第一歩
翌朝、沙織は既に家を出ていた。なんでも、将棋の関係者同士で行う研究会らしい。まったく都合の悪いものだと、達也は目をこする。今日は二限から授業が始まるので、多少時間があった。もう一度コンピューターに挑戦しようと思ったが、沙織が居ないとわかると、やる気が薄れてしまった。
リビングで朝食のパンをほおばりながら、妄想を繰り広げる。取材されたら、どうコメントしようか。天才少年と書かれるだろうか。いや、少年じゃないぞ。もう大学生なんだ。新聞にも載るかもしれない。ともかくニュースにはなるだろうな……
もう頭の中は興奮状態であった。あれこれ考えているうちに、あっという間に出発の時間が来てしまった。登紀子は寝ころんで、韓流スターの出演しているテレビ番組をニヤつきながら見ている。こんな身近にスターがいるというのに、とほくそ笑みながら達也は家を出た。
達也の通う法名大学は、新宿から電車で十分ほどの都心に位置する。有名私立大学の一角であり、そのブランド力から男女共に人気が高い。最寄りの駅前にはカップルがたくさんおり、法名に入るとチャラくなるという言い伝えが存在するほどだ。
今日も今日とて、キャンパス内のラウンジでは、ひと組を除いてカップルで埋め尽くされている。
「いるわけないだろそんなもん」
缶コーヒーをぐいっと飲み干し、ごみ箱へ放り投げたのが、達也のクラスメイトである市川だ。
「彼女なんて、高校時代に一回作ったことあるけど、女ってめんどくせーだけだぞ」
「一回あるんだ……その時点で僕より上だよ」
達也はオレンジジュースを飲みながら、下を向く。
「マジかよ、モテそうだけどなお前。なんていうかこう……」
「童顔でしょ」
「そう、それだ」
「気にしてるんだからやめてよ」
「お前が言ったんじゃないか」
達也は一度も彼女ができたことがない。告白されたことはあるが、すべて断ってきた。自分の好きになった人にしか目に入らないタイプで、好きになっても告白できずに、決まって誰かに取られていた。そんな自分がとにかく情けなかった。大学受験で法名を選んだのも、そんな自分を脱却したかったからである。ここに来れば自分は変わるのではないかと。だが、入学して十数日、また同じような日々が待っていそうである。
「クラスの瀬川と加藤、もう付き合ってるらしいぜ」
市川がつまらなそうに椅子にもたれかかる。
「えっ瀬川さんもう彼氏できたの?」
達也はパッと顔を上げた。
「ああ、かわいかったよな。でも女なんてそんなもんだよ。大学なんて、みんな彼氏や彼女をゲットするために入っているんだ」
達也が再び下を向く。正直瀬川さんは狙っていたし、市川の言っていることが図星だったからだ。
「大学の意味が無いよな」
そうだ。大学はナンパをするところではない。そんなことはわかっていたが、煩悩がどうしても拭いきれなかった。いや、自分は本当になんのために大学に通っているのだろう。
「俺、司法書士目指そうと思ってるんだ」
「司法書士?」達也は目を丸くした。
「ああ。ちょっと難しいけど、何か目的を持って大学生活を過ごしたいんだ。俺らここを卒業したらもう就職だぜ。自分の好きなことをできるのって今しかないからな」
達也に大きな衝撃が走った。まるで雷にでも打たれたような感覚である。
「もう授業始まるぞ」
市川が立ち上がった。それに続けて達也も立ち上がる。気のせいか、ずいぶんと腰が重い。せっかく用意してきた自慢話も、なんだか話す気になれなかった。
それにしても授業は退屈だ。特に興味があるわけでもない内容を、淡々と聞いているだけである。もう少し慎重に学部を選べばよかった。とにかく法名に入ることだけを考えており、入った後のことを全く考えていなかったのだ。今日もお経のように教授から法律の話が流れる。
「疲れた」
達也が机に突っ伏す。頭の中は昨夜の激闘のことで埋め尽くされていた。そのうち教授の声も耳に入らなくなった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
金「達也殿! 自陣はまもなく飛車と銀の奇襲によって左辺が崩壊寸前です!」
達也「それは本当か金よ?」
金「はい! 予想以上に敵の攻めのスピードが速いです!」
達也「ええい、こちらの飛車はなにをやっているのだ!」
金「それが……相手軍の金銀の壁が厚く、苦しんでいます。突破するにはもう少々かかるかと」
達也「くっ、角はどうした! どこに隠れておる!」
銀「達也殿! 角は自陣の歩が邪魔で動けません!」
達也「馬鹿者! 早く道を開けるのだ!」
金「おい歩! 道を開けるんだ!」
歩「金様! 今開けたら私は敵の銀に取られてしまいます!」
金「そんなもん知るか! 達也殿がお怒りなんだ!」
歩「ちょっと待っ、ぎゃあああ開けないでください! あうっ」
「馬鹿か敵は。まさかただで歩が取れるとはな。やはりこちらの棒銀戦法は優秀である!」
金「達也殿! かえって相手の攻めが速くなりましたが!」
達也「知らん知らん! 早く右辺に逃げ込め! 穴熊戦法じゃー!」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「なんだ今の夢は……」
隣に座っている市川もいつの間にか眠っていた。ふと周りを見渡してみたが、寝ている者が大半だった。あれだけ熱弁をふるっていた市川も、こんなもんである。やはり大学というのは、勉強ではなくチャラチャラと遊ぶためにあるのではないか。自分もなにか打ち込めるものを見つけたい――
達也の心は決まっていた。自分には将棋の才能がある。それならこの世界で大暴れして、最強のプロになってやろうじゃないか。僕はコンピューターに勝てるのだぞ、と。
達也は少し前に貰ったサークル活動のパンフレットを、鞄から取り出した。授業ももうすぐ終わろうとしていたが、居ても経っても居られず、教室を飛び出した。