七年目の勘
「じゃあ、三人ほどまだ戻ってきてないが、そろそろ本気で解散とする。今日はみんな飲みに行かずにぐっすりと寝てくれ」
前田の声に部員達はようやく片付けをし始めた。そして、気の合う者同士で帰り支度を始める。部室全体を見渡すと、いくつかのグループに分かれていた。
「帰りますかな」
「そうだな」
麻生と伊藤が席を立った。
「結局帰ってきませんでしたな、あの三人」
「大変だ、佐伯が変態共に毒されちゃうよ」
「いや伊藤殿、私にはわかるのですが彼も変態ですぞ」
「麻生が言うなら間違いないね」
「もちろんであります」
ビシッと麻生が敬礼のポーズを取ってみせた。
「理系組帰りますよー」倉富が手を上げた。
「はーい」
「はーい」
「……戸刈先輩どこだ?」
「まーた勝手に帰ったんですよ」
「あの人、理系組に愛着あるくせにテキトーだよな」
「ほんとですよ」
「絶対帰り道犬のフン踏んでるよ……」
「池谷君、一緒に帰らない? 他に一年居なくてさあ」
橋本が声をかけてくれた。今日一日でずいぶん交流できたなあと、達也はほくそ笑む。
「いいよ!」
「じゃあチーズ」
カシャッとシャッターが鳴った。
「今のツイッターにあげとくねー」
“帰宅なう”
“今日はこの人と!”
「勝手に撮るなよ~!」
「あはは、もう遅い~」
「奥村さん、明日の初日は誰が出てくると思います?」
「おそらく就活で何人か抜けるはずだ。期待値込みで我々の勝利の可能性は高い」
レギュラー達は明日の大会初日で頭がいっぱいだった。
「とにかく、俺と奥村と清野で三勝しなきゃな」佐藤が自信を見せる。
「明日は増本が不在だからな。うちの三番手が抜けるのは実際痛い。だが、就活の犠牲者が一人で済んで良かったと考えるべきだ」
「戸刈はどうすか?」
「あいつはよくわからん」
「戸刈は宝くじだ。勝てば儲けもの」
ハハハと笑い声が響き渡った。
さて、ようやく全員帰ったか。
前田は腕を組み、独り瞑想する。
本来なら最終日の東大戦までに毎週やっておきたかったのだがな。あいつの予定をもっと把握しなければならなかった。果たして本番まで間に合うだろうか。
前田にはやっておきたいことがあった。このままでは東大に勝てないという予感があったのである。そのためにはレベルの高い相手と一局でも多く対戦しておきたい。そこで、助っ人を呼ぶことにしていた。
前田はしゃがみこんで大きな引き出しを開けると、中から木の将棋盤を取り出した。ずいぶん古いもので、埃が舞う。この木の将棋盤を知らない者も多いだろう。夜も遅いが、これから準備に取り掛かる。前田が引き出しを閉めた時、ケータイが鳴った。
「桑原か、どうした」
「すいません、今日は部室に行けそうもないです」
前田はすーっと息を吸い、天井を見上げた。
「なぜだ」
「母が体調を崩したそうで」
「そうか、お大事にな」
「東大戦までは間に合わせます」
「頼むぞ」ケータイを切ると、前田は目を閉じて腕を組んだ。
果たしてこの企画は実現できるのだろうか。不安もあったが、桑原を信じるとしよう。四年生となった今年こそ、絶対に東大に勝って優勝しなければ。
前田は将棋盤を引き出しに仕舞う。まったく、埃を喰らっただけじゃないか。
部室の電気を消すと、静かにドアを閉めた。そして歩き出す。階段に差し掛かると大きな足音が聞こえてきた。カラッカラッと音が鳴っているということは、サンダルだ。
「おおう、前田君!」
「猿島さん」
猿島は肩で息をしていた。
「前田君、帰ってきたよ。あっ、大丈夫。二人はちゃんと帰したから」
「遅いじゃないですか、こっちもさっき解散させましたよ」
「しょうがないなあ、じゃあ二人で飲みに行こうよ」
「いえ、そういうわけには」
「いいじゃないか。オーダーについてもいろいろ聞きたいしね」
確かに猿島には説明していない。前田はしぶしぶ了解した。
「店っていっても大学出てすぐのところよ、激安のお店なんだから」
「今日はあまり飲めませんよ」
「じゃあちょっとだけね」猿島が親指と人差し指をくっつけ、丸を作った。OKということだ。
道中、前田は明日のオーダーについて考えていた。ほとんど構想はできていたが、それが団体戦の運命を左右してしまうことに、思わず様々な案を張り巡らされた。たとえ戦力差があろうとも、オーダーが悪ければ負けてしまうのが、大学将棋の世界だからである。
「ここよここ」
猿島が指を向けた先は、いかにも潰れそうな古い店だった。屋根には大きな蜘蛛の巣が張っており、紫色の看板のパネルもあちこち剥がれかかっていた。大学からすぐの距離だったので、知っている学生は多いのかもしれないが、好んで入るような店ではないだろう。猿島が引き戸をガラガラと開けた。中から髪の薄い店主が顔を出す。
「いらっしゃい」
「学生二人ね」
「ええっ! お兄ちゃん、学生証見せてよ」
「はいはい」
猿島にとって学生証の確認など慣れたものである。前田も決して疑われないことはない。昔から大人びていたため、逆の意味で困ったことはあった。そのおかげで女には苦労しなかったが、現在は謎に包まれている。なお、部員内で前田のプライベートを知る者は居ない。
「はい、失礼しました。学生二人、奥ね!」
猿島は満足そうに奥に向かう。
「学生だと激安なんだよ。ワイン、ボトルでちょうだいね」
猿島はソファーにどっかりと座った。前田はコートを脱ぐと、その中からケータイを取り出した。店全体の雰囲気は暗く、重い空気である。客層も怪しい。既に酔い潰れているサラリーマン、危ない関係と思われるカップル、ちびちびと飲み続けているボロい身なりの老人。どうやらここは社会の外れ者が集う店らしい。
すぐにワインのボトルが運ばれてきた。前田が二つのグラスにワインを注ぎ、乾杯する。
「いやー疲れた。じゃあ早速オーダーについて教えてよ」
「ええ」
前田はケータイにあらかじめ打ち込んであったメモ欄から、オーダー表を見せた。
「……いいんじゃない」
「そうですか。今回はこれでいこうかと思っています」
前田はワインを目を閉じながら飲んでいる。グラスを置くと、手を組んで前のめりになった。
「今回、長崎を出そうかと思っているんです」
「ほう! そうだねえ、相手にもよると思うけど、なかなか思い切ったことするなあ」
「猿島さん今日対局しましたよね、どうでしたか?」
「うーん、正しく寄せられてたら負けてたねえ。ちょっと終盤力に難ありといったところかなあ。実力は川上と同じくらいだね」
「そうですか。明日は増本が居ませんからね、川上か長崎に頼らざるを得ない状況なんですよ」
「それは本当かい? 痛いなあ。じゃあこっちもしっかりしないとね」
「ええ」
前田がワインの残りを飲み干した。
「で、猿島さん、池谷はどうでしたか?」
その言葉を聞くと、猿島は飲みかけていたグラスを置き、手を組んだ。
「前田君、君は初心者の時、どんな将棋を指していた?」
「……さあ、覚えていませんね。でも無我夢中でしたよ。棒銀とかですかね」
「そうだろう」
猿島はふっと息を吐いた。前田が手で口元を押さえる。
「普通初心者ってのは棒銀や原始中飛車のような、シンプルでわかりやすい戦法を好む。もちろん形など拘らずにね。ところが、池谷君は石田流なんて高度な戦法を使っていたんだ」
「石田流ですか」
「うん。もちろんまだまだ未熟なところはあるけれどね。でも、まだ将棋を始めて何日も経っていないそうじゃないか。信じられないよ。あのまま成長すれば麻生君達、いや、川上君とかもすぐ追い抜くよ」
「その根拠は?」
「七年目の勘ってやつだよ」
勘か。前田はグラスにワインを注いだ。
「明日は頼みます」
「もちろんだよ。相手はどこだい?」
「中邦と医科大です」
「ふーん、山はまだ先だねえ。でも、油断は禁物だ」
「ええ」
「……明日が楽しみだねえ」
この日、二人はボトル一本を飲み干したが、翌日に差し支えない程度で済ませた。二人は明日の大会の重要性をよく知っている。今年で前田は四年目、西川は七年目だ。いよいよ明日、大学生にとって最も重要な大会が始まり、レギュラーが最も血沸き肉躍る日になる。プロ棋士には味わえない特別な舞台、それが大学将棋だ。レギュラーである彼らも、大学将棋界のプロなのである。




