各々の戦況
戸刈は早々と穴熊に潜り込んだ。小島も同調するかのように穴熊に潜る。お互い序盤は固めることに専念し、やがて金銀四枚の堅陣が出来上がった。
ビックフォーだ。
達也は本に書いてあった名前を思い出す。本では最も固い囲いと書いてあった。小島の構えはそれだったが、戸刈も合わせるようにビックフォーを目指す。
――力比べか、おもしれえ。
戸刈はニヤッと笑った。
長崎は隣の清野の将棋を見ていた。対戦相手の諸星は、個人戦で負けた相手である。清野がどう思っているかは知らないが、なんとか仇を取ってもらいたかった。
清野は初手をすぐに指さなかった。集中力を高め、気合いを入れている。
普段早指しの清野が時間を使っているとあって、東大陣からは驚きの声があった。それにつられ、諸星もゆっくりと指し進める。互いに気合い十分だ。
最もギャラリーが多かったのが三将戦である。霧江が序盤早々角を交換して飛車を振った。これはプロ間でも流行している「角交換振り飛車」という戦法で、霧江がプロの将棋に精通していることがよくわかる。佐藤は7筋の位を取ると、悠々と玉の囲いを省略して端の位も取った。
佐藤はちらっと霧江を見る。
――これが俺の作戦だ。さあ仕掛けて来い。
ゆっくりしていると、佐藤の位を取った構想が生きてきて、佐藤の作戦勝ちとなる。陣形の差で優位になれば、相手は手詰まりになり、パスに近い手を指さなければならない。そうならないように霧江は早々に仕掛ける必要があった。佐藤の玉はまだ囲いに収まっておらず、不安定だ。
――だから多少無理気味でも霧江は仕掛けるしかない。そこを受け止める。こうなれば俺の得意な展開だ。霧江に勝つにはこの展開しかない!
霧江は小考して歩を伸ばした。佐藤の歩をめがけて△4五歩。歩がぶつかり、早くも戦いが始まった。霧江の攻めが勝つか、佐藤の受けが勝つか。
前田の相手は東大の主力である成瀬。ここは相矢倉に進んでおり、先手の成瀬が攻める展開になっていた。意に介さず前田は受けに回る。この展開に自信を持っているようだった。
実はこの将棋、佐藤との練習将棋で前田が先手を持って負けた対局と同じなのである。つまり、成瀬が前田側を、前田が佐藤の側を持っていた。佐藤はここから実に上手く受け切って前田を料理して見せた。感想戦で奥村と清野も加わったが、本譜の順で先手に良くなる手段は見つからなかった。
――さあ、やってこい。今度は私が佐藤になって受け切ってみせる。
五将戦からは早くも声が聞こえる。
「まーたこんな古臭い戦法ですか」
清野がつまらなそうに両手を後頭部に持っていき、背中を椅子に預けた。天井を見上げ、はーっと息を吐く。
清野の三間飛車に増本は▲5七金戦法で対抗していた。増本の作戦は例によって昭和の時代に流行したものであり、現代で見かけることはほとんどない。
「俺がそんな戦法知らんと思って指したんやろ、甘いで。俺はちゃんとその戦法の対策知っとるし、昭和の棋譜だって普段から並べてる。お前のセコい考えなんてうちには通用しないんや!」
大声で捲し立てると、高森が「静かに」と注意した。騒ぎを聞きつけて達也と長崎が五将戦に駆け寄る。今まで黙っていた増本が静かに口を開いた。
「そんな考えじゃありません。僕は、この形が好きだから指しているんです」
好きだから……
達也は心の中で何度も唱えた。増本は知識の差はとても重要だということを自分に教えてくれた。だから増本はそれを利用して昔の戦法を使っているもんだと思っていた。そうじゃなかったのか。
「私がよく使うゴキゲン中飛車も、池谷君の石田流も、好きだから指しているのよね…….」
長崎は下を向いてぽつりと呟いた。誰にも聞こえないような小さな声だった。隣にいた達也だけが聞こえるような。自分に向かって言ってくれたのだろうと、達也は長崎を見る。
「池谷君のことだってーー」
そう言いかけて長崎は慌てて口を塞いだ。
「い、池谷君も石田流が好きなのよね?」突然達也を見ると、裏返った声を出した。
「す、好きだけど」
達也は言い直す前のセリフがよく聞こえず、少し気になったが、そのままにしておいた。
長崎は小走りで対局室から出る。向かった先はトイレだった。
「あー恥ずかしい! なんでなんでなんで? なんであんなこと言ったの? 聞こえてなかったかな? あーもう! ちくしょう!」
個室に入ってうずくまる。しばらく動けずに、ただ後悔することしかできなかった。
奥村の相手はやはり主力の桐元。春の個人戦では決勝まで進んだ強豪だ。
将棋は横歩取りの激しい戦い。とはいっても、横歩取りの中では比較的穏やかな進行であり、奥村はプロの実戦でもよく見かける「△3三角戦法」を採用していた。奥村の脳内で駒が動き回る。瞬時に最も勝率の高い順を選び抜き、データ通りとばかりに早指しで進める。対照的に桐元は一手一手に時間をかけて悩んでいる様子である。
そうしているうちに桐元に見慣れない手が出た。奥村は静かに目を閉じ、天を見上げる。
――▲5六歩か。さてどうする。選択肢は△5一金、△7二銀、△6二銀、△1四歩、△9四歩。他には△8六歩、△8八角成、△4四歩、△2四飛、△5四飛。データに従うなら……この手か。
奥村は十通りの選択肢の中から△6二銀を選んだ。
――相手は前の手を生かしてさらに▲5五歩と伸ばしてくるはず。データにもそうある。読み筋通りだ。問題無い。
桐元は首をひねって▲5五歩と伸ばす。予定通り。▲5六歩という多少マイナーな手を指されたが、まだまだデータの範疇である。
猿島は宣言通り「左玉」という布陣で挑んでいた。木田は生粋の振り飛車党なので対策は立てやすい。左玉という戦法は出だしが相振り飛車なのだが、王様は右に囲うわけでなく、飛車に接近する左へ動かすのである。王様が飛車に接近することはリスクがある。王様が自ら主戦場へ出歩くようなものであり、攻撃の中心の傍にいることは、自陣がいつ流れ弾に巻き込まれるかわからない不安を抱えることになるのだ。もちろんそれは承知の上で猿島は指し進めている。これが猿島の得意な形だからだ。
――手厚く、手広く、大きい模様を張って迎えよう。
猿島も佐藤のように位を取って堂々とした陣形を取っている。あとは木田が切り込めるかどうかの勝負となった。
――それができなきゃ、僕の勝ちだね。




