第十一話 それぞれの葛藤、現れた姫の嘲笑
(っし!)
右手をぐっと握りしめ、俺は小さくガッツポーズをした。
直接戦ったわけではないが、フレシアに前々から事情を聞いていたからか、少なからずこみ上げてくるものがあった。
人を助け出したという自信。
言葉にすれば大したことはないが、俺にとっては少し違って思えた。
それは、《生きた》人を《殺させずに》助け出したという自信。
他ならぬフレシアこそ、ウルティア姫以上に命の危険が迫っている状況でのあの…………キス……否、人命救助だったのだ。
アレは最終的にフレシアの方からアクションした結果の出来事だが、今回は俺達が、自分たちの意思で行動して掴んだ結果なのだ。
これほど嬉しいものは無い。
俺は平泳ぎをするように大きく腕を払うと、その勢いに乗せて皆が集まっている方へと移る。
(おーい、終わったぞー)
「はっ!?」
後ろから棒読みで声をかけると、足先から頭部にかけて電流が走ったかのようにビクッと震えて、フレシアがようやく我に返った。
(途中からボーッとしてたじゃんよ。あれどうしたんだ?なんというか、らしくないぞ)
「ええっと、それは、その……なんというか、途中からウルティアがウルティアじゃなくなってたっていうか……なんだか全く違う人を相手にしているような気がして……気づいたら目の前からフッといなくなってて、あ、あれ? 私のウルティアは? ってなって段々意識が遠のいてきて……それで……」
フレシアは、まるで1人であっち向いてホイとパントマイムを同時に行っているかのように、目線と両手をわちゃわちゃさせてしどろもどろになりながら、早口でまくし立てた。
本当にらしくない。どうしたというんだ。
「っていうかウルティアは!? どこ! どこに行ったの!?」
(落ち着けよ。お姫様は大丈夫だから、な? 焦りすぎだ)
「これが落ち着けるわけないでしょ! ウルティアにとっては一大事なのよ! 私の目の前から急にいなくなるのだもの。今からでもまた探しに行くわ! だから止め────ちょっ!」
(止めるよ。一回眠って頭冷やせ)
フレシアは血相を変えて、辺りを何度も何度も見回してウルティアの姿を探していたが、俺が宥めようとするとなんと逆切れをしてきた。
ヴェネットが逆切れする分には、俺にとっては何処吹く風だが、感情の起伏が(それこそセクシャルチックなことさえなければ)穏やかなフレシアにされると、少しだが畏れ多く思えてしまう。
このままだと何をしでかすか分からないため、俺は素早く彼女の胸に腕を埋めた。
青透明な幽霊状態の今の俺が、フレシア以外に同じことをしてもただすり抜けるだけだが、彼女に限り俺の腕はすり抜けることなく、水中に腕を突っ込んだような抵抗を受けてぐんぐんと埋まっていく。
この状態になるとフレシアは身体が固まって、喋ったり視線を動かすことで精一杯のような様子になるのだ。
もちろん侵入度が上がるにつれて完全に何も出来なくなるようになり、身体全部が入るとフレシアの意識は表に出なくなり、俺が乗っ取って動かせるようになる。
正確には、仮面を付けた直後は俺がフレシアの身体を動かしている状態なので、乗っ取るというよりは元に戻るというべきか。
……大事な事なので二回言うが、胸に触れているのではない。埋めているのだ。……他意はないぞ。
「…………っふぅ。ようやく身体を動かすことが出来るぞ。……っうーん、っあーっ」
俺は数十分ぶりに物理的な肉体を得ると、早速腕を組んで思いっきり背伸びをした。
二の腕にエルフ特有の鋭角な耳が触れてくすぐったいが、初めてフレシアになった翌朝も同じように伸びをしたので、この感覚自体は少し慣れた。
それでも慣れないのはやっぱりおっぱい。
フレシアやヴェネット、クリスに限らず、母親や小中高大と歴代同級生のそれを流し見、時にはガン見して鼻の下を伸ばしていた過去の自分に喝を入れたいと思う。
風の噂で聞いていたよりも重いし、肩がこるぞマジで。
「まぁ今回お前はほとんど戦ってないし、まだ機会があるかもしれないから体力残しといてくれよ」
自分の身体を見下ろしながら、今は心の奥底で眠りについているであろうフレシアに語りかけるように、俺は胸に手を添えながら呟いた。
再三言うが、他意はない。うん、ない。
ボフンッ
その時、ヴェネパパのいた辺りから、やたらコミカルな爆発音と大量の白煙が舞い上がった。
「あれ? 戻ったんだ。早いじゃん」
その中から、どこから取り出したのか黒いコートのようなものをたなびかせ、あの穴あきゼンタイ姿のヴェネットが、飄々とした態度で現れる。
どうやら転送された時にはまだ着ていた、ゴスロリ黒エルフのコスプレ衣装などは全て脱いだようだった。
「ああ、何だか今にも暴れ出しそうだったから、ちょっと落ち着いてもらうつもりだよ。少し怖かったわ」
「そうなんだ。そういえばフレシアさ、初めて会った昨日の夜も、戴冠式のことを思い出した途端、急に目の色が変わったわよね? 何か昨日から変わったことってある?」
「言われてみれば……」
ヴェネットに言われて、ああと納得した。
そういえばそうだ。昨夜のフレシアと、今さっきのまるで狂犬のように頭に血が上っていたフレシアは、少し似ているところがあった。
それはどちらの場合も、ウルティア姫を心配しているところなのだ。
だが逆に、全く違うところもある。その心配の度合いである。
昨夜の時点では、本人が姫の生存を確認していたという前提で、まだ危険があるかもしれないから助けなきゃ、という行動理念だったし、それ自体は納得できる。
だが先程の場合は、ミノタウロス二頭を倒して確実に救える、という展開の最中で、姫様が姫様らしからぬ行動をとった後に姿をくらましたために起きた、衝動的な振る舞いだった。
だとしたら、もしウルティア姫がこの場で、目の前で殺されていたら、フレシアはどうなってしまうのだろう。
「なんというか、ウルティア姫のことになると無我夢中で、後先考えずに行動してしまいそうになるんだ。それこそ何かの強迫観念に駆られてるような……」
「二人共どしたー? そーんなしみったれた顔しちゃってー。もうちょっと元気出していこうよ」
そんな呑気な声の主は、洞窟の入り口の方から現れた。
両手首が鎖で拘束されていたためか、その形にそって巻き付かれた痕があるが、特に何ともなさそうな様子の彼女は、なんと件のウルティア姫様である。
ボロボロで色もくすんでいる黄色いドレスは、一部が破けているもののフリルが大量に設えてあって、元の形であればどれだけ美しいものであったかは想像に難くない。
肘の手前まで覆う長さの手袋や、破けたドレスのスカート部分から覗ける白いタイツなどは派手に伝染しており、履いている靴のヒールは先程ミノタウロスに一撃かましたせいか折れてしまっている。
だが、頭部にて燦然と輝いている小さなティアラと、化粧の整った子供とは思えないほど大人びた顔つきからは、一国のお姫様という貫禄を醸し出していた。
そんなお姫様から放たれた、姫様らしからぬ言動である。
違和感しかない。
「ねー聞いてる? 仲間はずれにされるとお姉さん、すごく寂しいよ……」
「この空気は半分以上お前のせいだからな、クリス! ややこしいことしやがって……!」
「あ、あれ? その口調だともしかしてアル? いつから戻ったの?」
「ついさっきだよ。誰かさんのおかげで盛大に勘違いしたフレシアが、危うく暴走しかけるところだったんだぞ。全く……」
「やっぱり? あーちょっとまずったなー……」
「自覚あんなら余計なことすんなよな!」
「ごめん」
と謝りつつ、姫様は首元の皮膚を手のひら全体で掴むと、顔の方に向かって勢いよく引っ張った。
すると首の皮膚が破け、顔のものも綺麗に剥けて、中から姫様ではない別の顔が現れた。
心底物寂しそうな落ち込み顔になっている彼女こそ、フレシアが勘違いした原因にして、いつの間にか姫様に化けていた張本人のクリスだ。
そういえば、戦い始めてすぐに意識しなくなってはいたけど、あの状況でどうやって入れ替わったんだろう。
しかもご丁寧に、衣装も借りて鎖も巻き直して。
「……何よ。怒っておいてそんなジーッと見つめてくるなんて。そんなにあたしと燃えるようなキスをしたいの?」
「はぁ……この期に及んでそんなセリフをさも当然のように口に出来るお前の度胸が羨ましいよ」
「で、するの?」
「しないわバカ!」
「えーザンネン」
相変わらず商魂ならぬ接吻魂たくましいというかなんというか……。
肝が据わりすぎてて逆に怖いよコイツ。
俺は「んっんー」とワザとらしく咳払いをして話題を戻した。
「クリスさ、姫様といつの間に入れ替わったんだ? 全く気づかなかったぞ」
「それね、アイアンクローでぶん回してる間にヴェネットと示し合わせておいたの。ヴェネットがお父さんの魂魄の仮面で変身して、ミノタウロスを引き付けてる間に、あたしがお姫様の皮膚を頂戴して、白昼夢の表皮のカプセルで化ける。そして一時的にお姫様の衣装と靴を拝借して、自分が鎖に巻かれ直して終わり。最初の鎖は案外解けやすく結ばれてたから、多分ミノタウロスも気づかなかったんだと思う」
「まああれだけ派手に戦ってれば、姫様から注意を逸らすのだって簡単っしょ。事実二体目の方もこっちばっかり向いてたし」
……二人とも平然と話しているが、全力で身体が回ってる間にそんな作戦をよく建てられたな……素直に尊敬するわ。
「ああそうそう。借りてた服ちゃんと返さないとね。せっかくのお姫様が風邪ひいちゃうわ」
と、クリスは言いながら着ていたドレスを脱ぎ始めた。
首から下はお姫様の裸体が!……ということにはならない。
なぜならクリスが顔の皮を剥いだ時点で、手足のものは全て風化しているからだ。
またクリス本人も、アレで変身する時は大体服の上から化けるから、同じように生まれたままの姿をさらけ出すなんてことにはならない。
おかげでハイヒールでローヒールを履くという変な絵面になって、足元の様子がシュールだったことは否めないが。
「お姫様ー。もう出てきて大丈夫よー」
脱いだドレスを叩きながら、ヴェネットが洞窟の方へ呼びかけた。
「は、はい……ちょっと、寒い……です……」
すると、洞窟の淵からこちらを伺うような感じで、件のお姫様がひょっこりと顔を出してきた。
ウルティア・ラ・パトリフィア。
確かフレシアから聞いたフルネームはこうだったかと思う。
初見で短い時間に見えた通り、数日まともに食事を取っていないのか痩せ細っており、支えがなければ立っていることさえままならないだろう。
駆け寄ってドレスを着せようとしているクリスの手を掴んでいる辺り、だいぶ精一杯のようだ。
だがやはり、うっすらとのった化粧も大方落ちてはいるものの、名前に国名を冠している王族の末裔だけあって、整った顔立ちからは気品を感じられる。
「雑に脱がせてごめんね。あの時ケガしなかった?」
「いえ。気遣って頂いてありがとうございます」
クリスにも心配されながら、ウルティア姫は改めてドレスの袖に腕を通していく。
ドレスを脱いでいた姫様は、その小さな身体に合ったサイズの下着を付けていた。
だが、俺の知るブラジャーより胸より下の方にも装飾が多く、腰にかけて段々と輪郭を狭めている様から、いわゆる矯正下着のようなものだろうと認識した。
また、パンティの少し上辺りから垂れ下がっているものは、俺も写真でしか知らず実物は初めて見るガーターベルトだった。
留め具の部分が変に伸びている事から察するに、クリスが身代わりになる時にタイツを脱がそうとして無理に引っ張ったのだろう。
ドレスを着込んだ後、タイツを履き直してガーターで留めて、手袋に腕を通していった。
そしてクリスが頭にティアラを乗せて、少々野性的なお色直しが終了した。
着直したことで気が引き締まったのか、姫様はクリスの助けも借りずに自力で歩き始めると、それが段々と駆け足になっていって、終いには俺に────フレシアに抱きついていた。
「フレシア!」
「うわっ!」
抱きつかれる直前に飛びかかるようにして迫ってきたため、俺はその勢いに負けて背中から倒れ込んだ。
「いっつつつ……大丈夫か、姫様……」
「そんなことより!」
「えっ?」
心配する俺をよそに、遮るようにして姫様は叫んだ。
気に障ることでも言っただろうか。
「どうして……どうして一度助けに来て、私ともお話してくれたのに…………どうして……逃げたんですか、あの場から!」
涙声で絶叫され、直前に見せた淑女らしさは欠片もなく、憎悪に満ちたような涙目でこちらをキッと睨んでいる。
正直に言うならば、本当にフレシアは姫様をここまで恨ませるようなことを言ったのか、俄には信じられない。
だけどもここで嘘をつくのもよくない。
「どうしてって……あの時はお……私、直前で右足が切断されて、歩くこともままならなくて……そんな見苦しい姿をウルティア姫には見せられないと思って、あの場から……」
俺は本人に聞いていた話を思い浮かべながら、姫様にバレないようにそれっぽくフレシアのフリをした。
うおお、間違えられないという背徳感とお世辞にも上手いとは言えない女言葉、というより女声で喋る恥辱に苛まれて、穴があったら入りたい気分だ。目の前にあるけどな!
すると、泣きやみはしなかったものの、姫様の表情から憎悪の色は消えて安心したような笑みを浮かべていた。
「……そうでしたね。さぞお辛かったと思います。何せ相手はあのようなミノタウロス。命からがら逃れられただけ素晴らしいと思いますわ。改めてありがとう、フレシア。さぁ、早くお母様の元へ────」
「あんた、姫様じゃないね」
「えっ?」
唐突に、言い切らせる前に、俺は姫様の言葉を制するようにして言った。
そのセリフに真っ先に驚いたのはクリスだ。
「な、何言ってるのよア…………じゃない、フレシア! この子が本物のお姫様じゃないの!? あなたねぇ、ここまで来てそんな適当なこと言ってんじゃ…………」
「いいえクリス。フレシアはおそらく何か考えがあってのことだと思うわ。まずは彼女の推理でも聞きましょう」
「え、ええ……」
微妙に疑り深い顔をしながらも、ヴェネットの考察に従ったクリスは、姫様(?)に背を向けないように後ろ向きに距離をとった。
「フレシア? これはどういう冗談ですか? 私が偽物だとでも言いたいのですか?」
疑問形に問いかけつつも、さして慌てた様子じゃない。
その冷静さがかえって怪しさを色濃くしている。
「きゃっ」
姫様(?)の肩を右手でどつき、俺は起き上がってから土を軽く払った。
一丁前に黄色い悲鳴をあげられると、なんだか変な武者震いがしてたまったもんじゃない。
「悪いが鎌をかけさせてもらった。誘拐犯が姫様に化けて、救出して気が緩んでるところを殺るだろうって読みだったんだが、まさか本当に当たるとは思わなかったぜ。覚悟するんだな」
俺は右手でお気に入りの剣をゆっくりと抜刀すると、振り下ろして切っ先を姫様(?)の鼻先へ向けた。
アニメとかならここで「終わりだ……!」つってトドメを刺しに行くのだろうが、相手の化けの皮を剥いでない以上警戒を怠るのは危険すぎる。
剣を握る右手にも汗が滲み始め、後には引けない緊張感が溢れてくる中、切っ先を向けられた当の本人は女の子座りのまま顔を俯かせていた。
そのままとぼける気か……と思ったその時、姫様(?)の表情が一変した。
淑女然とした姫様の顔にあってはならぬほどの、ニタァ……とした不気味な笑みを浮かべたのである。
「キヒ……キヒヒヒヒヒ…………」
「ヒイィィィッッ!」
耳障りなその笑い声に、逆に余計耳障りな声を荒らげたのはヴェネットだった。
横目でうかがうと、変なポーズを構えて飛び上がっている。
相当ビビりだったんだなお前……。
だがしかし、折角のポーカーフェイスをここで崩すわけにもいかない。
姫様(?)はそんな俺の心中も知れずに、その笑みをさらに下卑たものへと変えると、顔をこちらに向けたままゆっくりと立ち上がった。
俺もその挙動に合わせ、切っ先の位置を動かす。
元々の身長差ゆえにこちらの方が見下ろす形ではあるが、今度は肩まで震わすほどに笑い続ける様は、ヴェネットに同情したくなるほどに恐怖を感じられる。
やがて笑い声が止むと、口角の高さはそのままに偽の姫様は口を開いた。
「キヒヒ…………いつ気づいたの? 僕の【擬態変身】は完璧なはずだけどなー。フレシアさん…………だっけ? あなたすごいねー。どうやって気づいたの?」
一人称は僕。口調は子供っぽい。
声こそウルティア姫様のそれだが、声色から伝わって来るのは、俺とほぼ同年代の青年と話しているかのような気さくな雰囲気だった。
「さっきの会話さ。単純だよ。お前の記憶を逆手に取ったのさ。お前が言ってくれたおかげでお……私はお前が姫様に化けた偽物だと確信できた」
「ふーん、それで?」
「泣いてるフリしたお前に聞かれたよね。『どうして逃げたのか』と。私は『足が切断されたからだ』と答えた。それにお前はこう返した。『そうでしたね』と。それが一つ」
「で、それが何だというのかな?」
「残念だけど、ウルティア姫様が私の足が切られた瞬間を、目撃してるわけはないんだよ。何故ならその時、お互いの顔を見て話し合ったわけじゃないから。それにこの通り、足が元通りなのにさっきの会話では無くなってるものだと信じて疑わなかった。逆に言えば、無くなった瞬間を見ていなければそんなセリフは言わないのさ」
「なるほど。でも他にもあるんでしょ?」
リアクションがさっきからやけに単調だ。
手段はどうであれ、身代わりで化けているからには、更に面倒な所にでも姫様を隠しているはず。
余裕な感じなのはそのためだろうが……なんか引っかかる。
「その通り。切られた順番だよ。結構奥深くまで続いている洞窟の最奥部から、片足だけであんなミノタウロスから逃げ切れるわけないでしょう。あの時は左腕を切断されたの。そしてその後別の、ミノタウロスではない男に切られたんだわ……! たとえばお前のような……下品な笑みを浮かべた奴に────」
「下品とは心外だなー」
「!?」
瞬間、姫様(?)は相も変わらずのほほんとした口調ではいたが、俺と顔同士がぶつかりそうになるほど目の前に肉薄していた。
それだけじゃない。手袋に包まれたその小さな右手を、少し後ろに引くようにして構えていた。
まるで手刀を用いた突きのような────。
それを認識した時には、俺は空いてる左手を動かして、その右手首を掴んでいた。
若干だが突きの威力を殺しきれないと悟ると、遅れて動かした右手に持つ韋駄天で横一文字に一閃、大きく薙ぎ払った。
「はっ!」
しかし恐るべきことに、姫様(?)は俺に掴まれた右腕をグルッと回して、それに合わせて自身も空中で回転して仰向けになることで、上体を浮かせて俺の攻撃を避けるという荒業をやってみせた。
そのあまりの身のこなしの良さと、サテンで編まれた長手袋の摩擦の無さが幸いしたのか、俺からしたら不幸にも手を滑らせてしまい、掴んでいた右腕を一瞬で抜き取られてしまった。
と、今度は自由になった右手で俺の左手を握り返し、自分の方へと引き寄せながら上体を右に傾け、俺の右側頭部を目掛けて左足で蹴り払ってくる。
剣を振るった反動で両腕ともに左側に寄ったままの俺は、姫様(?)の鮮やかな体さばきに反射神経が追いつかず、首を全く動かせないまま蹴りを喰らった。
ミノタウロスとの臨戦態勢に入った時から取らなかった、ポンチョのフード部分が緩衝材代わりにはなってくれたものの、おそらく避けた時の回転をも活かした蹴りは、俺の身体一つ分の距離を飛ばせるだけの威力はあったようだ。
地面を軽く擦ってようやく止まった身体を、右耳がジンジン響く状態の顔を上げて確認すると、履いていたタイツの一部が縦に大きく破れていたが、それ以外は砂埃を被った程度で出血もない。
「なんだ今の動き……全然読めなかった……」
「へぇー。気絶させるつもりで強めに蹴ったはずだけど、まだ立てる体力あったんだ。キヒヒ、やるじゃん」
ほざけ。とでも言えれば良かっただろうか。
頭が蹴られただけで、身体はほとんど無事。
それでも立ち上がることに難航している状況から思うに、どうやら蹴りの衝撃は軽度の脳震盪を起こすまでに及んだようだ。
おかげで神経でも乱れてるんだろうか、膝が少し笑っている。
「くっ」
苦虫を噛み潰したような視線を向けると、姫様(?)はその場でくるっと一回転してから、のぞき込むような目で見つめてきた。
「正直もっと君と遊んでいたいけど、姫様に免じてこの程度で勘弁してあげるよ。今はね。僕にはこの後やらなきゃならないことがあるんだ」
言いながら、姫様(?)は明後日の方向に視線を向けた。
辺りは完全に暗くなり、月の光によってなんとか周囲の状況を把握出来ている状態だ。
未だに倒れているミノタウロスも、姫様(?)を警戒して不用意に手を出せずにいるクリスやヴェネットも、最低限どんな表情をしているかまでも視認出来る暗さだ。
だが彼女が向いた方角に、月光とはまた別の灯りが、森の向こうから湧いていた。
ほんのわずかながら、複数の人々の喧騒も耳に届く。
ここからそう遠くないところで、人がたくさん集まっているようなところを、俺は一箇所しか知らない。
「っ! クリス! ヴェネット!」
「言われなくても────」
「────捕まえるわよ!」
どうやら彼女達なりに姫様(?)の意図が読めたようで、俺が名前を叫んだ時には既に二人とも駆け出していた。
お互いに暗黙の了解でもあるのだろうか、標的に対して左右に分かれて、姫様(?)の位置でクロスするようなコースを疾走している。
やがて二人同時に標的の少し手前で跳躍し、そのまま抱擁という名の捕縛行為に走ろうとして────
「それでは皆さん。また後で」
再度視線をこちらに戻した姫様(?)は、まるで本当に再び相見えることになると分かっているような口ぶりで、極めて自然な────本物のウルティア姫様がしたかのような────笑みを浮かべ、何の前触れもなく、何の物音もなく、無意識のうちに行ったほんの一度の瞬きの後に忽然と、その姿を俺たちの前から消した。
触れる直前、ほんの一寸程の距離までめいっぱい伸ばした両手の五指が届く直前に、標的が、部屋の照明を消した時のような一瞬の間に消えてしまい、見事に空を切って終わってしまったクリス。
だが目標を見失ったかに思えた彼女の両手が、本人の意思とは別に勝手に動き、見事同じく宙を飛んでいて自らよりも小柄な少女の頭部をがっちりとホールドすると、そのままクリスよりも下、つまり地面に対して早く接地するように腕を伸ばして、無事に奇っ怪な音を立てる擬似ラグビーボールを叩きつけてタッチダウンに成功した。
視界の隅でそんな珍プレーが行われていることも露知らず、俺はしばらくの間、ただただ歯を強く食いしばりながら、姫様(?)がいた場所────正確には顔の高さに相当する虚空────を見つめていた。
が、そこで高まっていた緊張感が緩み、ついに自力で立っているのが辛くなって────韋駄天を足元に突き立てて、なんとか転倒を免れる。
「くっ……そ…………あいつ、まさかパトリフィアで……」
独り言のように呟いて、持ち合わせの知識と体験した記憶を駆使して可能な限りの状況把握を始めた。
まず、姫様(?)改め偽姫たる真犯人の目的が、ここに来て少し曖昧になっていることだ。
俺たちは当初、真犯人はフレシアの予想に倣うなら、今夜パトリフィア国内で行われる戴冠式の場において、国民の目の前でウルティア姫様を惨殺するだろう。
だから捕虜のうちに助けて、最悪の事態を未然に防ぐ。
それを目的として装備を整えて、いざ番人のごとく立ちはだかったミノタウロス二頭を倒し、無事に姫様を救出した、はずだった。
だが何の因果か、その姫様こそ真犯人と思われる人物が化けた姿で、本物の姫様がどこに隠されているのかはまるで見当がつかない。
この時点で不可解なのは、なぜこの後問答無用で殺すであろう姫様を、自ら化けて俺たちを騙してまで、人質として生かし続けているのだろうか。
本当に国王にさせたくないのなら、軟禁した時に既に手を掛けているはずだから、何か別の目的でもない限りありえない。
なのに奴は、この後やるべき事、つまり戴冠式の場に現れることにこだわっていた。
そうまでして潰したい戴冠式で、一体何をしようってんだ。そして、何がされるってんだ。
俺はただ、フレシアの願うことを昨日今日で、必死になってやってきたつもりだった。
だから、わずか数時間しか滞在しなかった国の催事なんて、正確に知る由もなかった。
そして結局、助けたと思ったお姫様は真犯人の罠だった。
人一人の頼み事すら全う出来やしない。
俺は最低だ。自分で考えてて悲しくなる。
しかも、戴冠式に行くと言ったからには、徒歩でどれくらいかかるかも分からない道を、一瞬で踏破する手段でもあるのだろう。
今から全力で走ったとしても百パー間に合わないし、かといってみすみす見逃すなんてできっこない。
「くっそぉ……一体どうすりゃいいんだ……」
「さっきからずっとクソクソばっか言って。そんなにクソしたいならその辺で勝手にやってなさいよ!」
「あのなぁ……俺だって…………っ!」
唐突に掛けられた声にキレ気味に返そうとして、言葉を躊躇ってしまった。
何せその声の主は、身体中に砂埃や雑草を纏って髪の毛がボッサボサの状態で、ムスッとした顔で仁王立ちしているヴェネットだったからだ。
「別に目の前で漏らしても気にしないから早くしなさいよ! それとも何か? 『女の子の前でう〇こできましぇーん! だって恥ずかしいんだもーん!』って泣き叫ぶの? バッカみたい!」
「は? ヴェネットお前何言ってんだよ。俺がいつどこで野グソしてえって言ったよ。こちとら目の前で犯人に逃げられて心底葛藤してんだぞ! 大体なぁ、お前らがもうちょっと早く動いてりゃもう少しくらいは時間稼ぎ出来ただろうが! あぁ!?」
発言の意図が分からず、俺はヴェネットにズカズカと歩み寄ると、その胸ぐらを掴み上げて顔の正面に持ってくる。
後ろでクリスが静観している様が映るが、今はこいつだ。
「ハッ、自分の失態を他人に押しつけるとか、とうとうアルも惨めになったものね。しかも本人は意識ないとはいえ、フレシアの身体での罵声、蛮行、八つ当たり……あんたにとってこの身体は何よ? ただの脅しの道具? それとも殺しの道具?」
「うるせえな、今それが関係あっかよ。第一俺が操ってる以上、今は俺の身体だろうが! 何をそんなふざけ────」
バチン
突如視界が右に九十度傾いた。遅れて左頬がじんわりと痛み出す。
見ればフルスイングされたヴェネットの右腕によって、大きな紅葉を付けられたらしい。
不意打ちのビンタに、とうとう堪忍袋の緒が盛大にブチ切れた。
「ってぇな。何す…………!?」
目に涙を浮かべて、こちらをキッと睨みつけていたヴェネットは────俺にいきなりキスをしていた。
しかもガッツリとマウストゥーマウス。
突然のことに気が動転した俺は、胸ぐらを掴むのも忘れてヴェネットの両肩を押して、必死に突き放そうとしていた。
しかしヴェネットは、俺の後頭部と背中に手を添えてしっかり捕まっていて、容易には離れてくれない。
また、彼女の舌が口内を暴れ回り、その度に何だかフワフワした気分になっていって、全身の力が抜けていってるような気がした。
ついに立っていることもままならなくなり、俺は背中から地面に倒れ伏すこととなった。
その時にようやくヴェネットが顔を離し、お互いに荒い呼吸を繰り返していた。
「はぁ……はぁ……お前……いきなり何を…………」
「……ふぅ、少しは、頭冷えたかしら…………バカアル……」
「…………」
「冷静になりなさい……あんたがいなかったら、そもそもフレシアが死んでいたかもしれないのに、調子に乗ってんじゃないわよ……! 人のせいにしている暇があんなら、何か打開策でも考えなさい……じゃなきゃここまで来た意味、ないでしょうに……」
「…………あぁ、そうだな」
……ホントバカだな、俺。
俺が一人でイキってたところでどうこうなる問題でもないだろうに。
「男なら……女のために体張りなさいよ、バカ……」
「……返す言葉もねぇわ。グサッときた」
「あっそ」
急に塩対応になったヴェネットは、立ち上がるなり後頭部で腕を組んで気楽そうにしている。
全く、調子がいいんだか悪いんだか……。
「あーあ、童貞のクセにいっちょまえに落ち込んでて、冷やかしがいあったのになー。すっかり立ち直っちゃったなー」
「はぁ!? どどど童貞ちゃうわ! うぉ、お前何言って……」
「よく言うわ。自分でその胸勝手に揉みしだいて『デュフフ♡ パイオツカイデー! うっひょぉぉぉおお!』とか騒いでたむっつりスケベの性犯罪者紛い野郎のクセに」
「異議あり! んなこと言ってねーし! 盛りすぎだし! だったら俺はヴェネット! お前を告発してやる!」
「ここには弁護士も検察官も、裁判官すらもいないわよーだ! 訴えられるものなら訴えてみなさい! 私の記憶という名の状況証拠で、アルを有罪に仕立てあげてあげるわ!」
「うるせえそんなの証拠不十分で不起訴だろうが! クリス裁判長! 奴を法廷侮辱罪で正式に告発していいですか!」
「裁判長! 早く判決を!」
「え、えっと……」
などと唐突に始まったエセ裁判ごっこに、傍聴席兼裁判長席から見守っていたクリスが混乱していた時、そいつは叫んだ。
「うるさあああああああああああああい! 寝てられるかちくしょおおおおおおおああああああああ!」
森の木々を揺さぶるほどの咆哮。
耳をつんざく程の大声量。
そのあまりの絶叫に、大気が轟き、動物たちは逃げるように隠れ、離れた場所では鳥達が一斉に羽ばたいた。
ヴェネットと再び言い争いになった時に勢いよく立ち上がったものの、是非もなく浴びせられたこの叫びに、早くも膝を付いてしまいそうだ。
「な、何!?」
「お、おい! まさかこの声の主って…………!」
元をたどってみれば、そいつは両手両足で地を叩き、その状態で叫んでいる。と言うより喚いている。
まるでおもちゃ屋さんに来て、目の前に欲しいものがあるにもかかわらず、親に断られて駄々をこねる子供のようだ。
「……あー叫んだ。ひっさびさに叫んだわー……あれ? っていうかいつ以来だっけ? おっかしーなー……確か、アニキと東炭鉱に出かけて、途中で野宿して…………あーダメだ。この後何したっけか?」
頭を抱えながらのそのそと起き上がった声の主は、俺たちにしてみれば脅威でしかなかった。
真紅の肌に、蹄の足。屈強な肉体に双角の逞しい牛頭。
言わずもがな、先程倒したミノタウロスの片割れである。
しかも奴は、ヴェネット(父親の姿)が近くの巨木で薙ぎ払った方の個体で、直接的な攻撃は顔面に狙った一撃しかない。
洞窟の入り口横でくたばっている、クリス(姫様の姿)に目玉をドロップされた個体より、受けた傷も軽傷のためか体力的には全然余裕がありそうだ。
「ん?……………………あああああああああああああああアあああああニいいいいキいいいいいいいいいいい!」
再びの大絶叫。
今度はドッタンバッタン踏みならし、倒れているもう一体のミノタウロスに駆け寄っていた。
「おおアニキ! どうしたんですかいアニキ! そんな目ん玉からだらだらと……って出血ううううううう!? やばいよやばいよ! アニキが…………アニキが死んじまう! どうしよ……どうしよおおおおおおお!」
キーンッ
大袈裟に何度も何度も叫ばれるおかげで、さっきから耳鳴りが止まらない。
「あーテステス。こちらアルシオン。ヴェネット、クリス、応答セヨ」
「……何してるの? ついに頭おかしくなったの? ああ、最初からおかしかったわね。失礼失礼」
「からかっちゃダメよヴェネット。アルのなけなしのガラスのハートがさらに傷ついてしまうわ」
「もう辞めてくれ……俺のライフはゼロだから!」
辛辣すぎるリアクションは置いておいて、この二人はあの絶叫を受けてもあっけらかんとしている。
スプリガンは耳の構造からして、普通の人と違うのだろうか……何だか腹が立ってきた。
とりあえず、今は一刻も早くパトリフィアに帰る方法を……!
「おい二人とも、ちょっとこっちに寄ってくれ。いいこと思いついたぞ」
「何? 女湯に堂々と入れる方法でも見つけたの?」
「よーしヴェネット。ケツの穴に剣四本ぶっ刺されたくなかったら、今すぐ黙れ。さもなくば即執行するが?」
「すみませんでした!」
「…………実はな、こうしたら一瞬で戻れるんじゃないかと思うんだ……!」
「って無視しないでよおおおおおお!」
ミノタウロスに負けじと声を張るヴェネットは、何だかとっても可愛らしく思えた。
そして、俺が提示したその案に、ヴェネットたちは固唾を呑むばかりだった。
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