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関東大学将棋物語  作者: るかわ
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沙織VS女流王座


 午前九時三十分。沙織は将棋会館からすぐ近くにある神社にいた。普段は対局前に寄ることはないのだが、今日くらいは神に頼りたかった。目を閉じ、手を合わせ、勝てますようにと祈る。きっと難しいと思う。世間も王座には敵わないと見るだろう。負けたとしても、せめて恥ずかしくない将棋を残そうと心に決めた。

「あら、池谷さん」

 木漏れ日に当たりながら、その人はゆっくりと沙織に近づいてきた。

「中水女流王座」

 白い大きな帽子をかぶり、手にはシャネルだろうか、高級そうなバッグを持っている。白いドレスに、白いハイヒール。何もかもが白くて透き通っていた。

「おはよう、今日はいい勝負を期待しています」

 王座はにこりと笑った。相変わらず美しいなと、沙織は惚れ惚れとした眼差しで王座を見つめた。軽く会釈を交わすと、王座はゆったりと歩みを進める。沙織はその後をいつもよりゆっくり歩いてついていく。連盟まですぐの距離だったが、今日はとても長く感じた。

 中水女流王座は沙織に次いで人気がある女流棋士だ。元々、沙織がプロ入りするまでは彼女がアイドル棋士として売っていたのである。歳は沙織より一回りも上だが、重ねるごとに女性としての魅力が増した。それに加えて、沙織がプロ入りする前からタイトルを何個も保持するなど、実力もトップクラス。沙織が尊敬する棋士の一人である。

「おはようございます」

 対局室に入ると、記録係が二人に深々と頭を下げた。沙織は「桑原君」と声をかける。先日の研究会で一緒だったのでよく覚えていた。桑原は「どうも」と恥ずかしそうにはにかむ。

「池谷さん、聞いたわよ」

 普段対局前にはめったに話さない王座が沙織を見た。

「この前の道場の指導対局で、浅浦さんに勝ったんですってね」

 浅浦。もしかしてあの男だろうか。沙織と激闘を繰り広げた「女殺し」とかいう――

「浅浦さんは私の将棋サロンの常連さんでね、正直、あなたが勝ったなんて信じられないわ」

 王座はその人気を買われ、都内の道場で専属の師範となっている。どうやら浅浦はそのことを王座に話したらしい。王座が駒箱を開ける。盤上に駒が舞う。王座は王将を手にする。

「今日は浅浦さんの敵討ちってことで、私も全力でぶつかります」

 口調はいつもの柔らかさがあったが、目は本気だった。王座の本気だ。沙織はまるで蛇に睨まれた蛙。沙織の駒を取る手が震え、ぽとりと落としてしまった。別段気にすることなく王座は駒を並べる。

 変なこと言ってるなと桑原は首を傾げた。そのまま桑原は王座の歩を丁寧に五枚取り、大きな白い布の上でシャカシャカと振る。ほとんど音を立てることなく、舞い降りるかのように歩が布に着地した。歩が三枚。王座の先手だ。

「それでは時間となりましたので、中水女流王座の先手番でお願いします」

桑原がそう言うと、対局者の二人は頭を下げた。いつの間にか入室していたカメラマンとネット中継担当者がスタンバイしている。

 ▲7六歩。王座が初手を指すと、カメラマンがカシャカシャとその様子をフィルムに収めた。すっと手を離し、沙織の指し手を待つ。鋭い視線が、沙織を襲う。

 △3四歩。この時、沙織は王座の異変を感じ取っていた。普段はカメラマンに配慮して、初手をもう一度指す。待ったではない。カメラマン用に初手を写させるのである。そうしておいてもう一度初形に戻し、再び同じ手を指すのだ。これはルール違反ではなく、一種のファンサービスとして認められている。今日はそれが無かった。どことなく、勝負を焦っているのではないかと、勘ぐった。

 王座は時間をかけずに▲2六歩を指す。沙織は少し間を置いた後、△5四歩と指した。

――石田流じゃないのね。

 あてが外れた。王座は腕を組むと、右手を折り曲げて、右の拳を顎に当てた。

どうしようかしら。ゴキゲン中飛車とは思わなかったわ。

 しばらく定跡通りに指し進め、なんでもないような局面で王座の手が止まった。王座は、この一局の注目度を考え、工夫しようとしたのである。17手目。まだまだ定跡の範疇だが、王座はある手順を考えていた。



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