清野の粘り腰
達也は神野から奨励会でいじめを受けたこと、将棋を一回辞めたこと、高校で不登校になったことを聞いた。
「大学で将棋やろうかって思ってたけど、嫌になっちゃった」
神野は相変わらず下を向いており、達也も目を合わそうとできずに下を向いていた。
「わり、俺帰るわ」
荷物をまとめ、ドアを開けようとした。
「神野!」
達也の出した大声に、神野は立ち止まる。
「来週も来てよ! 将棋、辞めるなよ!」
神野は控室を出た。達也は去っていく後ろ姿を、ただ見つめることしかできなかった。
「負けだね」
猿島が頭に手をやり、投了した。ボリボリと少ない髪を掻くと、周辺にフケが舞う。またギャラリーが減った。
「猿島さんが負けたか、これで法名の1ー2ですね」
田島と島与はいつの間にか床に座り込んでおり、戦況を見守っている。
「慶城は大きい一本を取ったな。俺の言ったとおり、慶城が勝つよ」
「そうかもね」
法名の準レギュラー達は、落ち着いて見守ることができる状況ではない。見ることが怖くなってきた数人は、廊下で固まって話をしている。
「増本さんが負けそうで、清野さんも危ないな」
「正直、3―4の可能性が高いですよね」
「奥村さんもやばいですよ」
「なんで慶城こんなに強いのよー!」
廊下に出た古屋が、法名の固まりを見つけた。
「ようよう法名さん達、落ち着かないね」
古屋が川上の尻を触った。
「古屋さん! やめてくださいよ!」
「そうですよ! 触るならうちでしょー」
下田が尻を古屋に向けた。
「悪いけどビッチに興味無いんで」
「ビッチじゃなーい!」
法名達からは汚物を見るかのように、白い視線を飛ばす。
「ここにいるのは法名だけ? 知らない人もいるんだけど」
「あっ、一年生が二人いますよ」
初めまして、と佐伯、斎藤が頭を下げた。長崎は対局室で観戦しており、橋本は対局室で戦況をツイートしているため、ここにはいない。
「川上とシャイアンは戸刈のとこ行かなくていいのか? まだあいつ感想戦してるぞ」
「いえ、怖いんで」
「機嫌悪そう……」
「そうかそうか、こえーもんなあ」
古屋シャッシャッと笑う。古屋も理系組の存在は知っており、それぞれの立場もよくわかっていた。
「医科大は米大に5ー2勝ちだってね」
島与はツイッターに書いてあった情報を田島に教えた。
「会場にいるんだから直接見てくればいいのに。それより中邦が三ツ橋に負けそうじゃん」
田島もツイッターを見ていた。二人とも、「はっしー」というアカウントの呟きを目にしている。何者かは知らない。
「なあ、あの女子覚えてる?」
田島がすっと指を差した先には、心配そうな顔を浮かべている長崎がいた。
「覚えてる。三位の人でしょ」
「…………」
「…………」
「なんだよ」
たまらず島与が田島を見た。
「いいよな」
「将棋指す女性は皆きれいだからな」
うんうんと二人は頷くと、もう一度視線は長崎に向けられた。
不安な気持ちにさせたのは、嫌らしい視線が向けられていたからではない。長崎は奥村の将棋を観戦していた。形勢は中盤まで奥村良しだったが、終盤に入って、奥村の指し手が乱れ始めたのだ。形勢は混沌としている。
――終盤というものは、永遠と解らないのだろうな。
奥村の手は次々と悪手を重ね、いよいよ明らかな敗勢に陥った。長崎も頭を抱える。
奥村は最後の詰まされる瞬間まで指して、頭を下げた。長崎は顔を覆う。だが、同時に佐藤の勝利が耳に入り、息を吹き返した。これで残すは清野と増本。命運は二人に託された。法名は二人が勝たないといけない。
――ようやく勝ちになったか、ずいぶん手こずっちゃった。
浅田は疲労していた。お互い穴熊に組む「相穴熊」という戦型になったのだが、勝ちの将棋を延々と粘られ、ついに逆転されたと思ったら清野にミスが出た。もう一度リードを奪ったものの、また粘られてしまい、訳がわからなくなってしまったのである。
「こーれで勝ちかな?」
浅田はそう呟くと、角をそっと置いた。これは清野玉に詰めろをかけた手で、受けはもう無いはず。清野君、グッバイ。心の中では腹を揺らしてサンバを踊っていた。
「まだでっせ」
清野はノータイムで竜を切って王手をかける。浅田はそれを取る。もう一度角を成って王手。浅田は合い駒で凌ぐ。これで王手は無い。勝った。
「第四ラウンドや」
受けが無いと思われたが、角が成ったことで馬になるのをうっかりしていた。馬を引きつけられ、途端に清野の玉は見違えるように固くなった。
――うっそだろ?
浅田は何度も確認した。清野の穴熊は馬を引きつけたことにより、ずいぶん固くなったが、代わりにこちらは飛車を手に入れている。これでなんとかなると思っていたのだが、詰めろを掛ける手段が無いことに気付いた。
――飛車を持ってるのに!?
茫然としている浅田に、時計の電子音は耳に入らなかった。気付いた時にはもう時計は動いておらず、浅田側の数字は0とあった。浅田は時間切れ負けとなった。
「…………」
「…………」
しばらく両者の間に静寂が訪れる。ややあって清野が声をかけた。
「受けられてたらわかりませんでしたけどね」
清野が盤上に手を示す。浅田は痛恨の表情を浮かべた。受けの手を指さなかったことよりも、勝ちと思った局面でそうではなかったことに愕然としたのである。
「疲れた。デブにはしんどい将棋だったよ」
そう言い残して浅田は席を立った。清野は観戦していた前田にガッツポーズをして、最後に残った増本の対局の観戦に回った。




