将棋との出会い vsコンピュータ
将棋を全く知らない方、知っている方も楽しめる構成にしたつもりです。よろしくお願いします。
二〇一三年四月、将棋のプロ棋士が初めてコンピューターに負けた。電王戦である。それまでコンピューターの強さは認められてきてはいたものの、プロ棋士と本格的に対戦するのは初めての催しであった。第一局ではプロが力を見せて制勝したが、第二局でついにその時が来てしまったのである。コンピューターに負けたことは将棋界だけでなく、社会にも大きな影響を与えた。そしてこの男にも……
「人間が負けた!?」
「姉貴、将棋ってもうコンピューターのほうが強いのか」
池谷達也は、テレビから目線を離すことなく、テーブルに置いてあったスナック菓子を口に咥えた。
「少し前から騒がれてたわよ。あんたなんで家に将棋指しのプロがいるのに、そんなことも知らないのよ」
「じゃあ姉貴よりも強いんだ」
「そりゃそうよ。あ、私にもそれちょうだい」
「沙織、もう夜の十時よ。控えなさい」
母の登紀子がキッチンから顔を出す。リビングにいる二人を、呆れるかのような目で見つめていた。
「なーんで達也には注意しないのよ」
「沙織はもう二十歳なんだから。少しは大人らしくしたらどうなの。ほら、洗い物手伝うとかさー」
「また今度ね」沙織はそう言ってあくびをした。達也もうつったのか、背筋を伸ばす。
「僕だって今年から大学生だし。いつまでも子ども扱いしないでもらいたいんだけど」
「はいはい」
登紀子が目を細める。ついこの間小学校を卒業したかと思えば、あっという間に大きくなって、もう大学生にまでなった。すぐに成人式が来て、大学も卒業して、みんなと同じように就職するのだろう。沙織は早くから将棋の道に進んで、女流棋士になった。この子はすぐに夢中になるものが見つかったからよかったけど、達也はどうかしら。何か大学で夢中になれるものが見つかるといいのだけれど。
「それにしても人間がコンピューターに負けるとはな。あれだよな、チェスはもう人間よりコンピューターのほうが強いんだよな?」
「お父さんよく覚えてるね。私が子どもの頃の話よ」
「そりゃそうさ。あの頃は今よりもっと騒がれていた気がする。なんでかな」
父の哲哉が、新聞を片手に持ちながら、テーブルへと足を運び、スナック菓子に手を伸ばす。登紀子の目をうまく盗んでおり、登紀子は気付いていないようだ。
「それはグランドマスターが負けたからでしょ。将棋界には、この負けた人よりも強い先生がたくさんいるの。羽生さんがコンピューターに負けるようになったら、もっと騒がれるようになるかもね」
「羽生さんって、あの眼鏡かけてる人でしょ。頭良さそうだよね」
「達也でも知ってんだから羽生さんのカリスマ性はすごいわよねえ」
達也も登紀子も、将棋界のことについてはほとんど知らないが、その昔七冠王となった羽生善治のことは知っている。登紀子は常々、こんな男性と結婚したかったと口にしながら哲哉を見る。それに応じて、哲哉も朝ドラの主人公を引き合いに出して、登紀子を見るのである。二人ともこんなことを言っているが、仲は結婚当初から良好な関係だ。長女の沙織を生んでからもう二十年。結婚生活も来年で二十五年に差し掛かる。
「達也、もう遅いんだからお風呂入っちゃいなさい。あなた、何食べてんのよ」
「あちゃ、バレてましたか」
達也がすっと立ち上がった。風呂はいつも達也が一番乗りである。これが池谷家の鉄則だ。そっとドアを開けて音もなく閉める。これから誰も風呂場に入ってはならない。残された三人はリビングで他愛もない会話を続ける。
「沙織、最近将棋の調子はどうだ?」
哲哉がお茶の入った湯呑みを片手に、沙織の前に座った。
「まあまあ。今年こそ初段に上がりたいわ」
哲哉は「そうか」と言って湯呑みに口をつけた。
沙織は今年でプロ五年目になる。デビュー当初こそ、調子よく勝っていたのだが、ここ最近低迷が続いていた。女流プロは2級からスタートとなるのだが、一年目に1級に上がってから、あともう一つ勝てなかった。なんとか今年こそ初段に上がりたいが、沙織の前に壁があることは、他者の目から見ても明らかだった。もちろん、哲哉が気付かないはずがない。
「最近、将棋の仕事よりもグラビアの仕事のほうが多いようだな。今月の将棋誌にも特集が組まれてる。『美人棋士のプライベート』か……」
「あなた、これも将棋界の普及に一役買ってるって前も話したでしょ」
「お父さん」
沙織が語気を強めた。哲哉も湯呑みから口を離す。
「確かにイベントのお仕事が多いけど、それも勉強のひとつなの。先輩棋士と話して得るものはいっぱいあるし、休憩の合間に将棋もやってる」
沙織はそう言うものの、どこか寂しげな表情を浮かべていた。
「わかった。まずは女流初段目指して頑張ってくれな。職場にお前のファンが実はたくさんいるんだ。みんな期待しているんだよ」
哲哉はお茶を飲み干し、キッチンへと向かった。
「出たよ」
遠くから声がする。どうやら達也が風呂から出たようだ。
「ずいぶん早いわね」
登紀子が驚く。洗い物がちょうど終わったようで、冷蔵庫から牛乳を取り出した。達也は風呂から上がると牛乳を飲む癖がある。ところが今日はリビングに寄らず、一目散に二階の自分の部屋に戻ってしまった。
「どうしたのかしらね」
達也は早速自分の部屋に入るとパソコンの前に座った。
大学入試が終わってからは、インターネットのフリーゲームをすることが日課となっていたが、この日は違った。検索サイトに打ち込んだのは次の文字群。
将棋 コンピューター 強さ
達也はニュースのことが気になって仕方なかった。やはり次から次へと、プロ棋士が負けたという記事が出てくる。どれも同じような内容が書いてあることに飽きた達也は、あくびをしながらベッドへ転がり込んだ。ぼんやりとした頭の中で、ふとある気持ちが芽生えた。
再びパソコンの前に座り、将棋ソフトについて検索してみる。インストールやらダウンロードやらの、面倒くさい作業を必要とするページは省いた。すぐにでも将棋を指したかったのである。
「ん、ハム将棋?」
達也はあるフリーソフトを発見した。なんだかユニークなイラストであり、将棋盤の横にはハムスターがいる。なんてかわいらしい敵だろう。プロはこんなのに負けたのか。将棋はルールを知っている程度だが、考えることには自信があった。どうせ勝てないだろうが、ちょっとやってみようとマウスを動かす。なんせプロが負けたくらいである。何分で負かされるか、挑戦してみるか。
二十分もしただろうか、達也はパソコンの前で微動だにせず考えていた。自分がこう動かすと相手はこう動かす。そしたら次はこうしよう。すると相手はこうしてくるかもしれない。いや、こうやるかな。こうかもしれない。こうだと……
達也はたった数分のうちに、将棋の魅力にすっかり取り憑かれてしまった。たった9×9=81の升目しかないのに、無限の可能性が秘められている。考えているだけで刻々と時間が過ぎていった。
そして対局開始から一時間が経った頃、達也は震えていた。
「これ……ここに金を打てばもう逃げられないよな……」
ぶるぶると震える右手を制し、何度も何度も確認した。そしてそっと金を置いた。
すると、ファンファーレと共に、勝利の二文字が画面に映った。達也はコンピューターに勝利したのである。
「やった!」
信じられなかった。最初だけ沙織が昔教えてくれた戦法をマネしてみてはいたが、うまいこと勝てた。攻撃のフォーメーションはなんとか流で、王様の陣形はなんとか囲い。もう忘れてしまったが。
事の重大さを整理してみる。そして自分はとんでもないことをしたことがわかってきた。
「僕……コンピューターに勝っちゃった!」
プロが負けたという敵に自分は勝った。確かに手強い相手だったが、自分はもうプロより強いのか。ということは……
「姉貴!」
部屋を飛び出そうとしたが、ちらりと時計を見て足が止まった。気付けばもう深夜の一時になろうとしているではないか。すると急に眠気が襲ってきた。
歯を磨き終え、ベッドへ転がり込む。だいぶぼんやりとした頭の中で、明日のプランを考えた。大学行ったら友達に自慢して先生達にも言いふらそう。奨励賞も貰わなきゃ。あ、その前に姉貴より僕は強いってことを自慢しないと。




