹は老婆を川沿いで横たわっている女性の死体に向けて目配せした。
「ほぅ……」
すると何を思ったか、老婆は早足で女性に近づくと、様々な角度から感心したかのように観察し始めたのだ。
「ほほぅ……これはこれは……おおぉ……立派に育っておるのぉ……中々の触り心地じゃわい……ほうほう、ここはこうなっとるのか……どれどれ」
額に手を当て、瞼を開けて目を覗き込み、胸を触り、尻を触り、派手に破れた服を捲り────。
「ば、ババアてめぇ、何してんだ! 何をそんな真剣に…………あんたはマッドサイエンティストか!」
老婆が、死体の股間を服を捲ってまで覗こうとしていたことで堪えきれなくなり、瑞樹は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
そのまま引き上げて、再度互いに向き直る。
──例え死んでるからって、他人の身体に何してもいいわけじゃない。倫理観のりの字もないのか、このババアには。
老婆を睨みながら瑞樹は心の中で再び毒づくが、全く気にもとめない老婆は、明後日の方向を向いて黄昏るかのように口を開いた。
「科学者、か……あながち間違っとらんのかもしれんのぉ……昔から色んなことをやってきたものじゃわい」
「あんたが過去に何してきたかは知ったこっちゃねぇ。けどな、それでも見ず知らずの他人の死体を弄るとか、人としてどうか────」
「生きとるよ、この娘は。そう長くはもたんがな」
淡々とした口調で言い放った衝撃の発言に、瑞樹は話を遮られたことも忘れて押し黙った。
「なん……だと……!? それは一体どういう……」
「……仮に、彼女が欠けた左腕も右足もあって、傷すらない五体満足の状態を100とすると、今の彼女のそれは大体0.1ほどじゃ。身体が冷たくなっているのは、単に川に長時間も浸かっていて冷やされただけで、きちんと心臓は動いておったぞい。それに……」
言いながら、老婆は女性のその金髪の、こめかみの辺りを指で拭った。
そして露になった女性の耳は、上向きに鋭利な形をしていて、その形状を見た瑞樹は思わず息を呑んだ。
「彼女はエルフの一族のものじゃ。エルフというのは主に、成長に沿って耳が鋭角に伸びていくのと、平均的に見て心拍数が低いという特徴があるのじゃよ。故に簡単には脈を感じ取れない代わりに寿命が長いのじゃ。たとえ腕を切られたとしても、一切の手当てなしに一週間は生き永らえると聞く。だが、彼女の場合は足も切られておるゆえ、冷えて体温も下がっておる。おまけに、何か強いショックを受けたようで意識も失っておる。状況は非常に深刻じゃよ。じゃが────」
一通りの説明をしてから軽く呼吸をすると、老婆は一転して悪巧みを仄めかすような不気味な笑顔で、
「私にとっては好都合だわ!」
少女のような可愛らしい声で言った。
瑞樹はふと、骨董屋で最後に聞いたこの老婆の声も、驚くほど幼いものだったことを思い出す。
しかし、どう見ても彼女は年老いた女性であり、今でこそ立っている瑞樹の角度からはローブのフードに隠れて見えにくいが、先程目に映した彼女の顔だけで判断するしかないのだ。
──特殊メイク? いやいや、わざわざこんな所でする理由あんのか?
瑞樹が思考を巡らせていると、老婆がにやけた笑顔を浮かべながら近寄ってきていた。
「ねぇねぇお兄さん。一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
もはや微塵も正体を隠す気すらないほど甘ったるい声で、瑞樹からすれば老婆の姿で無邪気に振舞っているのだ。
その余りの倒錯感に頭がくらくらしている瑞樹は、ツッコミを入れたい気持ちと詮索してみたい気持ちを押し殺して、知らないふりをしつつ引き気味に答えた。
「な、なんだよ……」
「今からあのお姉さんとキスして! キース!」
「…………はぁ?」
一瞬、瑞樹は本当に開いた口が塞がらなかった。
老婆の言動に、青天の霹靂のごとく驚いてしまったからだ。
言葉を再度反芻して理解し直し、瑞樹が改めて食ってかかろうとしたその時、
チャポン
小さなものだったが、ガリフ川の方から、何かが落ちて水面に波紋を作る時の音が聞こえてきたのだ。
音の発信源は、死んだと思われていたエルフの女性がいる辺りである。
どうやら気がついているようだが、依然として瞼を閉じたまま起きる気配はない。
だがその表情が少しばかり強ばって見えるのは、老婆が口にした台詞を聞いて身構えているから、と瑞樹は思い込むことにした。
視界の隅でそれを確認した瑞樹が老婆に焦点を向けると、瑞樹に気が集中していて、女性の変化に目もくれていないようだ。
その事実に心底感謝し、胸を撫で下ろしたい気分ではあるが、老婆の爆弾発言がそれを許さない。
「いーじゃんいーじゃん! 減るもんじゃないし! ちょっとだけ! ほんのちょっとだけマウストゥーマウスで三秒ほどヤルだけだから!」
──やめろ! やめてくれ! 俺も恥ずいが、死にかけた状態から気がついたら、そんなことをするハメになっている彼女の方がもっと恥ずいに決まってるから!
顔では驚いているが、瑞樹の心はその表情すらポーカーフェイスにさえ感じられるほど、支離滅裂な内情に苛まれていた。
まるでムンクの『叫び』の絵画で顔を抱えている人のような、絶望的な心持ちの状態である。
そんな瑞樹と気持ちの一部がシンクロしたのか、視界の隅に映したエルフの女性が、寝たままの体勢を変えないまま手首だけで右手をぶんぶんと振って否定している。
しかし老婆は未だに気づいていないようだ。
瑞樹は小さく舌打ちしつつ、慌てふためきながらも抗議する。
「イヤイヤ待て待て待て待て! どうしてだ! 何がどうしてこうなるんだ! それを俺がする理由はなんだ! 言ってみろ!」
「何ってやーねぇ。面白いことが起こるからに決まってるじゃない! 君もあの娘もウィンウィンになれるとっても面白いことなのになー」
まるで意味がわからない。何がwin-winなのか。
何が面白いのか。空腹も収まって、早く元の場所に帰りたい瑞樹にとっては知ったことではない。
やり場のない気持ちを発散したくて、ぶっきらぼうな足取りで立ち去ろうとすると、いきなり老婆に左腕をがっちりと掴まれる。
瑞樹が振り払おうにも全く離すことはなく、いやいや後ろに振り返ると、
「どうしても……ダメ……かな……?」
涙が表面張力ギリギリで飛び出さないほどに目を潤ませて、瑞樹の左手を改めて両手でしっかりと握り直し、今にも抱きつきそうなほどの近距離から、懇願するかのように上目遣いで見上げているのだ。老婆が。
──やめてくれよ! ババアがそんな目でこっち見んな! 気色悪いわ! 声だけ幼女だから尚更無理! 気持ち悪すぎて吐きそう!
瑞樹は今、「生理的に無理」と言われて彼女が一人も出来なかった過去を思い出し、自分がそう言いたくなるほどの嫌悪感を抱くような女性はいないだろうと豪語していたことも連鎖的に思い出して、むしろ過去の自分が嫌いになった気がした。
だが、この感情を俗に天使とするならば、逆に悪魔ともいえる思いも瑞樹の中にあった。
──なんでだよ! せっかく女の子と気兼ねなくキス出来る千載一遇で空前絶後レベルのチャンスなんだぞ! それをお前は無駄にする気か!
そう、いわゆる彼女いない歴イコール年齢のまま二十年以上もの人生を過ごしてきた瑞樹の、純粋な性欲からくる好奇心なのだ。
今までの人生で、親族を除いた女性と瑞樹が物理的に触れた時は、大体が満員電車の揺れで偶然起きるか、レジでお釣りを受け取る時程度だった。
歴代の担任は全て男性で、授業ごとに担当教師がいる中学高校でも、女性の教師に教えを乞うことはあまりなく、ましてやプリントを貰う時に偶然……ということもなかったのだ。
──でもよ……ダメだろそりゃ……。いくらなんでもあの様子じゃ、絶対無理だって……な? やめとけよ……俺……。
──だけど! 俺だって! 諦めたくないんだ! いつやるか、今だろうが! こうなったら……俺同士で、合体だ!
──え? ちょっと何勝手に話進め……ってうわあああああっ!
理性の天使が、欲求不満の悪魔の謀略で混ざりあっていく。
白と黒が混じりあい、やがてそれは渾沌とした名状しがたいものとなっていき、そして────瑞樹の覚悟は決まった。
──ああああもうわぁーったよ! こうなったらヤケだ! 別にディープじゃなくていいんだろ!
「やってやるよこんちくしょう!」
訳の分からない感情のまま、それでもその内の半分を占めるほどの泣きたい気持ちで、心の声をさらけ出して叫んだ。
目は瞑っているが、口をポカンと開けて明らかにこちらを向いている女性の顔は、絶望的なまでに引きつっていた。
しかし、もはや瑞樹にそんな事実は関係ない。
口にしたからには有言実行。情け容赦は一切無し。
道連れなんて承知の上である。
死因に多少の差異があるかもしれないが。
「やったー! 男の子はそうでなくっちゃ! それじゃあ早速ー、えいっ!」
飛び跳ねるほど嬉しそうな顔をした老婆は、瑞樹の背後に回り込んでそのまま両手で突き飛ばした。
よろけた拍子に千鳥足で女性に近づいていって、瑞樹はその勢いのままキス────してしまいそうになる。
──あっぶねー! こちとらまだ心の準備ってもんが出来てねえんだよ! それにどつくな! 二重の意味で危ねぇだろうが!
不意打ちでしてしまいそうになった危機と、単純に勢い余って川に突っ込んでしまう、もしくは石に足を取られて砂利に顔からぶつかっていく命の危機、瑞樹は今その二つが迫ってきていたかもしれないと思い返してゾッとする。
前者は社会的に、後者は肉体的に死ぬからだ。
しかし、どっちにしても男としては惨めだなと省みて、いっそ死ぬなら社会的に死のうと、考えるのをやめた。
それでも、お互いの顔は既に指三本分ほどの、極めて近い位置にまで近づいているのだ。
思考を停止していても、心拍の昂ぶりを抑えることは出来そうにないのだ。
「キース! キース! キース! キース!」
コンサートの終わりにアンコールを求めるようなノリで、キスしてと連呼している老婆。
いや、ジョッキ一杯の酒を一気飲みさせようとする音頭と表現した方が正しいかもしれない。
どちらにしろ、瑞樹にとっては非常にキスがやりづらくて仕方がないのだ。
そんな状況の中で、瑞樹はこれ以上ないほどの妙案を思いつく。
──そうだよ! 俺がこれからするのはキスじゃない、人工呼吸だ!
彼女は川で溺れていた。それ以上に生傷が酷く死人かと思ったが、通り過ぎた老婆曰くまだ生きていると言った。そこで第一発見者である自分が、彼女に気道を確保しつつ人工呼吸を行い、胸骨圧迫による人為的な肺の収束と膨張を促し、それらを繰り返して息を吹き返させ蘇生させる────と、瑞樹は頭の中でこのようなシナリオを構築した。
この一連の架空の行動を自己暗示のように小声で言い聞かせ、躊躇いながらも顔をゆっくりと近づけていく。
嫌そうな顔を見たくなくて目を瞑ったままにしているが、人生初めての行いに、さぞ気持ち悪い顔をしてるんじゃないか、瑞樹はそんな自分に猛烈な嫌悪感を覚えた。
しかし、慎重に行っていた瑞樹を裏切るかのような声が、彼の目の前から響いた。
「あぁんもうっ!」
その時に瑞樹が感じた感触は、この先幾千幾万もの数をこなしていく中で、永遠に出逢うことがないだろうと感じるほどに、マシュマロのように柔らかなものであった。
ご一読くださり誠にありがとうございます。
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