変態という名の将棋指し
「どうも今日はありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。じゃあまた頼む機会があったらよろしくね」
おじさんにあいさつを済ませ、沙織は道場を後にした。将棋連盟の一階は、将棋の書籍が数多く並んでいる。連盟に来た時は、いつもここに寄るのが沙織のスタイルだ。
新書をざっと見渡す。そこまで欲しいものもないだろうと判断した沙織は、短編詰将棋の本を手にし、中をぺらぺらとめくった。ややレベルが高いものとわかると、残念そうな顔を見せて元に戻した。
「さすがに達也にはまだ早いか」
今度は有段者向けの難しい定跡本を手に取り、目次を眺めた。
「とうちゃーく!」
突然大きな声がして、沙織は目線を上げる。
「先輩、本屋があるんですから静かにしてくださいよ」
「大学一年の時以来だ。うーんやっぱり連盟は良い匂いだなあ」
ずいぶん入口が騒がしいが、なんだろう。学生とその保護者だろうか。
「あー!」
女の子の物凄い大きな声に、沙織が驚いて入口を見た。
ずんずんずん。
女の子が自分を見るなり、迫ってくる。間違いない、私に向かってどんどん迫ってくる。
「池谷沙織先生ですよね! そうですよね!」
落ち着け、私はプロだ。
「はい、そうですよ」
「うわあああああ! 握手! 握手してください!」
今まで男の子に握手をせがまれたことはたくさんあったが、女の子からは初めてだ。ゆっくりとその子の手を取り、やさしく包み込む。もちろん笑顔を忘れない。
「ありがとうございますうう」
「泣いちゃってる泣いちゃってる!」
沙織はハンカチを取り出そうとしたが、その子はそれより早く袖で鼻を拭いてしまった。
「先輩いいなあ」
「ああ、夢のようだ」
遠くから指をくわえて見ているこの男達も、もちろん黙ってはいない。二人は目を合わせて何かを確信するかのように頷き、歩き出した。
「僕も握手お願いします!」
「お願いします!」
沙織は落ち着いて対応する。どんなに急でも、ファンの人達は大切にしなければならない。それにしてもあの女の子、ここまで感動してくれるなんて、嬉しいなあ。
沙織は外に出ると、連盟にあらかじめ呼んであったタクシーに乗り込んだ。今日はこれで終わり。後は自宅へ帰るだけだ。
沙織が去った後、佐伯と西川は心底満足そうに穏やかな笑みを浮かべていた。一方、下田はティッシュで鼻をかみながら、ひくひくと泣いていた。
「泣くほど好きだったんですか先輩」
「好いとうよ~」
ボロボロと泣き出したからか、化粧が落ちてきた。二人は見て見ぬふりをして書籍に歩み寄る。
「沙織様はさっきこの本を読んでたんですよ、へへへ」
「佐伯君、君もなかなかの変態だねえ」
「ありがとうございます! うわー手垢ですよ手垢!」
「手垢か、それでもかなり価値がつきそうだねえ。佐伯君、もし池谷さんの下着がオークションに出されていたら、君はいくら出すかね?」
「突然どうしたんですか先輩!? ……うーん一万!」
「ふーっ、君もまだまだ子どもだねえ」
佐伯は鼻をつまんだ。
「君も変態という名の将棋指しならば、一万がいかに微々(びび)たる数字かわかるだろう。僕なら全財産注ぎ込むね。相場百万は固いよ」
「まあ、欲しい人はなんとしても手に入れますしね」
「そんなこと絶対にあり得ないけどな」
二人は笑い出した。
「男ってサイテー」
下田が体をよじらせ、冷たい目で二人を見つめる。
「せ、先輩はそういう感情ないんですか!」
「ある。うちなら部屋に拉致して一緒にお風呂に連れ込んでいろんなとこ写真撮りまくって部屋に飾る。で、最後は激しく抱かれて眠りたい」
「…………」
「…………」




