貧血パニック
古屋の対局が終了した。阿部の指し回しは全体的に精彩を欠いており、古屋の快勝。感想戦もそこそこに済ませると、すぐに幹事室に足を運んだ。
「お疲れ様です」
高森がパソコンから目を離さずに声をかけた。古屋は「どうも、勝ったよん」と嬉しそうに椅子に座る。
「優勝決定戦は長引きそうだぜ。どこも熱局だ」
「古屋さん見てきたんですか?」
「見てない」
古屋の声に高森は「じゃあなんでそう言えるんですか」とため息をついた。
「じゃあ見てくるよ。高森は?」
「私は仕事があるのでいいです」
「そうか、じゃあちょっくら対局室に言ってくるわ。チームも気になるしな」
さっと立ち上がると、山口がホストのように頭を下げた。「まったく、A級がうらやましいです」高森は頭に手をやる。山口も「同感ですね」と頷いた。
バターン
大きく倒れた音がした。
対局者が一斉に首を向ける。その先には派手に倒れていた長崎の姿があった。うつぶせになっており、長崎の顔が確認できない。
「だっ、大丈夫!?」
達也は自分の足元にあった長崎の手を握る。中々顔を上げてくれない長崎に、心配にならざるを得なかった。次第にギャラリー達が駆け寄り、しきりに声をかける。
「大丈夫?」
「貧血か?」
「えっ、うそ!」
「救急車救急車!」
達也も声をかけるが、返事が無い。誰かが救急車と言ったのを聞いて、居ても立っても居られなくなった。
「救急車だと?」
古屋が騒ぎを聞きつけて対局室に入ってきた。達也が肩を揺すったが、岩のように動かない。「動かすな!」と古屋が達也の手を止めた。
「池谷って言ったっけ、どうしたんだ?」
「急に倒れたんです。なんかこう、バターンって」
東大の石井と森下が「貧血じゃないですか?」と駆け寄る。
「うん、貧血かな。フラッと倒れちまったんだろ」古屋も安心したような素振りを見せた。
貧血かなあ。フラ~っとはしてなかったような。
達也は首をひねり、握っている手に力を込めた。
……死にたい。
長崎は我慢できなくなってしまった。そうして取ろうとした行動は、達也に抱きつくことであった。
勢いよく第一歩を踏み出すつもりが、見事に転んだ。足が痺れていたのかもしれない。とにかく、目の前が真っ暗になり、対局室に響き渡るレベルの爆音を出してしまった。
死にたい。私はいつまで気を失ってればいいの。
「古屋さん、手が熱くなってきました!」
熱い? やだ、恥ずかしくなって体が熱くなってきたわ……
古屋だけでなく、東大、法名のギャラリー達も「どれどれ?」と駆け寄った。
「おい、こんなに集まるなよ! 森下! お前は女の子の手が握りたいだけだろ!」
「違いますよ古屋さん! 偏見です!」
「うむ、確かに熱いですな。古屋殿、貧血になるとこうなるものなのですかな」麻生が長崎の手を取る。
死にたい。
「貧血って血が足りなくなることだろ? 冷たくなるならわかるけど」
「わからないんですか古屋さん、それでも医科大ですか?」
「うるせえ森下!」
「静かにしてください!」
対局室に高森が入ってきた。手には冷えてそうな水の入ったペットボトルを持っている。
「貧血なんでしょう? 冷やすんですよ確か」
やめてやめて。私は貧血じゃないのよ。
「え、貧血って温めるんじゃなかったっけ?」
「そうですな、温めるのが正しかったはずですぞ。高森殿」
「何かっこつけてんだよ高森」
「なんだとお前ら!」
ああ、幹事長までうるさくなってしまったわ。お願い、誰か止めて。そして私をこの場から消して。
「そもそも、本当に貧血かどうかわからないじゃないですか!」
「なんだよ、お前も決めつけてたくせに」
「でもそれ以外あり得ないだろ。応答も無いんだぞ」
そうよね、あり得ないわよね。転ぶなんて。
「貧血ですな。小生はそう思いますぞ」
「単に失神とか、気絶したとかじゃないですか?」貧血とは思っていない達也が口を開く。
池谷君、違うのよ。
「失神ってなんで?」
「そうなるにも原因ってもんがないと」
「僕を見て失神したとか……」
池谷君、何それ……
「じゃあ、顔を起こしてみます? 白かったら貧血濃厚ですよ」
なんだと!?
「詳しいな石井」
「いや~僕も貧血に悩まされてるので」
石井! 誰だか知らないけど殺す! 呪い殺す!
「確かに石井って細いもんなあ。いつも貧血してそうだわ」
「こいつの場合常に貧血顔ですからね」
「ちょっと森下さん~」
周りがドッとなったところで、古屋は長崎の腰を動かして仰向けにさせた。
「あらっ、顔が赤いですな」
「てかやばくね? 汗もすごいし目元まで垂れてるぞ」
ああ、それ涙だわ。
「これ貧血じゃないですね。高熱の可能性がありますよ」
「やっぱり救急車じゃねえかよ」
「そんな突然高熱になるか?」
「池谷、長崎は体調悪そうだったか?」
「いえ……」
達也は長崎の顔を見た。確かに目をギュッと閉じていて、苦しそうだ。
「とにかくここじゃ対局者に迷惑なので、移動させましょう」
高森が立ち上がった。その声に達也も続ける。
「ちょっと、僕が控室に運んでおきます」
「一人で大丈夫か?」
「小生も手伝いますぞ」
「いいですいいです、一人で大丈夫ですよほんとに」
達也はしゃがむと、手際よく長崎をおぶらせた。そのままゆっくりと対局室を出る。廊下に進むと、そのまま階段を下りて、人気のないベンチを見つけて足を止めた。ゆっくりとベンチに横たわらせ、長崎の足元へちょこんと座る。
「長崎さん、もう大丈夫だよ。目を開けて」
え?
「ごめんね。ずっと気付けなくて」
なんのことかしら。はっ、もしかして!
長崎はゆっくりと目を開けた。天井が広がっている。それに被さるように達也の顔が現れた。
「池谷君!」
「長崎さん、病気じゃなかったんだよね。ごめん。ずっと貧血だとか、高熱だとか言っちゃって」
なんだ、もっと重要なことかと思ってしまった。転んだことなんて、もう今さら恥もクソもない。それより、あの発言を知られていないかが問題だ。
でも、嬉しい。
「ありがとう……助けてくれて……」
気付いてくれたのは池谷君だけよね。嬉しい。本当に。
長崎の目に涙が溢れた。それを見て達也はさっと元の位置に戻る。長崎の顔を見ることなく、遠くからハンカチを差し出して、階段を見つめた。
長崎は泣いた。その涙にはいろいろな思いが込められていた。嬉しい気持ちに加え、それまでの自分の考えに後悔していたのである。
こんな人が私の悪口を言うはずがないと。




