葛藤とフェイク
「古屋と山岡だけなら負けてもなんとかなる。後は取りこぼさないことだ」
「増本がいないから、そこまで安定してるとはいえないがな」
「そのためには戸刈、もうお前には負けられないんだ」
「俺すかっ!?」
戸刈はずっと聞いてるふりをして、気合いを高めていた。驚いた拍子に少しむせてしまっている。急にプレッシャーをかけてくるなんて、主将も悪い人だ。
「次は勝つっす! 大丈夫っす!」
「戸刈先輩! 理系組の名に懸けてお願いします!」
「まかせとけ川上、お前のかたきは俺が取ってやるからな」
「むせてるけど大丈夫かな……」
シャイアンの呟きを戸刈は聞き逃さなかった。ガッと頭を掴む。
「僕がむせてました」
「よろしい」
「よし、ではオーダーを発表する。大将戸刈、副将清野、三将佐藤、四将が私、五将奥村、六将長崎、七将猿島さんでいくぞ!」
「ながこ! 頑張って!」
「長崎殿! ファイトですぞ!」
達也も何か言いたかったが、緊張して声が出せないでいた。とりあえずぺこりと頭を下げてはにかむ。
それを見て「頑張ります」と長崎が小さく頷いた。少しだけ笑顔が見えた気がする。達也は自分の性格に嫌気が差したが、ちょっとだけ安心した。
「では少し早いが行くとするか」
「おい、麻生と伊藤」
清野が二人を呼び出した。
「どうしましたか清野殿」
「棋譜取りですか?」
「なんか悔しないか?」
清野がにやりと笑った。
「あいつら山岡さんがいることを隠しとったんやで? こっちも何かやってやろうや」
清野は二人の耳元で作戦を伝えた。
「なるほど、それなら大人数でやったほうがいいですな」
医科大はオーダーを既に決めており、しばらくの間休憩時間となっていた。山岡と古屋の会話に加わる者もいれば、考え込んでいる者もいた。田島は緊張しているのか、廊下をうろついている。一昨年の全国高校選手権を思い出す。
――長崎さんと東京で出会うなんて……
田島は長崎のことをまだ覚えていた。早々と予選落ちしてしまったのも彼女が原因だったからである。彼女は突然、自分の対局をふっと覗いて、そのまま考え込んだ。どうして自分の将棋を見ているのだろう。そこまで自分は強いわけでもないし、相手だって、自分よりさらに弱い。その時、田島はある考えが浮かんでしまった。もしかして自分のことを意識しているのではないかと。今冷静に考えればそうであるはずがないのだが、高校生なら無理もない発想だった。終始邪念がつきまとった田島は、この予選の一局を敗れた。大会が終わっても、長崎のことばかり頭にあった。なんて知的でおしとやかな人なんだろう。よく見たら結構かわいいではないか。背も小さいし、眼鏡はよく似合っているし……
田島は完全に一目惚れしてしまっていた。
「田島―」
「はい!」
「チョコやるよ」
誰かと思えば控えの先輩だった。差し入れにきてくれたようである。一瞬でも期待してしまった自分を悔やむ。
「なんか浮かない顔してるぜ、お前。そんなに緊張すんなって」
「いえ、そうではないです」
田島はチョコを口に入れると、ふらふらと歩き出した。先輩も隣に寄り添う。こんな心境では、次の勝負将棋も負けてしまうだろう。廊下を行ったり来たりしていると、前から騒がしい声がした。
「うえーい!」
本当に騒がしい。こんなにチャラいノリをしているなんて、一体どこの大学だろうか。
「あれは……法名の準レギュラー達だ」
先輩は群れの中にいる青いつなぎの男を見て、確信したような口ぶりになった。
「そうなんですか。何話してんですかね」
二人は立ち止まって耳を澄ます。
「次の医科大戦頑張れよ伊藤!」
「ああ! 俺、頑張るよ!」
「先輩! 期待してます!」
「佐伯、頑張るからなー!」
「伊藤!」
「伊藤!」
「伊藤殿!」
「うえーい!」
「うえーい!」
事態を呑みこんだのか、二人はギョッとした目つきになった。
「先輩! あいつら伊藤って奴を当て馬にするつもりですよ!」
「大変だ、伊藤は確か前田の隣だ。法名め、山岡戦を外しにきたな」
二人は急いで古屋達の輪に戻る。いつバレたのだろう。
「古屋さん! 法名は伊藤を出すつもりらしいです!」
「伊藤だと? ああ、山岡にぶつけようとしているのか」
「当て馬かよ、きったねーな法名も」
「いや、でもこれじゃ前田がズレるから、勝ち味薄くなっちまうぞ。真面目に考えなくちゃいけねえよ。俺らも変えるか?」
古屋がオーダー表を再び広げる
医科大勢は再び悩み込んでしまった。




