苦悩
暗くなってきた。将棋の研究していると、あっという間に時間が経つものね。
沙織はパソコンの前から離れて、将棋盤の前に向かっていた。明日に対局が控えているだけあって、真剣そのものである。
突然沙織のケータイに着信が入った。誰かと思いきや、高山である。
「もしもし」
「明日、中水女流王座と対局なんだよな」
高山はいきなり要件をぶっこんできた。ピリピリしているかもしれないなと、気遣うつもりは毛頭ないらしい。沙織は「ええ」と落ち着いて返す。
「そこでな、明日の対策として将棋合宿をしようと思ってな。どうだ? うちに泊まりに来ないか?」
将棋合宿という言葉に心が揺らいだが、不安も多い。
「誰が来るんですか?」
「ん? それはな、まだ未定だ。今のところ池谷さんだけだが」
「そうですかーすいませーん。お気持ちはありがたいんですが、遠慮させてもらいますう」
棒読み丸出しの声で電話を切った。まったく、デリカシーのない人は困るわね。
明日の対局は沙織にとって初めてのタイトルホルダーとの対戦だった。女流名人戦の予選決勝。沙織はリーグ入りをかけた一戦で、中水女流王座と当たる機会を得た。この一局はネット中継もされ、世間の関心も高い。沙織はなんとしても負けられなかった。この一局に勝てば、昇段規定により女流初段に上がれるからである。いつもあと一歩のところで昇段を逃していた沙織だが、今回は強くなっている自信があった。もしかしたら勝てるかもしれないと、心のどこかでそう思う。
もう一局24しよう。どうか明日は勝てますように。
<ごめん! 気付かなかった!>
達也は家に戻り、部屋に入ってから長崎にこう返信した。気付かなかったのは本当である。体の良い言い訳も思いつかなかったので、正直に白状する道を選んだ。
<いえいえー! 大丈夫ですよー!>
また速攻で返信が来る。本当に大丈夫なのだろうか。
時刻は夜の十時になろうとしていた。この時間ならまだ大丈夫かもしれない。達也は通話のボタンを押した。あくまで、そういうつもりではなく。
ぎゃあああああ。
長崎は驚いてケータイを放り投げた。着信が入るなんていつぶりだろう。そもそも、家族以外と電話をしたことが無かった。恐る恐るケータイを拾い、着信相手を見る。
「池谷君……」
長崎はうつむいた。
喜んで電話に出たかった。だが、変なプライドが長崎を邪魔した。自分の気持ちを察してもらいたくなかったのかもしれない。
「怖い……」
自分の気持ちがよくわからない。長崎はそっと電気を消した。
…………おかしい。いつもメールはすぐに返してくれるのに、なぜ電話に出てくれない。
達也は「はーっ」とため息をついて通話をキャンセルした。
「よくわからないんだよね~」
ベッドに飛び込み、ねずみのぬいぐるみをわしゃわしゃと撫でた。
「僕も長崎さんもよくわからないんだ。どうしたらいいと思う?」
「きっと、寝たら良くなると思うよ!」
達也は裏声を出した。
「本当かなあ」
「本当だよ!」
朝になれば気持ちが変わるかもしれない。達也は電気を消した。




