3-3と入玉
“法名は奥村、佐藤、猿島勝ちで三勝を挙げています”
“清野、長崎負けで大将戦と四将戦が残っています”
橋本は事あるごとにツイッターに書き込んでいた。まるで実況をしているかのようである。マメに大会の様子を書き込んでくれるので、橋本のフォロワーは多い。
感想戦を終えた長崎が、苦しいと噂されていた前田の対局を見守っていた。前田が負けそうとあって、ギャラリーの数がとても多く、背の小さい長崎は、必死に背伸びをして覗き込まなければ、盤面が把握できなかった。背伸びしては足を着き、背伸びしては足を着く。
田島がその様子を見て顔を赤らめた。
なんてかわいいんだ。これはもう殺人的なかわいさだ。長崎さん、大学に入ってからそんなテクニックまで身につけたのか。ああ、もう声をかけてしまおうか、いや、向こうは自分のことを覚えてないだろう。それに、今はそれどころの状況ではないんだ。チームの勝ちが懸っているんだ。
田島は声をかけたい衝動をぐっとこらえて、大将戦を観戦しに行った。
大将戦は戸刈が時間を使って粘っていた。穴熊は完全に崩壊しており、戸刈の玉はひたすら逃げ回っている。途中で逃げ道を防ぐような挟撃体制をしていれば、いくばくもなく投了していただろうが、相手の迫り方が何やらおかしい。次第に戸刈の玉は上へ逃げ込むようになり、相手陣に侵入する「入玉」できそうな希望が見えてきた。
――相手はずいぶん寄せが下手くそだな。このまま逃げ切れば入玉だ。落ち着け、俺。
とうとう相手からもため息が漏れてきた。事態を察したのか、ギャラリーが大将戦にも集まってきた。
「戸刈君が盛り返したんじゃないかな」
猿島が一緒に観戦していた佐藤に声をかけた。前田はそろそろ投了する。そうなれば、3―3となって戸刈に全て託されることになる。佐藤は気が気でないようなそぶりを見せつつも、控室に戻った。猿島はそのまま戸刈の対局相手の後ろに陣取る。
「奥村、戸刈が盛り返したらしい」
佐藤の言葉に控室は驚きの声を上げた。
「本当か、あの必敗形からよく息を吹き返したな」
「戸刈を信じるしかないで」
「本当に一番心臓に悪いとこが残ったもんだよ。もう俺らは祈るしかない」
佐藤が両手を握りしめると、ギュッと目をつぶった。
「負けました」
前田が投了した。団体戦の負けはいつ以来だろうか、ギャラリーが騒然となった。前田は辛い表情を見せることなく、感想戦を始める。山岡も勝ったとはいえ渋い表情だった。自分のことよりチームの勝ちが何よりも大事。そういう気持ちだった山岡は、大将戦をちらっと見た後、気持ち半分で感想戦に再び向き合った。山岡は正直ホッとしていた。これで古屋に合わせる顔ができたからである。
あのギャラリーの数を見る限り、3―3だろう。とにかく俺の仕事は果たした。前田も強くなってたじゃねーか。次は小細工せずに、正々堂々と勝負したかったな。
「山岡、おつ」
古屋が山岡の肩を叩いた。古屋も快勝だったようで、長島に粘る気も起こさせないほど冷酷な手を積み重ね、手段が無くなった長島は、たまらず投了してしまった。島与の場合と違って、こちらは同情せざるを得ない差がついていたのだ。
「古屋も勝ったか」
「ああ、でも、チームはどうなるかなー」
古屋は両手を後頭部にあて、ふらっとその場から去った。
おっかなくて見てられないや。背中がそう言っていた。前田も平然と盤上に向き合っていたが、内心気が気でない。
――なんだこのギャラリーの数は!
戸刈は辺りを見渡す。戸刈の玉はついに入玉を果たしていた。そうなると周りを見る余裕が出てしまい、戸刈の頭の中で、あらぬ考えがよぎった。
――こんだけ注目されたことなんて今まで無かったな。長老がめちゃめちゃ目立つが、ギャラリーのほとんどが、法名と医科大じゃねえか。もしかして3ー3なのか? これで俺が勝ったらチームの勝ちなのか?
戸刈の指し手が早くなる。
――そうすれば俺はチームを救った英雄として、未来永劫崇められることになるだろう。他大からも警戒されること間違い無しだ。序列も変更されて俺が二番手辺りに来るかもな。そうなったらやべえぞ。来年、俺はチームのエースになるんだからな。よっしゃ、なんて俺の未来は明るいんだ。川上、よく見とけよ、これがレギュラーだ!
戸刈が自信満々に指した手は、相手玉に詰めろをかけたものだった。次に相手玉を詰ますという手だが、その手が指された瞬間、ギャラリーは凍った。次に詰ます前に、戸刈の玉に、先に詰めろがかかっていたからである。戸刈は気付いていない。猿島は大きく息を吐いた。ギャラリーが数人その場から去ったが、法名勢は動くに動けなかった。
「池谷君センスあるよ。初心者なのに良い手を指してる」
対局室の事態なんていざ知らず、達也は佐藤と将棋を指してもらっていた。昨日沙織から教えてもらった、あの石田流に組んでからの攻め方を実践し、勢いよく攻め込んでいる。相手が同じ棋力の人間だったら勝っていただろう。ただ、やはりレギュラーは強い。佐藤は気持ちよく達也に攻めさせた後、ちょっと反撃してコロッと負かしてしまった。
「受けの力を身に付けたらより強くなる。私が良い本を知っているから、今度持ってきてあげよう」
奥村からのアドバイスに、達也はありがたく頷いた。それにしてもなんと贅沢な場であろうか。レギュラー三人が、こんな初心者の自分のために指導してくれている。強い人は、弱い人と関わらないようにしているという勝手な偏見を持っていたが、そんなことはなかった。将棋が強い人ほど、初心者に優しく接してくれている。沙織もそうだった。感動のあまり、達也は絶対強くなろうと決意した。
「おお、皆さん!」
慌ただしく麻生が控室に入ってきた。
「戸刈殿は……」
「待て! 言わないでくれ! 戸刈は入玉したのか?」
佐藤が助けを求めるかのようなポーズをとって、麻生の口を止めた。
「そうですな」
「よっしゃ!」
勢いよく佐藤が拳を握る。
「入玉ってなんですか?」達也が清野に質問した。
「相手の陣地に自分の王様が入ってしまうことや。そうなれば、なかなか寄せるのは簡単やないで」
「えっ、どうしてですか?」
「将棋の駒は香みたいにまっすぐ進む駒が多いやろ? 元々、駒は後ろに進むように設計されてないんや。だから、王様を後ろから追うのはとんでもなく難しい」
「そうだな。入玉してしまえばそう簡単に負けないだろう。ということは……戸刈は勝ったのか?」皆が麻生を見つめる。
「まだ決着していませんが、長崎殿によると、戸刈殿の玉に詰みがあるとのことですぞ」
「マジかよ!」
控室の温度が一気に下がった。佐藤も急に「いやあああ」なんて悲鳴を上げるなど、情緒不安定である。ただ一人冷静な奥村が口を開く。
「麻生はその詰み筋に気付かなかったのか?」
「はい、恥ずかしながら小生にはわかりませんでした」
「それなら相手が逃す可能性がある。運を天に任せるしかない」
「戸刈! しっかりしてくれよー!」
佐藤が頭を抱えた。
「対局室行きますか?」
達也の声に全員が立ち上がった。




