雪本の苦悩
既に対局室では米大のレギュラー達が控えていた。こちらは首のかかった一番とあって、部員全員で集合している。だが、表情は曇っており、生気が無い。
「まだ、落ちたわけじゃありません!」
雪本はすっかり諦めている部員達を見渡した。
「法名は東大戦がありますし、こっちの対局なんて眼中にないでしょう。育成オーダーの可能性もあります」
「育成オーダー?」雪本に視線が集まった。
「主力を温存して、ちょっと力が劣る人を出すことです。新入生とかに経験を積ませたりする時によく使われるんですよ。組み合わせによっては、隙を突いて四本取れるかもしれません」
「その可能性は大いにあるな」
誰かがそう言って米大の空気は少し変わった。
「大将戸刈、三年です」
米大勢は法名のオーダー表を覗き込むと、その場に崩れ落ちた。まさか、法名がフルメンバーで挑んでくるだなんて。これで決定的である。失意の中、雪本だけは希望を失っていなかった。堂々と最後まで名前を読み上げ、レギュラー達に「頑張ってください」と声をかけた。悔いは無い。目がそう言っていた。
「奇跡を信じよう」
優勝争いの真っただ中ということもあり、対局のない者ははリーグ表を見つめている。順位が下になるにつれ、黒星が目立っており、まさに順位通りの展開だ。準レギュラー達は星勘定をして、どこが落ちるかを計算している。法名とは関係の無い話だからか、皆楽しそうだ。
「ふむ、降級候補は中邦、医科大、三ツ橋、日東ですかな。米大は確定として……」
「どこも難しいね。日東も中邦に負けそうらしいから、次の医科大戦に負けてもおかしくないし。そうなると……」麻生と伊藤が指を折って勝ち星を計算している。
「そんなに日東ってやばいんですか?」達也は麻生に尋ねた。
「神野が出てませんからな。厳しいかもしれないですぞ」
出ていない……
達也は言葉を失った。出ていないとはどういうことだろう、あの日の叫びは無駄になってしまったのか。
「そうですか……」
そう呟くしかなかった。ちらっと日東と中邦の対局を確かめる。やはり白髪は居ない。
「池谷殿、それより米大戦を見守りましょう。米大はアマ二段の小生ですらレギュラーになれる大学。なんだか身近に感じてしまうのです」
達也にはよくわからなかったが、それだけ米大が戦力に苦しんでいることは伝わった。主将も強くないという評判。いろいろ問題を抱えているのだろう。
達也はトイレに向かった。やはり、神野のことで頭がいっぱいになってしまっている。一旦顔を洗い、法名の応援に集中しよう。そう思いながらトイレのドアを開いた。
個室から声がする。達也はそっと近づき、耳を傾けた。
「……みさま、どうか、どうかチームを勝たせてください。お願いします」
お祈りをしているようだ。その声は甲高く、特徴があった。
「米大はこの勝負に負けると、B級に落ちてしまうんです。神様、どうか勝利をお願いします。主将、雪本蓮」
達也はそこで声の主が米大の人だと確信した。すると、急に個室が開き、達也とばったり目が合ってしまった。慌てて達也は便器に寄り添い、用を足すふりをする。
「すいません、うるさくて」
その男は、申し訳なさそうに頭を下げた。雪本と言っただろうか、背は小さく痩せていて、眼鏡をかけている。いかにも運動が苦手そうな、ひ弱な体つきをしていた。
達也は無言で頭を下げる。雪本の姿には哀愁が漂っていた。
「大変ですね」
つい、口が滑ってしまった。はっと口に手をあてる。
「いえいえ、大変ですよ」
雪本はこともなげに続けた。
「勝てないんです。A級って。B級とは住む世界が全然違うというか……ほんと、次元が違うんです」
達也はどう答えていいか迷った。そもそも、自分はB級のことをよく知らない。それに、もし彼が主将だとしたら、同じ一年生だからB級を経験したことだってないのでは。
「あの、一年生ですか?」
「ええ、あなたは?」
「あっ、僕も一年生です。法名で……」
「法名大学ですか! 強いですよね!」
雪本はよりトーンを上げてみせた。達也は謙遜する。そして、疑問をぶつけた。
「B級にいたことって……」
「ええ、僕、高校生の頃から米大将棋部のことを気にかけてたんです」
雪本は高校時代、受験勉強の合間を縫って志望校の将棋部をネットでチェックしていた。誰々という先輩がいて、チームの勝敗、個人の成績など、余すことなく情報を仕入れていた。それだけ大学将棋に興味があったのである。
「なんか気持ち悪いですよね。ストーカーみたいで……」
「そんなことないですよ」達也の目は真剣だった。
「僕は米大にどうしても入りたかったんです。東大や法名じゃレギュラーには絶対になれないし、場違いな気がして。でも、米大は自分でも力を出せるんじゃないかと思いました。僕が大学将棋に興味を持った高校一年生の時、米大はC級だったんです」
C級。それは大学将棋界の中で、最も低い立場にあるリーグだ。記録係は存在せず、人数不足で不戦敗になることも度々起こる。レベルも当然ながら低い。
「C級は、誰にでもチャンスがある素晴らしいクラスなんです。初段の僕でもレギュラーになれます。団体戦でも勝てるかもしれません。だから、僕は机にかじりついて勉強しました。米大の緩い雰囲気に憧れたんです」
「ああ、だから主将を?」
「いえ、これは違うんですけどね……」
緩いはずだった。理想と現実のギャップを埋めるには、部に足を踏み入れるしかなかった。高校時代に、一度でも見学していればと悔やむ。チームが本気になってくれるにはどうしたらいいのか、やる気を引き出すにはどうしたらいいのか、さっぱりわからず、ただ途方もなくチームが負けるのを見守るしかなかった。
「B級に上がって戦力も上がったんですね」
「ええ、僕の一つ上の代が強かったんです。といっても、A級では通用しません。皆アマ三段程度ですから」
「アマ三段……」
達也の表情が曇る。A級とはどんな世界なんだ。アマ三段でも通用しないとは。これではいつ自分が対局できるのか、皆目見当がつかない。卒業するまでに、果たして自分はレギュラーになれるのだろうか。レギュラーになって、対局したい。それには……
「強くなるしかないんだな」
「え?」
「強くなるしかないんですよ」
強くなるしかない。雪本はなんのことかわからなかった。
「早く強くなって、みんなに追いつかなきゃ!」
「……そうか」
雪本は、部員達がやる気を引き出してくれない原因がわかった。僕だ。僕がいつまでたっても成長しないから、部員達は呆れているんだ。
「ご指南ありがとうございました!」
雪本に光が差した。ようやく、道が開けたのかもしれない。雪本は達也に一礼をすると、廊下を抜け、階段を駆け下り、トイレを飛び出た。
「勉強でも成績は上がったんだ。将棋だって!」
努力すれば報われる。雪本は控室に戻り、自チームの応援を忘れ、将棋盤を取り出し、駒を広げた。いつもより手つきも力強く、堂々と、駒を並べる。そして、高々と初手を指した。




