第一話 動き出す運命
瑞樹が老婆に気絶させられていた頃、とある世界の辺境のとある場所で、一人の女が戦っていた。
これは、そのエルフの女と瑞樹がひょんなことから出会うより少し前の物語────
「はぁ……はぁ……」
ここは、日本とは異なる世界ディエスピラ。
この世界にある三つの大陸のうち、一番南端にある大陸はサウザンバーグと呼称されている。
そのサウザンバーグのほぼ中央部に位置するアモルゴ大森林は、周囲を山々に囲われ、南方に清流ガリフ川が流れている他は、背高い木々が軒を連ねる自然豊かな森である。
そんな森林を、呼吸を荒らげながら歩く一人の女がいた。
無残にも、その左腕は肘から先が切り落とされ、自分が着ている簡素な鎧の、ボロボロに破れた布の部分を更に破り、それを用いて止血しつつ、野獣や虫から傷を隠していた。
彼女の細く長く綺麗な金色の髪は、血と汗と時々拭う涙でくしゃくしゃになり、白く透き通った肌は大小様々な傷と返り血で痛々しく、目鼻立ちの整った顔は血涙と悔しさと怒りに満ち溢れ目も当てられない。
「私のせいだ…………私が弱いせいで……王女様が……」
後悔の念をこぼしていると、突然の目眩に襲われて倒れそうになり、そのまま近くの木立に頭をぶつけてしまう。
その衝撃で額から血が滴り、更には鼻水も垂れてきて、美しい顔が台無しになるどころの話ではない。
「自惚れすぎてたんだ……私…………うっ……ううっ……」
女は情けなさのあまり右の拳で目の前の木を殴ろうとし────気が抜けたのかその場で膝から崩れ落ちる。
────ああ、私は何をやっているのだろう。こんなはずじゃなかったのに。
女はそんなことを考えながら、数日前の出来事に思いを馳せていた。
◇ ◇ ◇
女は、数百人ほどのエルフたちが住む妖精の国、パトリフィアの郊外にある農家の娘として生を受けた。
パトリフィアは、アモルゴ大森林の北部の中央に位置する小さな国で、国の最北部には現国王が居を構える城が現存し、城下の町は大変な賑わいを見せ、子供たちが集団で遊ぶ姿を垣間見る機会の多い豊かな国である。
フレシアという名を授けられた彼女は、とある都合で別居している父親の愛情を受けて育てられ、農家としての才を伸ばしながら成長していった。
病で父親が亡くなってから自らが全ての作業を行うようになると、フレシアの整った顔と抜群のプロポーションに目を付けられて美人農家との評判が広まり、今ではパトリフィアでは知らない者はいないとされるほど一躍有名になっていた。
そんなある日、国家を揺るがす大事件が起こりパトリフィア中の国民が戦慄した。
現国王、シュプリム・ラ・パトリフィア女王陛下の愛娘にして、次期パトリフィア国王候補筆頭であったウルティア・ラ・パトリフィア王女が、一夜にして何者かの手によって誘拐されていたのだ。
国王を含む城内部の人物で不審な輩を見た者はおらず、具体的な犯人の目星は付いていなかったが、召使いの女性が王女の部屋を訪れた時に事件の証拠が残っていたことが確認された。
王女の部屋は豪華絢爛な内装や装飾が隅々に施され、一人で寝るには大きなセミダブルのベッドは、天蓋から垂れた遮光性の高いカーテンで覆われていて、三面鏡の化粧台や不思議な模様で飾られた机や椅子など、王女の人物像を窺える趣のある家具が並んでいる。
また、部屋の扉とは反対の東側には、アモルゴ大森林の東部やその奥に連なるパミラーナ大峡谷の山々が一望できる、大きな窓が嵌められている。
その窓ガラスが派手に破られていて、部屋内部に破片が散乱していたが、それ以外に荒らされたような形跡は残っていなかった。
他に有力な証拠として、城の外壁に何かを擦り付けたような跡が、王女の部屋に向かうようにして交互に残っていたことから、外部犯の可能性が噂として広まっていった。
明くる日、王城に慌ただしく入ってきた町の男が、一つの吉報を届けに来た。
アモルゴ大森林に生息している木の実を採集していた時に、ウルティア王女らしき人物を見かけたというのだ。
王女を連れ去った者の顔は見えなかったそうだが、同種族のエルフにしては体格が大きく、明らかに余所者だろうということで、巷に広まっていた外部犯説は、有力な情報として確信されていた。
こうして犯人の目星は付いたものの、女王は頭を抱えた。
何故ならこの国には、騎士団や傭兵のような武力行使の出来る集団を備えておらず、何事も平和的解決を望む国民も多いことから、自然と王族の間でもその風潮が蔓延している。
ゆえに、諸外国との紛争が万が一起きた時の対処をどうしようか、時折大臣と女王が揉めている姿を垣間見ることもあるほど、平和すぎることを懸念しているのだ。
しかし、それでも急造の兵力の統率が整うはずもないだろうと考え、国民から代表して何名かの少数精鋭に絞り、王女を攫った犯人と戦える者を募ることにした。
そんな時に焦点を当てられたのが、国民の半数以上の支持を受けたフレシアである。
彼女が選ばれた理由としては、普段から農作業を行っているため鍬やシャベル、斧などの工具を使う影響で腕っぷしはあるだろうということ、彼女の美貌やスタイルの良さが国中で話題に上がるほど知名度の高いこと、ウルティア王女が実は男性が嫌いであると公言しているため、同性である彼女ならば心理的な抵抗も少ないだろうということなどが挙げられた。
こうして、他の立候補者の何名かも含めて最終的に選ばれたフレシアは、城を訪れて女王陛下と対面し、彼女の口から直々に依頼を受けた。
その後自宅へ戻り、父親がその昔使っていたという長剣を背負い、使わない工具と要らない布を加工して作成した簡素な鎧を着込んで、なけなしの食料と井戸水を頬張ってから、パトリフィアを発ったのである。
フレシア達はまず、王女の目撃情報があったとされる地点まで歩みを進め、そこを一時的な拠点として、アモルゴ大森林を中心に王女の探索を開始した。
その過程で、森に住む様々な野獣や昆虫、鳥の群れ等と戦いながら経験を積み、受けた傷は彼女達の持ち前の農作物の知識を活かして、野生している植物を見極めて治療に用いた。
こうして、野宿と狩猟を繰り返す日々が数日続いたが、王女に繋がる痕跡はそう簡単に見つかることはなかった。
パトリフィアを旅立ってから十日ほどが経とうかというこの日。
フレシアは、アモルゴ大森林の東端に位置するところにある洞窟の前にいた。
アモルゴ大森林と、そこより東に位置するパミラーナ大峡谷は、西部より一際大きな山々によって分け隔てられており、山の森林側のふもとには、ほぼ垂直な崖が南北に広く続いている。
フレシアが目にしている洞窟は、この長大な崖の中央付近に穿たれており、彼女の身長の三倍までの体格を持つ者ならば、頭をぶつけずに歩けそうなほど大きな洞窟だ。
ここに目を付けたのは、昨日の昼過ぎ頃にこの洞窟へ、肩に斧を担いだ牛の頭をした大男が入っていく様を、近くの木陰から見ていたからである。
この特徴を持つような種族を、フレシアは国の文献や人々の噂として聞いたことがあった。
「ミノタウロス……何で、こんなところに……?」
ミノタウロスは、アモルゴ大森林の西部にある小さな山を挟んで反対側の、カルクルシアという集落の集合体から生まれた国に住んでいて、鉱業が盛んなことでも有名な種族である。
集落の名残として、その時にそれぞれが所有していた坑道が存在し、今では全てのミノタウロスたちで共有しながら、日々様々な鉱石を採掘して、その度に国に何軒もある鍛冶屋に持ち寄り加工して、日用品や生活雑貨などを生産して暮らしている。
また、パトリフィアとは違って国民全員が武器を所有しているものの、パトリフィア以上の穏健派であり、自分たちから攻撃を加えることはないという宣言を、カルクルシア国王が発表したことは有名である。
「これは一体……どういうことなのかしら……まさかミノタウロスたちが関わってるなんてね……」
武器も武力も持ち合わせているが、平和を望む彼らの技術を盗もうと、古くからエルフたちを除く他種族の陰謀が後を絶たないでいることを、本を読むことが好きなフレシアは史実として知っている。
もしかすると、ミノタウロスたちを羨んでいる他の種族の誰かが、彼らに王女の誘拐を出しにして、その技術を盗もうと画策したのだろうか。
色々と疑問に思うことは絶えないが、他の候補者に伝えに行ってから戻ってくるにしても、現時点で日が傾きすぎている。怪しすぎるこの洞窟にウルティア王女が必ずいると思ったフレシアは、早速中へ入って慎重に奥へと進んでいった。
洞窟の内部は道が分かれていたり、壁から岩石が突き出ていたりと複雑に入り組んでいて、即興で作成した松明の火がないと、何も見えなくなるほどに暗い。
また、ちょっとした物音でも認識できるのか、洞窟内の魔物たちはフレシアに容赦なく襲いかかり、松明を守りながら狭いところで戦うことを余儀なくしている。
「なんで私が……こんな目に……くっ!」
連日の捜索活動中の狩猟経験で、野良の戦闘には慣れてきていたフレシアでも、夜に戦ったことがないためか夜目が効かず、闇雲に剣を振り回しては肩を噛まれ、腹を裂かれ、昨日までよりも生傷を増やしながら、ゆっくりと歩みを進めていった。
やがて辿り着いた洞窟の最奥部は、壁にいくつものランタンが吊るされた広い空間である。
フレシアは、そこへ向かう通路の途中に突き出した岩場の陰から、最奥部の様子を窺うことにした。
中には昨日見かけたと思われるミノタウロスが一人、壁に斧を立て掛けて胡座をかき、壁に寄り掛かるようにして座っていた。
そしてそこから右の方、フレシアの位置からギリギリ見える角度の地面に、誰かの足元が確認できた。
フリルがたくさん彩られた赤いドレスのスカート部分と、少しの力で折れてしまいそうなほどに細くて小さな足と、それを彩る透明なハイヒールの靴。
この時、フレシアの中で未だ燻っていた疑問が払拭され、それは確信へと変わった。
──助けなければ……!
最早ほかに何も考えられず、ただそれだけを胸に、背負っていた剣を鞘から抜き、最奥部へと駆ける。
「ウルティアさ────」
ズバッ
プシュッ
ザクッ
ボテッ
カランカランカラーン……
フレシアは叫ばなかった。いや、叫べなかった。
何故なら、わずか数秒の間に連続して響いた五つの擬音が、フレシアの注意を完全に逸らしたからだ。
最初に、何かが何かを勢いよく切り裂いた音。
次に、何か液体のようなものが吹き出した音。
次に、何かが洞窟の岩盤に突き刺さった音。
次に、何か軟らかいものが地面に落ちた音。
最後に、何か金属のようなものが落ちた時の残響音。
それらが止んだ時、フレシアは自らの左側を空を切り裂いて飛んでいったものと、自らの足元に落ちた二つのものを交互に見比べて、その時初めて既にない左腕からの激痛を認識した。
「うわああああああああああああああああああああ!」
洞窟の通路に反響し、より強くなって木霊する絶叫。
自分の声で鼓膜が破れるのではと思いつつも、フレシアは叫ばずにはいられなかった。
今までの人生で、腕に愛情を持ったことはない。
皆あって当たり前のものであり、『物』というよりは『自分を表現するための一部』として、深く意識することはあまりなかった。
その腕が、質量を持った別の『物』として目の前に落ちている。
まるで大の親友が亡くなったかのような気分になり、フレシアの目から溢れんばかりの涙が流れた。
また、奇しくもフレシアの利き腕は左である。
文字を書く時も左手でペンを持ち、食事をする時も左手で食器に手を伸ばし、腕と一緒に地面に落ちている剣も、パトリフィアを旅立ってからもずっと左腕で抜き、左腕で切りつけて、左腕で納めていた。
ゆえに両手で顔を隠して泣こうにも、左腕がないため右半分しか覆えず、悔しさと悲しさと痛みで泣いているのに、何だかよく分からない感情のまま苦笑いを浮かべていた。
「何なの……何なのよ……ははっ……意味がわからないわよ、もう……」
最早自分がどんな顔をしているのか、どんな感情を思っているのか、フレシア自身でも理解することができなくなっていた。
しかし左腕はまだ痛むものの、最奥部の壁に突き刺さっている大きな斧を投げた犯人を目に焼き付けておきたくて、フレシアは恐る恐る後ろに振り返った。
そこには、奥に座っているものと別のミノタウロスの大男が、血眼を滾らせてこちらにゆっくりと歩み寄っていた。
その様子にフレシアは恐れおののく。
明らかに、彼女を敵として認識しているような気がしたからだ。
だが、お互いに今は武器を手にしておらず、格闘の心得を持たないフレシアが片腕だけで戦うには相手が悪い。
ただ、フレシアの方が近くに武器が落ちているため、それを使って戦うことは出来るが、片腕しかないため持ち替えられず、しかも利き腕ではない右腕しか使えないため、非常に不利な状況であることに変わりはない。
「これはさすがに……勝てそうにないわね……」
と、ミノタウロスが走り始め、フレシアが死を覚悟したその時だった。
「その声はもしや、フレシア様ですか!?」
奥の空間から、幼い女の子の声が通路に響いた。
しかし、迫り来るミノタウロスを避けるために、すれ違いざまに横に転がって躱してから、聴き馴染みのあるその声に答えた。
「やはりウルティア様でございますか!? 私です! 農家のフレシアです!」
ミノタウロスを避けて回り込んだことで、フレシアの視界の先に最奥の空間が再び映り込むが、やはりウルティア王女とはお互いに岩盤が死角になっているようで、反響する声でしか王女本人だと確信できない。
「今の今まで私は眠らされていましたが、斧の音とあなたの叫び声で気がつきました! パトリフィアは大丈夫でしょうか!? お母様はご無事でしたか!?」
エルフという種族は皆、耳が斜め後ろに鋭利に伸びている特徴があり、音源の距離や音量に関係なく、可聴範囲の周波数の音ならばどんなものでも拾うことができる。
ウルティア王女も、ミノタウロスの斧のが壁に突き刺さる音と、フレシアの叫び声をその耳がとらえて気がついたようだが、それまでに全く目が覚めなかったとすると、余程強力な睡眠薬でも飲まされていたのだろうか。
しかしフレシアにはそんなことを考える余裕もなく、今の自分の姿を見せたら王女はどうなってしまうのだろう、そう考えるだけで心が疲弊してしまいそうになる。
だから彼女は、ウルティア王女を──自分すらも騙すようにして、嘘をついた。
「大丈夫ですウルティア様! 我が国は至って平和でございますし、シュプリム女王陛下もご現存でございます! しかしながら、私は貴方様をお救いするには力不足だったようです。今すぐあなたを助けに行くことはできません。ご容赦ください」
「何故ですか! 貴方ほどの御人が……私めを助けにここまで来られたというのに……何故……」
王女の言葉に力が感じられなくなっていく。
──これでいい。私の身体を見て悲しまれるより、恨みを買っていただく方がウルティア様にとってはいいのだ。
王女の中でのフレシアの人物像が、どれほどのものなのかは本人も気にはなるが、今はたとえ勘違いされてでも無理だと強がるしかないと、フレシアは考えていた。
何せ片腕を失った今のままでは、成功する可能性があまりにも低すぎて、本当に無理なのだから。
「申し訳ございません……ですがウルティア様! もし……もしもう一度ここに戻って来れたのならば! その時は、全身全霊をもって貴方様をお救い致します! それまでどうか……待っていただけないでしょうか……!」
左腕の出血は止まることなく、血の海になった足元を見ないように顔を上げて、今にも貧血で倒れそうになるのを堪えて、フレシアは今出せる精一杯の声量を振り絞った。
必死の頼みを受けてか、しばしの沈黙の後、大きく息を吸いながらウルティア王女は叫んだ。
「……分かりました。約束ですからね! 破ったら承知致しませんからね、フレシア!」
その言葉を聞いて、いよいよ死ぬのではないかと悟りかけたフレシアは強く心を打たれた。
今までフレシアが、パトリフィア国内で時々公の場に姿を見せる王女は、国王である母親による英才教育の賜物ゆえか、或いはフレシアにある種の尊敬を抱いているのか、彼女に対して改まった呼び方をすることが多かった。
だがそんな王女が今、自分のことを呼び捨てにしたのだ。
この変化は、フレシアを年上の尊敬に値する人ではなく、家族のような、そして実の姉のような親しみを込めてそう呼んだのではないか。
そう考えた時には、フレシアは泣き止んで笑みを浮かべていた。
まさか王女が、女王の隠し子の真実を知っているはずはないだろうけど、それはフレシアにしてみれば机上の空論である。
今はそれを考えている場合ではないからだ。
そしてフレシアは、大きく息を吸って一言、
「ウルティア!」
と叫び、一呼吸置いてすぐに続けた。
「必ず、戻ってくるから! 必ず……!」
「ええ! 待ってます……いいえ、待ってるからね!────!」
王女の──ウルティアの最後の言葉を聞く前に、フレシアは洞窟の出口へ向かって駆け出していた。
会話中に何故か一切動かなかったミノタウロスが、突如また襲い掛かってきたからだ。
段々と遠ざかっていくフレシアの足音に、ウルティアの目から一滴の涙が零れ落ちた。
その音は洞窟の岩壁で反響して、やがて儚く消えていった。
◇ ◇ ◇
どれくらいもの間眠っていたのだろうか。
フレシアは背中を木に預けたまま目を覚ました。
洞窟を抜け出してから、アモルゴ大森林をふらつく足取りで歩いていたフレシアは、どうやら先ほど木を殴ろうとした時に、精神的にも肉体的にも疲労が限界を超え、そのまま眠り落ちてしまったようだ。
空を見上げるとすっかり帳が降りて、目を凝らせば天上の星々の瞬きを臨むことが出来るものの、夜の森林は洞窟の中程ではないにしろ、近くのものすら判別しにくいほどの暗闇に包まれていた。
この暗闇の中ではすぐには見つからないだろうとはいえ、フレシアが今いる場所は、洞窟の入口からそう遠くないところなのだ。
このままでは、見つかるのは時間の問題だろう。
またここまで暗いのでは、仲間が待っているだろう仮の拠点に戻ることすらままならない。
そう考えたフレシアは、右手を使って立ち上がると、木に打ちつけた頭を押さえながら、南方のガリフ川周辺の見晴らしのよい開けた場所をめざして、再びゆっくりと歩き始めた。
眠っていた場所からものの二百歩ほど歩いて、フレシアは目論見通りの見晴らしのよい場所へ抜けることができた。
だがそこは、大きく割れた崖の間の遥か下の方で、急流になっているガリフ川の上流が、荒々しい水しぶきを上げて流れていた。
先の出来事で左腕を失い、一度は寝て疲れを取ったものの、未だ貧血であることに変わりはない。
その他に負った傷の応急処置は、この場に抜けるまでに粗方行い、野生の食用植物で身体を騙すように腹を満たしたが、それもいつまでもつかは分からない。
今日一日で大幅に縮まった寿命がもうすぐ尽きるかもしれないと、フレシアは薄々ながらも肌で感じていた。
三度目の正直で本当に終わりを覚悟した時、走馬灯のように頭をよぎったのはウルティア王女のことだった。
王城で優雅な生活を送ってきたであろうウルティアと、国の外れで質素に農業を営んで暮らしてきたフレシア。
巷で話題になるまで、名前すら知らずに暮らしてきた一国民を、まるで親友のように呼んでくれた王女の表情は、一体どんなものだったのだろうか。
彼女のことを思うと、フレシアの顔には自然と笑みが浮かんだ。
「また明日頑張ろう。ウルティアが私を……待ってるから!」
今度は右腕がなくなろうと構わない。
両足を失って歩けなくなっても構わない。
首だけになっても、彼女の──ウルティアの顔さえ見れればそれでいい。
確固たる決意を固めて、右腕でガッツポーズをしたその時、
ザシュッ
何かが何かを切り裂いたような音が響いた。
それと同時に、フレシアはバランスを崩してしまい、川に向かって落ちていった。
フレシアには一体何が起こったのか分からなかった。
気がついたら自分が下に落ちているのだ。
しかし土壇場で、貧血であるにも関わらず頭に猛烈な勢いで流れてくる血の巡りを感じたフレシアは、ゆっくりと流れていくように感じる時間の中で、今起きていることを整理し始めた。
フレシアは今、空中を回転しながら落下しており、視界が一瞬だけ落ちた地点を向くタイミングがある。
その瞬間に、これまた土壇場で鋭敏になった動体視力に全神経を研ぎ澄ませて、その地点をひたすら注視した。
フレシアが落ちた地点から、本人よりも少し遅れて、円柱形の物体が川に向かって真っ直ぐに落ちていった。
よく見るとそれは人の足であった。しかも右足である。
フレシアはほんの一瞬だけ下半身に目をやると、自分の右足の太ももから先が、綺麗になくなっていることに気づいた。
しかし自然と痛みは感じることはなかったのだ。
アドレナリンのような成分がフレシアの脳内で分泌され、それらが痛みの感覚を麻痺させるほどに、彼女の意識を逸らしていたのかもしれない。
一回転目ではこれが限界で、続く二回転目に再び上を見るチャンスがきた。
するとそこには、フレシアを追ってきているはずのミノタウロスではなく、彼女が一度も見たことのないような格好をしたヒュムノスの男が立っていた。
ヒュムノスとは、地球上で言ういわゆるヒトに相当する種族で、ディエスピラ全土の人口の六割ほどを占める一大種族である。
フレシアは男が着ているその服装──シルクハットと燕尾服──を知らないため、色々と腑に落ちないところはあるが、二つだけ確信を持って思うことがあった。
一つは、ヒュムノスゆえに同じエルフの一族ではないこと。
彼女が謎の男の種族を僅かな時間で確信したのは、段々と崖から遠のく中ではっきりと見えた彼の耳が、エルフ特有の鋭利な形のそれとは違っていたからだ。
そしてもう一つは、男がこちらを見下ろして下卑た笑みを浮かべていることだ。
あの顔からは、フレシアに対する純粋な悪意しか感じられない。
二回転目はここまでで、更にもう一回転する余裕があったため、三度崖を見上げることにした。
この時点で川の水面には、すでにフレシアの尻が浸かり始めているが、男の口が動いてる様子を視界に捉えたからにはそうは言ってられない。
フレシアは読心術の心得はもちろんのこと、そういう技術があることすら知りはしないが、『視る』ことに全神経を注いでいる彼女は、その瞬間だけ男の言動が一言一句はっきりと理解できた。
(さ……よ……う……な……ら……キヒヒヒヒ……)
後半は独特な笑い声だったが、前半の言葉に大変ショックを受けたフレシアは、それまでほぼ呆然としていた顔つきを瞬時に強張らせ、怒涛の勢いで頭になだれ込んできた怒りと悲しみと憎しみと悔しさとを、全て振り絞って感情の思うままに叫────べなかった。
「きさばがばぶあるああっ!」
貴様、と叫ぼうとした。
だがついに顔まで完全に川に浸かってしまい、開きかけた口に大量の水が流れ込み、水中にまで沈んだため鼻呼吸すらできず、歯切れが悪いままフレシアは下流へと流されていった。
「キヒヒヒヒヒ! これは愉快! 実に愉快だ!」
フレシアが落ちていく様を崖の上から見下ろしていた男は、手袋をした手に持ったステッキで彼女を指して、無邪気に笑っていた。
その後、そのステッキを反対の手で受けたり放ったりしながら、男は誰に聞かれるでもなく語り始める。
「ディエスピラの〜こんな辺境で見つけた僕のコレクションを〜、誰にも〜渡すわけなーいじゃなーい。それに〜、誰だか知らねーけど〜、勝手に僕の兵士たち〜、軒並み倒されちゃって困る〜」
おとぼけた拍子で語りながら男が歩いてきた場所は、ウルティア王女が隠されている洞窟の前だ。
そこでは二体のミノタウロスが、入口を塞ぐようにして並んで立っていた。
二体とも腕を組んでおり、それぞれが一振りずつ背負っている斧の刃が、互いに外側を向いている。
「やぁやぁ君たち! 元気してるかーい?」
シルクハットを片手で少し持ち上げつつ、にこやかな笑顔で彼らに話しかける男。
しかしどういうわけか、ミノタウロスたちは返事はおろか視線すら動くことはなかった。
「おっ、そうかそうか、王女様は少々反抗的だがようやく落ち着いたか。報告感謝致しマース!」
少し前かがみの姿勢で背中を反ったまま、これまた手首も反らせた奇妙な敬礼ポーズをとる男。
そんな彼を見ている、というか傍にいることにも気づいているだろうが、一向に何の反応も示さないミノタウロスたち。
非常にシュールなこの場面の均衡を崩したのは、意外にも男の方からであった。
「はぁ……まあお人形さんたちにこんなことしても仕方ない、か。それじゃ、僕は職場に戻るから、後のことはよろしくね、おっさんたち♪ キヒヒヒヒ……」
今度は二本指で敬礼した男は、ミノタウロスたちを手にしたステッキで軽く小突いてから、洞窟の中へと姿を消した。
そのミノタウロスたちは、結局男に何をされようと眉を顰めることすらなく、焦点の合わない目でアモルゴ大森林の方を見つめ続けるのであった。
「さぁーて、僕の大切な王女様はどうしてるかなー。寂しがってるかなー」
半円に曲がったステッキの持ち手を手首にかけてグルグルと回しながら、洞窟の奥へと歩みを進める男。
次第に見えてきたランタンの灯火を前に、男の口角も滑らかに吊り上がる。
「やっほー王女様。元気そうでなによりなにより。キヒヒ」
広間の手前の通路から、首だけを伸ばして中を覗き込む男。
その視線の先では小柄な女性が、壁に繋がれた鎖によって手首を拘束され、口元には白い布による猿轡が施され、男に対して足を向けるような姿勢で寝転がされていた。
女性の頬は紅潮しており、男に対して怒りのあまり非常に興奮しているようだが、手首の鎖と猿轡以外には何も拘束具はないというのに、まるで金縛りにあったかのように首から下の部位がほとんど動いていない。
「まあまあ、そうカッカしないでさ、少しは落ち着いたら? せっかくのお化粧とドレスが台無しになっちゃうよ、ね?」
言いながら男は女性に歩み寄り、彼女の後頭部で結われた猿轡の拘束を解いた。
すると息付く暇もなく、女性は一層睨みを効かせて男を怒鳴りつける。
「誰のせいですか! いきなり私の部屋に侵入して、こんな所まで攫ってきて、何日も放置しておいて、挙句助けに来てくれたフレシア様を誑かして……男性はどうしてこう野蛮なことしかできないのかしら!」
「嫌だなぁ、僕の名演技をそんな言い方しなくてもいいじゃんよー。顔こそ見せなかったけどさ、わざわざ鎖緩めてさ、君の足がギリギリ彼女に見えるくらいまで寄せた上でのアレだよ。お見事と言ってくれよー。えーん」
両手で目を擦る動作をする男。
女性からもひと目でわかる、見え透いた嘘泣きである。
「それに何ですか! 私に姉はいますが、フレシア様ではございませんよ! 『待ってるからね、お姉ちゃん』……ふん、冗談も休み休み言ってくださいまし」
「残念だけど、君には最初からいなかったじゃないか。ウルティマなんていう姉は」
その言葉を聞いた時、男を睨む女性の目の色が変わった。
「な、なんでその名前を……部外者であるあなたが知ってるんですか!」
「なんでって、あの国じゃ噂程度には有名じゃないの? 『女王の隠し子の真実』なんて話。エルフの一人や二人、道端で話し合ってたって普通でしょう。僕はそれを聞きかじっただけだけども」
「で、でも、あの人は……ウルティマお姉ちゃんは、今もどこかで生きて……!」
「君の姉は死んだ! もういない!」
「っ!」
食い気味に叫んだ男の声に、女性は顔がひきつり、僅かながら怯えているようにもみえる。
何故なら、男の表情から口説いほどのお調子者のオーラが抜け、今はただ静かな怒りを顕にした修羅のようにさえ感じられた。
「いい加減にしろよ小娘風情が。無いもの強請りをいくらしたところで、いない奴はいないし、来ない奴は来ない。そんな奴がいたところで、ろくに戦えない奴がこんな洞窟の奥まで来ると思うか? あのミノタウロスどころか、野生の獣共にでも喰われてたりしてな! キーヒャヒャヒャヒャヒャ!」
襟首を掴まれ、凄まれ、挙句嗤われるままの女性。
何も言い返すことができずに歯を食いしばっていると、急に真顔になった男に衝撃的なことを宣告される。
「あ、さっきのフレシア……だっけ? あいつ殺したから。というか勝手に自殺したから」
「え……うそ……なんで……あの御方が……?」
「いやあね、さっきこの近くまで来てたじゃん? ミノタウロスに何されたか分からないけど、走り去る彼女を見たらさ、左腕が綺麗に切り落とされてるのね。気になって追いかけてみたらさ、全身血だらけ傷だらけの状態で崖の上に立ってたのよ。どー見てもありゃ自殺直前だろうからねー。押しても耐えるだろうから、右足切り落としてあげたよ。そしたらさ、彼女なんて言ったと思う? ……まあ何言ってるか分からなかったんだけどねー! キーヒャヒャヒャヒャヒャ!」
「貴様ああああああああああっ!」
女性は怒りのままに声を荒らげ、嘲笑っている男に攻撃するべく全身に力を込めるが────しかし彼女の首から上以外はピクリとも反応することはなかった。
男はそんな女性の様に怖気付くことなく、くしゃくしゃに乱れるその髪の毛の上から彼女の頭を撫でた。
「おーよしよし。いい子でちゅねー。あの女と似たような顔しましゅねー。まるで……本物の姉妹みたいだ」
「何を言って──んんんんんんんーっ!」
赤ちゃん言葉であやす様に撫でながら、小声でそう呟いた男は、未だ反抗の意思がある女性の口を、左手で顔ごと鷲掴みにするようにして塞いだ。
「まあまあ、君には関係のない話さ。とりあえず、近いうちに君の国でやるイベントに用があってね。君にはそのための生贄になってもらうよ。大丈夫、殺すつもりはないさ。ただ、これから一生ずーっと、僕の中で生き続けるだけだからね」
「んんんんんんんんんーっ!」
「えっ? 今から何をするかって? やだなぁ、今から僕が君に成り代わるのさ。君を食べることで、僕は君に成れるんだ。そういう力をちょっと前にある人から貰ってね。おっと、食べるというのは性的な意味合いはないよ! 頭から物理的に、僕の上の口で食べるのさ。 あ、僕には下のお口なんてなかったね。君にはあるけど。キーヒャヒャヒャヒャヒャ!」
──この男は何を言っているの?
男の底知れない恐怖を目の当たりにした女性は、彼が言っていることの理解を放棄し、目を閉じて頭の中でそれだけを反芻させて、他に何も考えないように努めた。
しかし何故か、見てないはずの男の顔がくっきりと浮かび上がってきて、更に複数に分身して我が身を追いかける悪夢が、彼女の中の何かを破壊した。
──いやああああああああああああああああああ!
もはや何もかもが絶望にしか感じられなくなり、憔悴しきった理性でかろうじて瞼を動かすことで、悪夢から脱することはできた。
だが──
「あーこの服とかどうしよっかなぁ……まぁいっか。食べながら脱がせばいいし、最悪全裸でもいっか。じゃあまっ、とりあえず……いただきまー……」
──見なければよかった。
女性は自分がしたその選択を、本気で後悔した。
そうすれば、女性の目がこれ以上ないほど刮目することも、その目から溢れんばかりの涙がとめどなく流れ出すことも、自分の身体が一切の浮遊感なく持ち上げられていることに気づくことも、男が我が身を喰らうために、人間の原型を留めないほど大きく開いた口の中から、意識のない彼にそっくりな男性の顔を目の当たりにすることも、なかったからかもしれない。
「すっ!」
花が咲いているかのような、不気味な開き方をした男の口が、女性の全身を一瞬で丸呑みにした。
──助けて、お母さん!
──助けて、フレシア!
──助けて…………お姉ちゃん!
──誰か私を……助けて!
女性の──ウルティア王女の声なきSOSは、男の耳にすら届くことなく、静かに意識の底に沈んでいった。
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