盤面動く
ピッ
ほとんど一斉に医科大の時計が鳴った。これから一手六十秒以内に指さないといけないという警報である。一悶着あったが、あっという間に対局開始から三十分が経っていた。
ようやく医科大の手が伸びる。戸刈と清野からはため息が漏れた。寝ていたのであろうか、猿島に至っては座り直して大きくあくびをしていた。対局が動き始めると、それを見届けたギャラリーは、あっさり他大の対局の様子を窺いに回った。
――これは動揺させる作戦だ。決して惑わされるな。
前田は左右を確認した。三将の佐藤、五将の奥村と目が合うと、ゆっくりと頷く。冷静になるんだと言い聞かせているようだった。ところが、大将席からバシバシと時計を叩いている音がする。戸刈は待ちきれんばかりに早指しで進めていたのだ。それが相手の作戦なんだろうが、それが判断できないくらい、頭に血が上っているのだろう。前田は席を立とうか迷ったが、目の前の一局に集中することにした。戸刈のとこへ行き、肩をポンと叩いてやればあいつも冷静になるかもしれない。だが、そんなことをしても無駄であることは、主将である自分がよく知っていた。
――ちくしょう、舐めたマネしやがって!
戸刈は案の定、頭に血が上っていた。いつもの振り飛車穴熊に組むのにも、手つきが荒々しい。その間に相手は穴熊の弱点である端に勢力を集めていた。駒がぶつかり合う前に、戸刈は既に追い込まれていたのである。しかし、戸刈は事の重大さに気付いていなかった。
――これは、私のほうが悪いのか。
長崎―古屋戦は早くも飛車交換が行われ、激戦となっていた。
長崎が左指でしきりに髪をいじっている。形勢に自信が持てなくなった時の癖のようだ。飛車交換をした時は自信があったが、じっと手を渡されると、何を指していいかわからなくなり、自分のほうが悪いことに気付いた。この男、サングラスかけているのに、それに似合わずしっかりした指し回しをしている。医科大の中で一番の実力者であることは知っていたが、それにしても強い。長崎の持ち時間はみるみる減っていった。
奥村が隣の長崎の盤面を見る。長崎から古屋の術中に嵌っている様子が伝わってきたからだ。形勢はそれほど離れていないが、古屋から飛車を打ち込まれ、攻められる順が見えていたので、それより先に厳しい攻めの手順を見つけなければならなかった。長崎にとって神経を使う展開。奥村は再び自分の局面と向き合う。
――この相手にはデータを使うまでもないだろう。長崎には悪いが、古屋が相手でなくてよかった。正直、医科大は古屋、山岡以外は大したことがない。去年ぎりぎりA級残留した大学であることを考えると、うちとの戦力差は歴然。田島という一年も、きっと清野が倒すだろう。
奥村は持ち駒の角を掴むと、敵陣に打ち込んだ。これで馬を作ることが確定。奥村の優位がはっきりした。
――アカン、この子強いなあ。
清野は押さえ込まれていた。早指しで飛ばしていたら、田島に鋭い仕掛けを喰らったのだ。慌てて応急処置をするものの、このレベル相手には通用しないのか、差は広がるばかりであった。清野の消費時間はわずか五分。どうしてこっちが悪くなるねん、と浮かない顔を見せた。
控室では将棋が引き続き行われている。達也が斎藤にコテンパンに負かされると、達也と川上がバトンタッチ。手の空いた達也は下田と話していた。
「池谷君って一人っ子でしょ?」
「なんでですか?」
「そんな気がするんだよねー。温室っていうのかなー、おぼっちゃまっていうのかなー」
達也にはれっきとした姉がいるが、当然ながら言うに言えない。
「わかった、育ちがいいんだ」
「そんなことないですよ」
「えーじゃあ彼女とかいるの?」
「……いないです」
「ほっほーメモメモ」
「先輩、あざといっすよ」
斎藤が目線をこちらに向けた。
「なんでよー聞いただけでしょー」
「さっきから好きな女のタイプとか、家族構成とか、彼女とか、狙いまくってるじゃないですか」
「俺にも聞いてきたぞあいつ」盤とにらめっこしていた川上が顔を上げた。
「まじっすか」
「いろいろ知りたいじゃーん! ひどーい斎藤くーん」
泣きマネをしてみせたが、素性を知っている彼らは気にしていない。
「うちにも質問していいのよー」下田がパッと笑顔を振りまく。
川上と斎藤は無言で対局を再開させ、達也は席を立った。
「そろそろ対局が動いているかもしれないんで」
「あーそうだった! うちらデータ取らないと!」
「いっけね、すっかり忘れてた」
四人は慌てて対局室に向かった。対局前には清野さんの将棋を見ると言ったのに、もう忘れるなんて。達也は情けない気持ちでいっぱいになった。




