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関東大学将棋物語  作者: るかわ
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神野の過去


 一階では、二人が微妙な距離を取ってベンチに座っていた。お互いに言葉を発することができず、ただ時間だけが過ぎていく。

「ながこー」

 上から下田の声が聞こえた。二人は慌てて立ち上がり、それぞれお茶を抱える。達也が四本、長崎が三本。

「いた! 二人とも、遅すぎよー!」

「すいません! 迷ってました!」

 とっさに達也は嘘をついた。

「あー反対側行っちゃったのね~早く上に上がってー終わっちゃうわよー」

三人が対局室に向かおうとした時、会場から叫び声が聞こえた。一瞬歩みを止める。しばらくして会場が騒然となった。



「このクソ野郎が!」

「おいやめろ!」

「やめろ神野!」

「神野!」

 東大と日東のテーブルだった。霧江が平然としている向かいで、頭に血が上っていた神野が声を荒げる。霧江が動じず澄ました顔で座っているのを見て、ついに立ち上がった。

「てめえ! 俺が素直に頭下げたってのに、なんだその態度は!」

 神野が霧江の服を掴みかかったところで、宮本、田井、古屋が神野を取り押さえた。

「神野、負けたからってやめろ!」

「うるせえ! こいつ、俺のことを馬鹿にしやがって!」

「宮本と田井は対局中だから、二人は席に着いて!」古屋が止めた。

「いえ、主将として見過ごすわけにはいきません!」

 古屋の指示に宮本は反発し、神野をそのまま控室に連れ込んだ。田井は会場の中心に立ち、ペコペコと全方位(ぜんほうい)に頭を下げた後、控室に向かった。

「古屋さん、こういう場合は中断ですか?」

「いや、時計は動かすな。中断せずに対局を続けろ」

 東大達は心配そうに顔を見合わせた。霧江は顔色一つ変えず、駒を片付ける。

「なんか大変なことが起こったそうね」

 下田は橋本を見つけると、素早く背後に回り、肩を(わし)掴みした。

「橋本! 何があったか説明しなさい!」

「いたた! ちょっと待ってください! 今ツイート中です!」

「まーたツイッターか! いい加減に……」

「みんな静かにしろ! 対局中だぞ!」

 古屋の喝により騒ぎは静まったが、とても集中して指せる状況では無くなった。

「橋本、教えなさい」

 下田が声をひそめて橋本を廊下へ連れ出した。達也もそれについていく。長崎は青ざめた表情で、メモ用紙にペンを走らせていた。戦型チェックをしなければならなかったのに、すっかりサボってしまったからである。

「神野が投了した後に、東大の霧江さんがなんか言ったそうなんです。それに腹を立てたみたいで」

「あの白髪負けたのか! くー気分いい!」

 達也は神野と一緒に話した時のことを思い出した。あの真剣な眼差しに、秘めたる思いがあったはずである。あの時、達也は神野のことを相当に強い人だと感じた。だが、東大は彼を打ち負かしたのだ。上には上がいるとは言うが、信じられない気持ちでいっぱいだった。そして、なぜか心のどこかで、悔しいと感じている自分がいた。



 控室では、じたばたと暴れている神野と、宮本、田井、日東の準レギュラー達がいた。他大学の人間は危険と思って避難したようである。

 準レギュラー達が、二人に早く対局室に戻ってくれと(うなが)したが、宮本と田井は石のように動かなかった。

「神野、落ち着いてくれよ」

「止めるなよ田井! あいつのところに行かせろ!」

「無理だ」

「宮本さんも対局が残ってるじゃないですか!」

 宮本はもうなだめようとしなかった。ただ黙って見つめている。

「なんだよ! 俺は悪くねえんだ! あいつが全て悪いんだよ! 離せ!」

 宮本は何も言わずに神野の前に立つと、パンと神野の頬を叩いた。

 その瞬間、取り押さえていた人達は、驚いたのか、一斉に手を離した。その勢いで神野は床に倒れ込んだ。

「大人になってくれよ!」

 普段めったに声を荒げない宮本が、初めて神野に怒った。いつも優しくあやしていた宮本の姿はもういない。神野は下を向いて、大人しくなった。髪に隠れて、誰も表情は確認できない。

「宮本さん、田井、時間が無くなるから早く対局室に!」

 準レギュラーが急かすと、二人はようやく対局室に向かった。準レギュラー達も、神野を置いて全員対局室に向かった。広い控室には、神野一人だけが取り残された。



――はは、また一人になっちまった。



「神野健太くんが、六連勝で2級に昇級しました」

 対局開始前に行われる集会で、奨励会の幹事が昇級を報じる。まばらの拍手と、暗い声。

 神野には周りの声がよく聞こえていた。


 ちっまた上がったよあのガキ。

 誰か止めろよ。

 ムカつくよな。


 十二歳で2級というペースは、将来はプロ間違い無し、果ては名人か竜王か、というものだった。多くの奨励会員は、この小さい天才をひたすら意識した。

 その日、神野の対局相手は3級の男だった。歳は神野より六つも上。男が二年以上苦しんでいる3級を、神野は一カ月も経たずに抜け出した。その事実が、たまらずその男を刺激させた。

「うぜえんだよ、お前」

 面と向かってその男ははっきりと言った。神野は戸惑い、何か言い返そうとしたが、それより早く男がまくしたてる。

「お前のような奴のせいで、奨励会全体がピリピリしてんだよ! 空気がな、もうずっと重いんだ! どうせ俺らのことなんか、カスだと思ってるんだろ!」

「そんな……」

「いつもちょっかいばっかり出しやがって! なんでそんな奴が……」

 神野はたまらず、言い返した。

「つ、強い奴が正義なんだ! 弱い奴は強くなればいいだろ!」

 神野の声はよく通った。対局室だけではなく、階中に響き渡った。幹事も、有段者も、皆が耳にしただろう。

 やがて対局が進み、神野が勝勢になると、男は駒台にある駒を盤上にぶちまけ、対局室から出ていった。男はそのまま奨励会をに姿を現すことなく、退会したのである。

 その日を境に、神野に向けられた風当たりはますます強くなった。露骨(ろこつ)に嫌がらせや無視を始めたのである。暴力もあった。座布団を取られたこともあった。そうしているうちに神野はいつもの元気が無くなり、いたずらやちょっかいも全くしなくなった。成績も急降下し、Bという降級点を取ってから、奨励会を休むようになった。そして、二年も休んだ後に神野は奨励会を退会した。大器と呼ばれた少年の夢が終わった瞬間だった。



――俺、もう将棋指したくない。



 対局室は騒然としていた。古屋がいくら呼びかけても収まりがつかず、古屋や日東の準レギュラー達が事情を説明して、急遽対局が中断された。

「神野は控室で大人しくなったので、安心してください」

 古屋が対局再開を告げると、はにかみながら皆時計を押した。どことなく集中力が切れた様子がわかる。早指しやよそ見が増えるようになり、続々と終局が続く。

「最悪ですよ」

 高森が吐き捨てるように言った。続けて「こんなこと初めてです」と古屋に話す。古屋も、「俺だって初めてだよ」と言って自分の対局に戻った。

 達也はしばらく悩んでいたが、意を決して下田に伝えた。

「控室行ってきます」

 下田は困惑しながらも、「ダメよ、神野が居るんだから」と止めた。

「それでも……」

 達也は駆け出した。こんなに自分を積極的にさせたのはなぜだろう。



 神野は床に座り込み、体育座りのポーズでずっと動かないでいた。動けなかった。

 顔を膝に押し付け、(ふさ)ぎ込む。ふいに肩を優しく叩かれた。

 誰だろう。

「池谷」

 達也は何も言わずに神野の隣に歩み寄り、床に座り込んだ。

「強い人って大変だよね」

 神野は真意を(はか)りかねるように、首を振る。

「僕さ、神野とは違って、初心者で、めちゃくちゃ弱いんだけど、でも、神野が苦労してることわかるよ」

「……」

「さっきさ、神野が年上も年下も関係ない、実力が全てって言ってくれたじゃん。あれ、すごくかっこよくてさ、僕も強くなりたいって思ったんだよ。でも、そんな神野をやっつけちゃう奴がいるなんて、強い人も大変なんだなあって思ったんだ」

「……」

「将棋って、負けると悔しいよね」

「俺は……」

 神野が口を開きかけて、少し間を置いた。達也からは、神野が唇を噛みしめていることしかわからなかったが、それ以上見ようとはしなかった。

「絶対負けたくなかったんだ。霧江は対局前に、俺が奨励会辞めたことを馬鹿にして来やがった。俺は、お前や霧江みたいに勉強ができるわけじゃない。ずっと将棋ばかりしてきたんだ。俺の人生の半分を、将棋に(つい)やしてきたんだ。俺にとって将棋で負けたことは、人生の半分を否定されたことと同じなんだよ」

 達也は何も言うことができなかった。神野は声を絞り出して続ける。

「俺が投了した後、霧江は鼻で笑って、俺を馬鹿にしたんだ。あいつは、奨励会の奴らと同じ怖さを感じた。冷酷で、指し手も残忍(ざんにん)で」

 霧江とは一体どのくらい強いのだろうか。想像していたより遥かに上の存在かもしれない。達也はこの前の沙織の言葉を思い出した。トップの人には敵わない。それが霧江なのか。


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