弟
「さっきは危なかったな」
前田が戸刈に声をかけた。
「そうっすね、俺と清野と下が取られそうだったって聞きましたよ」
スコアこそ全勝だったが、内容は接戦だった。下手すれば3―4負けしていた可能性がある。事前の予想と違って、米大には団結力があった。
「米大はのびのびと指していたな。やはり油断しないでよかった。育成だったらどうなっていたか……」
二人は控室の中心に置いてあるオーダー表のところへ向かう。そこには奥村と清野がいた。
「東大は上二つが負けたらしいな。早川と石井か」
「じゃあ、俺の相手は諸星で、戸刈が小島っすかねー」
奥村と清野は早速オーダー表に目を通した。次いで戦型チェックで溜め込んであったファイルに目を通す。
「小島は穴熊党だ。相穴熊の勝負になると思うが、戸刈なら一発入れるかもしれん」
「ああ、そこは狙い目だと思っている」
前田も会話に加わった。前田は腕を組み、目を閉じるいつもの姿勢で続けた。
「正直、小島と諸星は穴だ。上は絶対に取りたい。佐藤と私と増本が勝負だな」
目を開けて東大のオーダー表を指で辿ると、白星が目立つ名前のところで止まった。
「この清野っていう新入生もすごいんだ。今のところ全勝で勝ち進んでいる。これは東大キラーの増本にぜひ止めてもらいたいところだな」
「この清野ってのは……」
奥村と前田が同時に顔を向けた。向けられたその男は頭を掻き、バツの悪そうな顔をして、口を開いた。
「実はそいつ、俺の弟なんですわ」
「法名かー、戦いたくないねん。副将にうちの兄貴おるねんもん」
清野清太は同期の一年生達に、ディベートさながらの身振り手振りをして話していた。
「将棋界には『兄貴は馬鹿だから東大に行った』って名言あったな。でもな、あんなん嘘や。今の時代はこうやで。兄貴は馬鹿だったから法名へ行った。俺は頭がいいから東大に行ったってな」
聞いている数人から笑いが起こる。
ちなみにその名言というのは、プロ棋士の米長邦雄が残したもので、正しくは『兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった』である。これはプロ棋士がいかに難しいかということを表しており、つまり東大のほうが簡単だということだ。
「なんだよ、全然元と関係無いじゃん」
「そんな冷たいこと言わんといてや。なんでもどこかでつながってるもんやで」
「わけわからんわ」部員の一人が突っ込み、また笑いが起こった。清野はペラペラと口がよく回る。お調子者とよく言われるが、その分実力は確かだった。
兄の清次と競い合って、小学生時代は大阪で『清野兄弟』が一躍有名になった。大会では兄弟揃って次々と入賞し、もはや大会荒らしと化したのである。中学生まで清次のほうが強かったが、高校に入って力関係が一変した。
「受験勉強ですよ。親にやれやれうるさく言われまして。高校に入って勉強やらなあかんくなって将棋を休止したんです」
前田と奥村は腕を組んで聞いていた。清野の後ろには麻生、下田、達也が首を伸ばして聞いている。
「そしたら清太はぐんぐん強くなった。勉強もあいつのほうがよくできたし、うちは敵うとこなくなってきてもうて……」
「清野兄弟って確かに昔聞いたな」
前田が顎に手をあて、天井を見上げる。
「なるほど、清野の弟だったのか。まあ増本もそれは知ってるだろう。あいつも小学生の頃から大会で活躍していたからな」
奥村は眼鏡を触りながら遠くにいる増本を見つめた。
「とにかく、生意気な弟なんで絶対に連勝を止めてもらいたいんですわ。そろそろお灸をすえてやらんと」
清野はやれやれといった表情で目元を押さえた。




