石の上にも三十分
いよいよ会場のざわつきが大きくなってきた。観戦者のほとんどが法名―医科大戦を見守っている。橋本は居ても経っても居られず、中邦と米大のテーブルから離れ、騒ぎの根源に向かった。盤面を見て思わず口元を押さえる。そのためにボールペンを落としてしまった。慌てて拾い上げると、ポケットからスマホを取り出し、ツイッターを開いた。
“医科大が変な作戦してる!”
“やべえ吹いたw”
“でも一体どういうつもりなんだ……”
――これがうちの作戦だ。名付けて、「石の上にも三十分作戦」。さあ、ひたすら焦れ。俺らの作戦に、お前らは平常心で指せないだろう。
古屋のサングラスの裏では、してやったりという目をしていた。内心では舌まで出している気分である。古屋の作戦通り、医科大は全員一手も指していなかった。先後の違いはあるが、ほとんど初形から駒が動いていなかったのである。戸刈、清野はいらいらしているようで、前田はずっと目を閉じて腕を組み、相手の指し手を待っている。長崎も平静を装っているようだが、内心穏やかではなかった。
「いいか、俺らは初手で、持ち時間を残り一分まで使い切るんだ」
「はい?」
「なんでですか?」
古屋の突然の提案にレギュラー陣は慌てた。
「そうすることによって、あいつらはまともな精神状態で指せなくなる。反対に、俺らは集中した状態で指せるってことよ」
「でもこちらの持ち時間が……」
「どうせ秒読みになっても六十秒も考えられるんだ。24の二倍だぞ。それに比べたら一手六十秒以内に指すなんて余裕だろ。むしろ、秒読みになったことで常に集中して指せる。序盤で気の抜けたミスも減るってもんだ」
「なるほど、一理あるかも」
「相手はつられて早指しになる。すると、考えてないから悪手も増える。つまり勝てる!」
「おお、なんだかいける気がしてきました!」
後で来る予定の山岡にも伝えておくか。法名に勝つためにはこれくらいの奇策をしなければな。
古屋の作戦には手応えがあった。古屋が入学して以来、一度も法名に勝つことができないでいた。それだけに古屋には意識するものがあった。そのため、急遽山岡を呼び、チームを全員集合させたのである。こんな作戦、絶対に誰かが反対してくると思ったが、みんな快く応じてくれた。チームに感謝しなければならない。そう感じた古屋は、絶対に負けない決意を見せた。
俺はこのチームが好きだ!
叫んでしまいたかった。この気持ちは将棋でぶつけるとしよう。
「一手も動いてないですって!」
橋本から聞かされた下田が、大きな声を張り上げ、橋本をのけて法名のテーブルに向かった。それにつられて他のデータ係もメモを取る手を止め、ばたばたと動く。
「こんなことってあるんですか?」
「いや、聞いたことないわよ!」
達也が駆け寄る。
「先輩、これって一体どういうことですか?」
「わからないわ! うわーやっぱりどこも動いてない! どういうつもりかしら」
「控室でちょっと話し合いましょう」
達也に下田、川上、佐伯、斎藤、の五人は控室で会議することになった。
早速ツイッターでも話題になってるな。これはネットでまとめられるかも。
橋本はツイッターから目を離さないでいた。ツイッター上ではあっという間に拡散されており、法名の部員である橋本に、たくさんの質問が飛び交っていたのである。
“会場も混乱しています”
“ルールに影響していないので問題はありません”
「一応時間をどう使おうかは個人の勝手だからルール違反ではないのよ」
達也は下田から説明を受けていた。それでも達也は戸惑っていた。ルール違反ではないとはいえ、待っている側はたまったものではないだろう。
「そんなこと言ったら、プロの世界なんか一手に一時間もかけたりするんだから」
「一時間!?」
そんな馬鹿な、と言いたくなってしまう。プロは一時間ずっと考え続けることができるのか。僕なんて、好きな数学の問題ですら、そこまで考えることはできないだろう。ひょっとして、姉貴もそのくらい考えることができるのか。達也は眉間にしわを寄せて首をひねる。そんなわけないなと。
「確か、プロの最長記録は五時間くらいだったかしら。長考は別にしてもいいんだけど、今回は局面が局面だからねえ」
「初形なんて、僕でも一秒で指せますよ」
「もちろん考えているわけではないでしょうね」
達也はどうにも信じられない。考える時間を無駄にできるほど、ここは余裕のある舞台ではないんじゃないのか。
「ゆっくり気長に待ちましょうよ。僕、何かお菓子買ってきます」
佐伯が席を立った。斎藤はリュックからミニチュアサイズの将棋盤を取り出す。コンビニでよく売ってありそうな、安っぽいマグネットの将棋盤だった。
「池谷君、将棋やらない?」
「あ、お願いします」
「斎藤はうちより強いから気をつけてね」
「下田先輩よりもですか!」
達也の驚いた声に下田と川上が笑った。
「斎藤はオーダーに名前載ってるからね。うちよりも強いってことくらい、池谷君でもわかるでしょー」
「いやー先輩強かったんで……」
「も~そんなこと言っても何も出ないぞ!」
下田が後ろから達也の肩に抱きついた。達也の近くに甘い匂いが漂う。口を開けたら、中からピンク色の吐息が出てきそうな、そんな匂いだった。




