詰むや詰まざるや
増本は少しずつ差を詰めており、形勢は互角近くまで戻っていた。だが、まだ形勢は悪い。結果的に竜を引いた勝負手は成功した。得意の終盤勝負に持ち込めたのである。将棋はいよいよ大詰めの局面を迎えている。
――詰ませば勝ち、詰まなかったら負けですね。
対局相手の小川は、増本を試すかのような手を指した。詰ましてみろ、詰まさなかったら自分の勝ちだ。そういう手である。増本が熟考すると、小川は言いようのないプレッシャーに押し潰された。相手は終盤力に定評のある増本である。それを跳ねのけるように、首を上げ、増本をじっと見る。
詰まなかったら勝ち、そして俺の目からは詰み筋が見えない。さあどうだ!
「これ詰むのか?」
「開き直られてみるとわからない」
「度胸のある手だな」
観戦者達は、詰むか詰まざるかを検討するために、医科大のいる控室を検討陣本部とした。その場には法名のレギュラーに加え、古屋、田島、島与、また、日東や三ツ橋のレギュラー達も覗いていた。
「増本はこういう局面は絶対詰ましますから、大丈夫っすよ!」
佐藤の声に検討陣は期待したが、猿島が「なかなか詰まないよ」と言うと、期待は一気に萎んでしまった。
「こういう局面でコンピューターだったら簡単に詰ますんでしょうね」
「奥村さん持ってましたよね? 調べてみます?」
奥村は腕を組んで動かない。
「奥村さん?」
「それでは味気無いだろう」
眼鏡を二本指でくいっと上げ、ノートパソコンを鞄に入れた。
「増本の終盤力に懸けるしかない」
前田の声に、検討陣からはため息のような吐息が漏れた。
「今頃あいつの脳はフル回転しているはずだ」
取る、取る、取る、寄る、打つ、逃げる、打つ、逃げる。
取る、取る、取る、寄る、取る、逃げる。
取る、取る、打つ、逃げる、取る、逃げる。
取る、取る、打つ、逃げる、打つ、逃げる、打つ、逃げる。
取る、取る、打つ、逃げる、打つ、逃げる、取る、取る、打つ、逃げる。
打つ、逃げる。
取る、取る、取る、寄る、打つ、逃げる、打つ、逃げる。
取る、取る、取る、寄る、打つ、逃げる、引く、逃げる。
取る、取る、引く、逃げる。
取る、取る、取る、寄る、打つ、逃げる、打つ、逃げる。
取る、取る、取る、寄る、打つ、逃げる、引く、逃げる。
取る、取る、打つ、逃げる、引く、逃げる。
取る、取る、打つ、逃げる、取る、逃げる、引く、逃げる。
取る、取る、引く、逃げる。
――わからない――
五十九秒まで読まれ、増本は銀で相手の金を取った。相手もノータイムで取り返す。時計を叩く手は震えていた。増本は再び読みを入れる。
取る、寄る、打つ、逃げる、打つ、逃げる。
取る、寄る、打つ、逃げる、引く、逃げる。
引く、逃げる。
打つ、逃げる、取る、逃げる、打つか引くか取るか。
打つのは……いや、引くと逃げてそこで……
増本はがっくりとうなだれて金を打った。詰まないことがわかったからだ。
相手はまたもノータイムでそれを取った。
「▲5二金に△同金です!」
指し手を報告する係の島与が、ばたばたと控室に入ってきた。
「取る?」
「取ったのか?」
「逃げても際どいのにこれは」
「ちょっと詰みそうな気がしますよね」
「でもまだ超難解だ」
こうなると検討陣は慌ただしい。だいぶ手が絞られ、結論が出せそうな局面になってきている。しきりに意見が交わされ、検討の盤上に手がうようよと動く。
――取る?
増本の読みに無い手が出た。それまで増本は五十九秒まで考えて指していたが、この馬を引く手はわずか十秒ほどで指した。
「▲2四馬です!」
「引いた!」
「詰むか?」
「もうちょい、もうちょい足りない」
「ギリギリ詰まなそうだが……」
わずか十秒、この自信は一体どうやって……
慶城勢は依然として対局室で観戦していた。
詰むのか?
詰むかも?
レギュラー達は顔を見合わせて困惑している。対局者である小川も同じ心境だった。
増本が十秒で指したということは、そういうことなのかもしれない。読み切られたか。だが、俺にはわからない。玉を寄ったらどうなる。どうなる。どうなる。
……どうなるんだよ!
「△4一玉です!」
島与の声に検討陣はまた静まり返る。その手でどうにも詰まないのだ。
「なんだよお前ら、こんだけ強いのがいて、誰も詰み筋発見できないのかよ!」
古屋が痺れを切らしたかのように仰け反った。
「そうっすよ、こんだけいるのに詰まないってことは」
「戸刈」
奥村がその先を言わさなかった。
「複雑だが、こういう手順はどうだ?」
前田が一筋の手順を示した。
パチッ。
増本の指した手には、自信に充ち溢れたものがあった。
天を見上げ、大きく息を吸う。
――ようやく見つけました。
やばい。
浅田はいち早くその手の狙いに気付いた。同時に、目の前がくらんだ。
相当際どいが、この男は一瞬で見抜いたのか? 嫌だ、負けたくない。
浅田はトイレに駆け込む。
「詰むな詰むな詰むな! 詰むなああああああああ!」




