三ツ橋戦
初戦の相手は三ツ橋。めぼしい強敵はいないが、もちろん油断は許されない。奥村によると、昨年卒業した先輩達が抜けて一気に弱体化したそうだ。「それじゃ行ってくる」と前田の声でレギュラー達は立ち上がり、控室を出た。他大もぞろぞろと動いており、早くも緊迫した空気となっている。特に法名はそうだった。出口付近で三ツ橋の選手達と目が合ったのである。
「うわー増本さんいるよ」
「少しは手抜いてくれないかな」
何人かの三ツ橋レギュラーの嘆きをよそに、法名達は対局室へ歩みを進める。いよいよマークされるようになったかと、戸刈はほくそ笑んだ。
「皆さん、あと一分で開始しますので急いでオーダー交換してください」
高森が階段付近で手を振った。前田が部員を急かすと、三ツ橋達も駆け足で階段を下りる。対局室に入ろうとした時、「お手柔らかにお願いしますね」と三ツ橋のレギュラーが声をかけてきた。前田も「いえいえ」と返す。三ツ橋とは去年交流戦もしたので仲が良い。また、どちらも古屋と深い交流があるのが共通点だ。
「早くオーダーを交換してください」
高森は古屋と違って時間に厳しい。一通り手順を済ませ、会場内に「お願いします」の声が通ると、高森は幹事室に入ってどっかりと椅子に座った。
「大学生ってのはどうして時間にルーズになるんでしょうか」
「お疲れ様です」
幹事の一人である山口がそっとお茶の缶を渡した。
大将戸刈が振り駒した結果は五枚とも、と金。これにより、法名の偶数戦ということになった。
「増本さんってどんな将棋指すんですか?」
達也が下田に声をかけた。
「そうね~終盤型で、序盤は古い形が多いわね」
「古い形なんてあるんですか?」
「あるわよ。将棋って、日進月歩で定跡が進んでいるんだけど、 先輩は昭和の頃に流行った作戦をよく使うのよ」
「それって、時代遅れってことですか?」
「増本きゅん先輩の悪口はそこまでよ~」
下田が達也の肩を激しく揉みしだいた。
「痛い痛いです!」
「プロの目から見れば、アドバンテージがあるのかもしれないけど、相手は同じアマチュアなんだから、それほど優劣つかないって言ってたわ」
「定跡ってのを知らないと将棋は不利になるんですよね?」
「まあ序盤はそうね。奥村さんも言ってたでしょ?」
達也は頷く。相石田流も、定跡を外れると一気に悪くなるからだ。
――相手の方は対策を知らないようですね。
増本は相手の四間飛車という戦法に対し、「5筋位取り」というクラシックな戦型を採用していた。やはり昭和の頃に流行った戦法であり、現代ではほとんど見ることはない。そういった事情もあって、相手は序盤から時間を使い、結局不利になる順を選んでしまった。序盤で早くも一本取った増本は、得意の終盤力を発揮するまでもなく、自然に局面をリードする。まるで初戦の清野のように、素早く手が動く。
対戦相手も増本を信用しているのか、淡々と終局までの道筋を辿った。ここまで来れば終局図までの道程もはっきりと映っている。増本がきれいな詰めろをかけると、そこで相手が投了した。
達也も観戦していたが、必死に受けを探したものの、見つからなかった。これは詰めろではなく、詰めろの最強の形、「必至」であることを理解した。本に書いてあったから覚えている。必至をかけられた方は受けが無いので相手の玉を詰ますしか手段が無いのだが、増本の玉は固く、すこぶる安全な状態であった。つまり、必至をかけてしまえば自玉が詰まない限り勝ちなのである。
対局を終えた増本に達也が駆け寄る。
「先輩、お疲れ様です」
「ありがとうございます。みんなは棋譜取りと戦型チェックですか」
「そうですね。僕だけ観戦していて……」
「いえいえ、観るのも勉強の一つですし」
増本は笑顔をずっと絶やさず達也に接してくれた。そのまま二人は前田の対局を覗く。増本が小さな声で達也に解説してくれた。
「主将さんのところは矢倉の「脇システム」という戦型ですね。先後同型から、先手の主将さんが攻めている展開だと思います。端を突き合っているので、定跡では先手が勝つようになってるんですよ」
難しい話だったが、最後の部分を聞いて達也は目線を盤面から増本に向けた。
「えっ、じゃあなんで相手はその形にしてるんですか?」
「おそらく、知らないからだと思いますね。知識の差です。プロもアマチュアも、定跡を知らないと、差をつけられて負けてしまいます」
やはり。なんとなく、達也には納得できるものがあった。先輩はそれを狙ってあえて古い形に誘導していたのか、と。
「主将さんのところはもう終わりますね。▲2三とで終了です」
前田がと金を寄せると、増本が頷いた。
「先輩、当たりましたね!」
「寄せは任せてください」
二人は隣の佐藤の将棋を覗いた。パッと見では佐藤の王様の囲いが薄いように見えるが。
「佐藤さんが優勢です。池谷君、相手の攻めている駒数を数えてみてください」
「攻め駒ですか?」
「はい」
すっかりレッスンみたいになってしまった。学校の先生もこれだけ物腰が柔らかかったら、達也ももっと勉強に打ち込んでいただろう。早速盤面を見渡すと、佐藤玉は守り駒が少なくなっており、やはり達也の目には苦しく見えた。
「基本的な指針として、攻め駒は四枚無いと、繋がらないと言われているんです」
盤上に竜、成銀の二枚が目立つが、確かに、盤上には相手の攻め駒がたった二枚しかない。
「持ち駒の香を合わせても、三枚しかありません。この調子なら、相手は戦力不足に陥って、佐藤さんが受け潰すでしょう。こういう状況を『攻めが切れる』って言います」
達也はまた一つ良いことを聞いた。今まで、石田流を駆使して攻めてばかりいたが、こんな受けの極意があるなんて知らなかった。
「逆に、攻めている側は、四枚以上の駒を残すようにすればいいんです」
「なるほど!」
ガタンと椅子から立つ音が聞こえた。終わったのは七将戦だ。
「やあ、勝ったみたいだね増本君」
猿島が二人の傍に寄ってきた。
「はい、長老さんも勝ったみたいですね」
「もちろんよ」
前田の席からも声が聞こえてきた。相手が頭を下げたのが見え、これで法名は三勝目。猿島によると、奥村も優勢だという。佐藤の将棋をちらっと覗くと、親指と人指し指で丸を作り、OKのマークを作った。
「このカードは取ったね」
三人は控室に戻った。




