失態
疲れ果てて寝てしまったようだ。達也は朝日を右手で遮りながら、床に置いてあった上着をハンガーにかけ直す。
「あーっ!」
達也は上着のポケットにケータイを入れっぱなしにしていた。慌ててケータイを開いてみると、未読のメールと着信履歴に長崎の名前があったのだ。メールにはこんな文章が書いてあった。
<今日はお疲れさまあ! 眠れないから電話してもいいかなー?>
これはもう、そうとしか言えない。いくら恋愛に疎い達也でもわかった。昨日の自販機の場面がフラッシュバックする。あれは偶然じゃなかったのかと頬を赤らめる。今さら電話しても迷惑だと思った達也は、そのまま放置して着替えの準備をした。平静を装っているつもりだった。
「あーくっそー」
だが、我慢し切れなかった。何度も何度も頭を壁にぶつける。やはりそう言わずにはいられなかった。ネズミのぬいぐるみを足だけ掴んで、ぐるぐると回す。
どうしても昨夜の失態が悔やまれる。なぜケータイを確認するのを忘れるほど将棋に打ち込んでいたのだろう。部室で会ったら謝るしかない。達也は白いパーカーを選ぶと、小急ぎで階段を駆け下りた。リビングでは登紀子がソファーに座っている。
「おはよう。もう十時だけど、今日は授業無いの?」
「うん、無いよ」
嘘である。将棋にどっぷりハマった代わりに、すっかり達也は授業をサボるようになってしまった。急いでいるのも、早く部室に行きたいがためだ。ヨーグルトを口にすると、洗面台に駆け寄り、寝癖を直す。
「姉貴は?」
「沙織ならまだ寝てると思うけど」
勝手に棋譜を持っていってもいいのだろうか。聞きたかったが寝ているのでは仕方ない。部屋に戻り、部室で先輩達と並べるために、棋譜用紙を数枚手にして鞄に入れた。
「あんたお風呂入ったの?」
登紀子は深夜に帰ってきたのを知っていたようだ。当然入る気はなかったが、もし長崎と会った時のことを考えると、心が揺らいだ。
「シャワー浴びてくる」
やれやれ、といった顔で登紀子はタオルを用意した。最近、好きなことを見つけたはいいものの、肝心の生活が乱れてきた。学業もどこまでやっているのか心配である。まったく、誰に似たのかしら。登紀子はクスッと笑った。
「死にたい死にたい死にたい」
「どうしたのさながこー」
部室には落ち込んでいる長崎と、それをなだめる下田、一人で棋譜を並べている佐伯がいた。
「なんでもないんです。死にたいんです。ただ、それだけなんです」
「話してみなよながこー。佐伯、デリケートな話題だったら出てってよね」
「マジッすか。そう言われると聞きたくなるじゃないですかー」
「いやー死にたいだけですよ?」
そう言って長崎は何気なくスマホを見た。昨夜、自分が送ったメールは既読になっており、それが余計に気持ちを沈ませる。机に頭をぶつけ、だらんと腕が垂れた。
「ながこー!」
「相談なら乗りますよ!」
ああ、もう呆れられてるんだわ。調子に乗った私が馬鹿だった。
「こんちわー」
池谷君か! と長崎は凄まじい勢いで首を回転させた。が、その思いもむなしくドアの前にいたのは橋本だった。
「明日東大行ってきまーす」
「へ?」
下田と佐伯が同時に声を出した。長崎も首に手を当てながら反応する。
「今度、ツイッター内でオフ会がありまして、主催が東大の人なんですよ」
「なんだ、将棋しに行くんじゃないのね」
「もちろん将棋目的ですよ!」
「東大将棋部とは何も関係ないわけ?」
「活動くらいなら見れると思いますけどね」
橋本はそこまで東大将棋部にこだわりはないようである。だが、下田は活動が見れると聞いただけで、一気に興味が湧いた。
「橋本、うちも連れてってよ」
「え、先輩ツイッターやってないでしょ!」
「関係無いわよ。何気なく保護者のふりして侵入すればいいじゃない」
「保護者って……」
「先輩……」
「さすがにそれは」
「何よみんなしてー! ながこまでー!」
下田はおぎゃーおぎゃーと暴れ出した。三人は避難する。部室から逃げようとした矢先、ふいにドアが開いた。
「あのー外まで聞こえてますけど」
達也は呆れた顔で皆を見た。
「池谷君!」
下田がドタバタと駆け寄る。
「池谷君聞いてよ~」
達也は橋本の東大に行く話を聞かされた後に、どうするかと尋ねられた。おそらく自分も来るかどうかだろう。よくわからないまま「行きます」と言ってしまった。
「これで決まりね。うちと池谷君もついていくわ」
「えー困りますよ」
橋本が首を傾け、頭に手をあてた。達也も内心で同じことを言っていた。
「先輩、なんなら俺も連れてってくださいよ!」
「おー佐伯! よしよし、そうだよな、本当はこっちに行きたかったんだよ、な?」
下田は「な」の部分に力を込めて橋本を見た。橋本は渋い顔をしたものの、勢いに押されついに屈した。
「ツイッターのオフ会ですから、皆さんあまり楽しめないと思いますよ?」
橋本は念を押す。
「どういう状況かわからないけど、東大には入れるのね?」
「はい。東大の部室と、学館のロビーとで、二つに会場が分かれているんです。部室では普通に東大が活動していて、その日は出入り自由でオープンな感じになっています」
下田は何度も頷き、「文化祭みたいなものね」と言った。
少し緊張してきたが、達也もそういうことならと参加に踏み切った。団体日本一の東大がどのような活動をしているのかなんて、とても興味がある。
「ながこはどうする?」
長崎は顔が赤くなっており、無言で下を向いていた。そこでやっと達也も思い出した。どう声をかけていいかわからず、気まずそうに下を向く。
「ながこー行かないのー?」
「い、行きます!」
ぐっと決意したように歯を食いしばり、顔を上げてみせた。視線は達也ではなく下田に向けられている。達也は、電話のことを言う気になれなかった。
「四人とも僕らのオフ会だけは邪魔しないでくださいね」
「四人じゃないわよ、麻生とかも呼ぶから五~六人よ」
「そんなに大勢で!?」
「よっしゃー! 明日は東大達をぶっ飛ばすわよー!」
「おー!」
結局、明日は橋本がみんなを案内するということで決まった。集合場所や時間も全部設定しなければならない。こんなことなら自慢しなければと自分を悔やんだ。




