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関東大学将棋物語  作者: るかわ
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クライマックス


「池谷君」

 長崎の涙が止まった。達也はそっと顔を向ける。

「大丈夫?」

「うん」

 長崎は目をハンカチで隠して、ベンチに寝たまま言葉を続けた。

――将棋、この前覚えたばかりなんだよね?



 戸刈は髪をガリガリと掻きむしり、盤面を凝視した。

 やべえ、訳わかんなくなってきやがった!

 前田と古屋が人混みをかきわけ覗き込む。そして顔を見合わせる。

 これは、小島がミスしたんじゃないか?

 ▲7九馬と戸刈が指せば、急転して小島の攻めが切れてしまう状況になったのである。戸刈は攻めが強いのだが、医科大戦のように、受けに関しては(もろ)いところがあった。

 古屋はにやりと笑い、前田に話しかける。

「お前、今人生で一番戸刈に勝ってほしいって願ってるだろ」



――うん。僕はついこの間将棋を覚えた。



 くっそお! 受けがねえ!

 清野は腕で汗を拭った。これで負けたら法名はどうなっちまう!

 諸星もハンカチを噛みしめる。もう逃さないぞとばかりに苦しげな表情だ。もう清野の玉に受けは無い。必至、いや必死だ。



――将棋、好き?



 ふっ、霧江の野郎、さすがだぜ。あの将棋をここまで追い詰めるんだからな。

 佐藤はもう疲れたとばかりに霧江の玉に必至をかけた。これで佐藤の玉が詰まなかったら終わりだ。勝ち。霧江の持ち駒には多くの攻め道具を抱えている。その代わり、佐藤の王様は囲いから抜け出しており、ずいぶんと長生きしそうな王様だ。

霧江の左手には血が染まっていた。自分で思いっきり引っ掻いたようで、ドクドクと血が流れている。それはギャラリーの誰もが知っていたが、誰も止血しようとはしなかった。誰もこの将棋を止めようとはできなかった。



――うん。好き。


 バクバクと心臓の鼓動が止まらない。

 戸刈、▲7九馬だ。それでお前の勝ちだ!

 前田は祈るように手を合わせた。これで小島の攻めは完全に切れる。そうなれば――

 バチン!

 戸刈は馬を自陣に叩きつけた。▲7九馬。その衝撃で、周辺の玉桂香歩が吹っ飛んだ。

「負けましだあ」

 小島の頭が神経が切れたかのように、勢いよく大きく傾いた。盤上は小島の頭によってグシャグシャになり、駒も何枚か飛び散った。そのまま顔を上げずに、小島は両手で髪をギュッと握りしめ、震えていた。

 戸刈は天を見上げる。

 主将、勝ちましたぜ……次から俺は三番手に――

 戸刈も盤面に頭を打ち付け、倒れ込んだ。



――私も、将棋大好き。将棋って素晴らしいよね?



「くっそおおおお」

 清野は何度も自玉を見た。何度見ても、何度見ても、詰んでいる。

 諸星も、何度も何度も頷き、詰みを確認した。

 時計が切れる。清野の手は盤上に伸びなかった。がっくりとうなだれた清野は、次の手を指さずに死を受け入れた。

「負けたない! 負けたないんや!」

 ボロボロと涙がこぼれた。諸星は時計が切れたことを確認し、自分の勝利が決まったと確信した。そして口元にハンカチを当て、嗚咽を漏らす。重圧でいっぱいだった。感想戦をしようと、片手でハンカチを押さえながら盤上に手を伸ばす。

「うえっ」

 手が止まった。胃液が逆流して喉元を駆け上がる。抵抗する力もなく、ハンカチからだらだらと透明な液体が流れた。

……動けない。

 ボタボタと盤上に液体が落ちる。極限だった。諸星は団体戦初出場。優勝決定戦という大一番で、こんな状況で将棋を指すことになったのである。自分は東大将棋部の一員、負けることは許されなかった。隣で同じく団体戦初出場の小島が負けたこと、霧江の激、多くのギャラリーの数。様々なプレッシャーが諸星を襲った。森下が駆け寄る。

「お疲れ」そう言って自分のハンカチを取り出し、ゴシゴシと盤を拭いた。



――だってさ、こんなに一喜一憂できるゲームなんて他にある?



 霧江の目は盤の隅から隅へせわしなく動く。佐藤から出された最後の挑戦状だ。

詰ましてみろ。お前の勝ち筋はそれだけだ。



――ない。将棋って一局の中にいろいろなドラマがあって、すごいと思うんだ。



 詰むか?

 難しい。詰みそうではあるが。

 すごい将棋だ。

 ギャラリーが真剣に考え込む。前田は歯を食いしばり、盤面を睨んだ。詰まないでくれ! 古屋も、浅田も、会場にいる全ての人間が詰み筋を考えた。



――うん。将棋にはドラマあるよね。



「増本、どうだ?」

「いやー難しいですね。残念ながら詰みが見当たりません」

「増本きゅん先輩! 詰みがあったらダメなんですよ!」

「そうでした」

 控室は法名の検討陣で埋め尽くされた。検討の中心は終盤力に明るい増本と、桐元に勝利した奥村だ。

「難し過ぎますな。小生トイレに行ってきますぞ」

「こらー麻生、増本きゅん先輩が考えてるのに逃げるっていうの?」

「下田さん、その『きゅん』っていうのやめてくださいよー」



――たった一つの将棋で、ここまでみんなが夢中になれるなんて、ほんとに素敵。



 神野は幹事室に入って、リーグ表を見つめていた。隣には山岡がいる。

「おい白髪、お前のチームに負けて、うちは寒い思いをしたようだな」

「ああ。でも、将棋ってわからねえもんだな」

「そうですよね」

 田島もリーグ表を見つめている。

「中邦はどうした? 田島」

「さあ、廊下にでもいるんじゃないですかね」

「そうか」

 山岡は前髪を掻きあげた。高森がゆっくりと三ツ橋―米大の結果を表に書き込む。

「ほんと、わからないもんですよ。将棋って」



――ほんと、たった一つの結果でここまで夢中になれるなんて、素敵だよね。



「島与、泣くな!」

 森が必死に涙をこらえる。島与は号泣しており、廊下中に泣き声が響いていた。

 OBも涙を流している。OBは特に思うところがあったのだろう。

「さて、今日の結果を伝える」

 森の声に、一同は居直った。



――将棋、これからも続けてくれる?



「雪本」

 高森が結果を書き終えると、米大の主将が後ろにいたので驚いてしまった。

「おっ、こいつが初心者の主将か」山岡が雪本の頭をがしがしと撫でた。

「米大、お前のとこ中々根性あるじゃねえかよ!」

「いえ、ありがとうございます。でも皆さん、正直米大のこと期待してませんでしたよね?」

「当然」

 田島の声にその場は大きな笑いに包まれた。雪本も笑った。嬉しくて、涙が出るほど笑ってしまっていた。



――うん。絶対続ける。



「今日の中邦は日東に4ー3勝ち、慶城に2ー5負け。チームの勝ち点は2」

中邦の全員が顔を上げた。


「ですが、三ツ橋が米大に3ー4で負けたので、勝ち数の差で、無事、残留することができましたああああ!」

 廊下中に雄たけびが起こった。島与はもう一度大きな声を上げて泣き叫び、みんなから祝福の叩きを受けた。

 高森が「うるさいですよ」と注意する。それでも静まらない様子だったので「まったく」と幹事室に戻った。

「それにしても、きれいに勝ち数一つの差なんだな。中邦と医科大が(18)で、三ツ橋が(17)だ」

「信じられないでしょうね」と高森はもう一度廊下を覗く。まだ中邦は喜びの空気に満ち溢れていた。

「これで僕達も新たなスタートが切れそうです。B級に落ちても、将棋ができないわけじゃありませんからね」雪本がにこっと笑った。

「おう、頑張れよ。なんたって一緒に落ちてきた三ツ橋に勝ってるんだからな」

がははと山岡が笑った。どっかりと椅子に座って、もう一度リーグ表を見る。

「さて、あとは決勝だけだな」

 勝手に幹事の椅子に座られ、高森は不満そうである。

「山岡さん、あなたはいつから幹事になったんですか」

「いいんだよ、古屋の代わり」

 お茶を出そうとした山口を止め、高森は「そろそろ対局室に向かいましょう」と促した。

 いよいよ大会も最終盤。ついに全ての対局が終わろうとしていた。



――池谷君、私ね、好きな人がいるの


 その人はね、多分誰よりも将棋が好きで


 私も嫉妬するくらい


 将棋を愛してるの


 もしよかったら


 私と一緒に将棋を指して


 一緒に好きになってほしい


 そう思ってる


 池谷君


 私と将棋だったら、どっちが好き?




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