才能
「ただいま」
沙織はまだ帰っていないようだった。
「おかえり。どうしたの? すごく遅かったわね」
登紀子がいつもの居場所であるキッチンから声をかけた。
「僕、大学で将棋やることにした」
「へー」
登紀子は興味が無いかのように、あえてぶっきらぼうに答えた。だが、内心ドキドキしていた。ついに大学に入ってからやる気あるものを見つけてくれたか、と。
青春なんて、今からいくらでもできるのよ、と言いかけたが、達也に怒られそうなので止めた。興奮しているのがバレないように、できるだけ自然に声を出す。
「いいじゃない、沙織もいるんだし、わからないことがあったら質問してみな」
「まあね」
夕食は既にできていた。達也は慌てて支度を済まし、席に着く。
「いただきます」
「もう母さん食べちゃったわ。達也も遅くなるんだったら連絡してちょうだいね」
達也は頷きつつ、冷めたハンバーグを口に入れた。
「今日はお疲れ様でした。えーとみなさん、やはり強いですね。私もそろそろ抜かれてしまうのではないかと戦々恐々(せんせんきょうきょう)でございましてね、えー将棋とは……」
研究会もいよいよ終了である。高山が皆の前に立ってあいさつをしているが、誰もそこまで集中して聞いている様子はない。帰り支度をしている者がほとんどだった。
沙織の成績は一勝二敗。相手が強かったとはいえ、内容はここ最近で一番良かった。日に日に強くなっている自信がある。今年こそは初段になれそうだという手応えがあった。
ぞろぞろと棋士達が部屋から退出していく中には、飲み会に向かう者、将棋会館に寄る者などいるが、沙織は決まって早く帰ることにしている。沙織がハイヒールに足を通そうとした時、高山が後ろから声をかけた。
「池谷さん、帰り送ってくけどどうする?」
「ありがとうございます。すいません先生」
お言葉に甘えて高山に送ってもらうことにした。高山の車はいわゆるピカピカの外車であり、相当高価なものだと、車をよく知らない沙織でもわかった。なんて車種だっただろうか。
「ホットロッドって言うんだ。こいつは川も渡れるほど頑丈な怪物だぜ」
そんな機会なんてあるのだろうか。それにしても車内は煙草臭かった。
達也はパソコンの前に座っていた。おかしい。昨日は勝てたのに、今日のハム将棋はやけに強い。やはりあれはマグレだったのだろうか。自分をボコボコにした下田でさえ三回に一回しか勝てないのである。この日達也は五回も挑んだが、一回も勝てなかった。
この際恥を忍んで姉貴に質問してみようか。母の言葉が頭に浮かんだ。
ちょうど沙織が帰ってきた。疲れているのか、ゆっくりと階段を上がってくる。達也は自分の部屋に入ろうとする沙織を止め、あらかじめ用意したコーヒーを差し出し、質問をぶつけた。
「そりゃそうよ。あんたまだ初心者でしょ」
沙織がコーヒーを手に取る。
「ハムちゃんを舐めないほうがいいわよ。初心者でもそう簡単に勝てないようにできているんだから」
やはりそうだったか。下田の言っていたことはどうやら真実らしい。
「姉貴も負けたりするの?」
「馬鹿言わないでよ。ハンデあげても勝てるわよ。それにしても、どうやってハムちゃんに勝ったわけ? 何も基本とか知らないでしょ」
「昔姉貴に教えてもらった陣形使った」
「そんなの……」
思い出した、私が小学生の頃だ。あまりにも将棋が好き過ぎて、弟に将棋を教えていたのだ。王様の囲いや戦法。戦法といえば、私が当時生み出した新戦法も教えた。ずいぶんと自慢したなあ。今となっては欠陥だらけで全然ダメだとわかったけど、当時は楽しくて仕方なかったのを覚えている。あれからちっとも達也は将棋に興味を持ってくれなかったが、まさか覚えていたとは。
「もしかして石田流?」
「それだ!」達也は手を叩いた。
「は~すごいわね。こんなど素人でも勝てるんだから、戦法の優秀性が認められたってことかしら」
私も昔からずっと石田流を使っていた。そのおかげで子ども将棋大会では優勝できたし、プロ試験にも合格できた。今でも私の相棒のような存在。達也も使っていたとは、血は繋がっているものね。
「かっこいいんだ。自陣の全ての駒がイキイキしていてさ、盤の左は天空の城、右は電車だよ」
天空の城? 電車? 一体なんのことだろう。達也の独特の感性にはいつも困らせる。よく言えばかわいいんだけど、悪く言えば子どもっぽいというか。
「で、陣形を作ったはいいんだけど、攻め方がわからないんだよ。姉貴、教えてくれ」
「いいわよ。じゃあハムちゃん相手に指してあげるわ」
沙織は早速ハム将棋のページを開き、座椅子に腰掛けた。達也も傍に寄り添う。
沙織は慣れた手つきでマウスを動かしていく。それにしても手が早い。全てのプログラムを暗記しているかのような早さだった。このくらいは誰でもできるなんて沙織は言うが、達也にとっては人間業とは思えなかった。
「んーちょっとハムちゃんが弱過ぎて参考にならないかもしれないけど、雰囲気はわかる?」
「うん。いいよ」
達也の目にもハムの手がおかしいことははっきりとわかった。歩をただで取られる手を指してきたからだ。もっと早く潰そうとすれば、沙織は簡単にできるのだろうが、達也に配慮しているのがなんとなくわかった。あえて王道の指し方を見せようとしている。
「今の王様の囲いが美濃囲い。本美濃ともいうかしら」
「それそれ。なんか電車っぽくない?」
「だから電車って何よ」
「金銀が連結してるじゃん」
「ふ~ん。ずいぶんとイモムシみたいな電車ね」
なんとなくわかったような気がする。美濃囲いは金銀の連結の良さが売りでもある。組み方も簡単なので、これなら達也も覚えやすいだろう。
「じゃあこれから攻めるよ。まずは▲5六銀と出て……」
対してハムが王様を右へ寄せる。まるで、これから猛攻撃が来るのをわかっているかのようだった。
「次に▲6五歩」
ハムは突かれた歩を取る。
「そして▲7四歩。どう? 飛車も角も躍動しているでしょ」
それまで邪魔していた歩がどいたことで、飛車も角も一気に相手を睨む大砲と化した。達也が感動に近い感情になる。沙織の手によって、それまで窮屈そうにしていた駒達がカッと目を光らせて、相手陣を潰そうと生き生きしてるではないか。駒に命を吹き込むとは、こういうことなのだろう。
「この歩も相手の歩に取られちゃうけど、飛車で取り返せるから平気よ」
なるほど、ただではないのか。それなら安心だ。あれ? こんな光景どこかであったような。
「後は桂も使ってね。とにかくガンガン攻めるの。自陣は固いんだから。反撃されるかもしれないけど、臆せず攻める。これだけで勝率は上がるはずよ」
それからハムの王様を捕まえるのに時間はかからなかった。あっという間に駒をむしり取り、全部の駒が取れそうなところで勝利の二文字が出た。
「ありがと!」
達也が笑顔を見せた。
沙織のおかげで、達也はすっかり勝ち方をイメージすることができた。将棋はなんて楽しいんだろう。勝てば最高のゲームである。
沙織が部屋から退出する。左手にあるコーヒーはまだ温かいままだった。
達也はさっそく教えられた攻め方を使って対局してみる。するとどうだろう、あっという間にハムの陣形が崩壊し、たちまち竜と馬を作ることに成功した。こうなると負けられない。以下はじっくり考えてハムの王様を詰ますことに成功した。
これは快感だった。その後、達也はハムの行動パターンに慣れたのか、何連勝もできた。
だが、いくつかのパターンの中に飛車先をぐんぐん伸ばしてくるものがあった。石田流に組もうとしても、先に攻められて潰されてしまうのである。どうすればいいのだろう。達也は部屋を出て隣にある沙織の部屋のドアをノックした。
「姉貴、質問いい?」
「なーにー?」
声はするが、部屋から出る気はないようだ。
「ねえ、先手なら石田流に簡単にできるけど、後手になると組めないんだけど」
沙織はベッドに寝転がってケータイを見ていた。それって、私の最近の悩みと同じことじゃない。うんざりした顔を見せ、すらすらと質問に答えてみせる。
「そうよ。だから今プロ間でも様々な工夫をしているのよ。△3二飛戦法とか、4→3戦法とか……」
ん? 私は何を言っているのだ。こんなことを言っても理解できるわけがないだろう。達也はまだ将棋を始めて間もないというのに。
「あんた、よく気付いたわね」
沙織がベッドから起き上がった。
「一手遅いんだよ後手番は」
その言葉を聞いて、沙織の予感は確信に変わった。
そうか、弟には将棋の才能があるのかもしれない。初心者が先後の違いにここまで敏感になるだろうか。沙織は取り憑かれたように部屋の押し入れを漁った。
「相手が▲2六歩から▲2五歩ってやってきたらどうすればいいのー?」
達也は再びドアを叩く。早く部屋を出てくれないだろうか。いや、聞き方が悪かったかもしれない。達也はより具体的に悩みをぶつけた。
「歩を交換されて石田流にできないじゃん。その対処法を教えてくれよー」
その途端、勢いよくドアが開いた。沙織はイラスト付きの本を持っており、何やら真剣な顔つきである。
「あんたにこれあげるわ。捨てないで良かった」
本のタイトルは「将棋入門教室」と書いてあった。なんだか子ども向けみたいな表紙で、本を手に取るのに気が引けたが、沙織の気迫に押された。それより肝心の答えがまだである。
「あの、僕の質問聞いてた?」
「その話はまだ早いわ。まずは基本をしっかりと勉強すること。全部読んだら教えてあげる」
「えー」
「みんなやってきていることよ」
基本が大事なことはわかったが、それにしてもこの本はなんとかしてくれないだろうか。中を覗いてみたが、本当に子どもが読むような本だ。かわいいイラストの動物が、大きな文字で「さあ、将棋をはじめよう!」なんて言っている。姉貴め、また僕を子ども扱いして……