詰将棋とアイドル
――このおじさん、すごい受け将棋だわ。攻めが繋がらなくなってきた……
長崎は額を左手で押さえて熟考していた。ずいぶん長い時間攻めているが、相手の穴熊はなかなかにしぶとい。だが、隣で池谷君が観戦しているのだ。絶対に勝たないと。
「長崎はまだ長老とやっとるんか」
清野が達也の前に座ってきた。
「池谷、詰将棋って知っとるか?」
詰将棋……。さっき長崎が本を読んでいたものだ。
「いえ、知らないです」
「そか! 暇なら詰将棋やってみいひんか? なかなかおもろいで!」
「はい」
清野は盤の駒をジャラジャラと端へ寄せる。そして王様と二枚の金を掴んだ。
「ここに王様がおったとするやろ」
達也から見て右上の隅にそっと置いた。ちょうど穴熊の位置だ。
「金がここにいたとして、手駒には金がある。王様を捕まえるには、どこに金を置いたら詰むかわかるか?」
金は王様の斜めちょっと先に置いてある。符号だと、3……二か。王様の位置は1一。符号は沙織に教えてもらったのでなんとかわかる。これだと、金を2二に打てば相手の王様は動けない。達也は2二に金を打ちおろした。すると、清野がニカッと笑った。
「そやな! こういうように、どうやったら相手の王様が詰むかどうか考えるのが詰将棋や。今のは一手で終わったけど、王手の連続で詰ますタイプがほとんどやな。ちょっとこれ解いてみい」
今度は桂や香、歩も盤面に置いた。持ち駒には角が増えている。
「5手詰めやで。難しいけどなー!」
達也はじっと考え始めた。なんとなく捕まりそうなのだが、どうしてもあと一歩届かない。
達也が悩んでいるのを見届けると、清野はふらっとその場から消えた。
長老もまたずいぶん長い将棋を指してるなあ、こりゃ長老ペースやで。
清野は盤を一瞬見ると、すぐに形勢を判断した。長崎の目から光が消えていることからも、猿島のペースであることがありありとわかった。
「すいませーん遅れました!」
一斉にドアに視線が集まる。その男の足には包帯が巻かれており、松葉杖をついていた。
「佐伯か、まだ足は治らんのか?」
前田が声をかける。いつもの口調だったが、言葉の端に心配しているそぶりがあった。
「もう少しです! 今日は包帯取り替えてました!」
「おっ、佐伯殿、新しく一年生が来てくれたのですぞ」
「本当ですか!」
佐伯はすぐにキョロキョロと首を振った。達也が気付く前に、先に声をかける。
「あっ佐伯勇太です! よろしくです!」
「あっ池谷です。よろしくです」
達也はあっけにとられたものの、なんとか反応した。つい言葉が移ってしまったが。
「今日は連盟にも行きたかったんですよねー」
「なぜだ?」前田が首を向けた。
「ふっふっふっ、気になりますよねー?」
「はよ言え」と清野がツッコむポーズをする。
「アイドルですよ、アイドル」
アイドル?
「実は今日、沙織様が指導対局のために道場に来ているんですよー!」
あああどいつもこいつも。達也は太ももをつねる。
「そうだったか。連盟ならここから電車で二十分もかからない」
「あー行きたいなあ。生沙織様を見たいですよ」
隣から「負けました」という声が聞こえた。ずいぶん頑張っていたが、ついに長崎が投了したらしい。
「いい頑張りだったねえ。本当に強かった。途中は負けるかと思ったよ。ところで……」
長崎はがっくりとうなだれる。
「佐伯君、それは本当かい? ちょっと連盟に寄っていこうかな」
「先輩! 僕も行っていいですか!」
「その足で行けるのかい?」
「大丈夫ですよ! もう余裕でこんなこともできます!」
佐伯がカッポカッポと音を鳴らし、気持ち悪いくらいに早く移動してみせた。
「それでは前田君、ちょいと失礼するよ」
「夜には帰ってきてくださいよ」
前田はやれやれと首を振る。
「うちもいってきまーす!」
ここにもいたか。
「遅刻はするし、連盟にも行っちゃうし。主将、これは下田殿に対して絶大なペナルティが必要ですな」
麻生が前田の肩からにゅっと顔を出す。
「後でゴムパッチンの刑にでもしておくか」
「もちろん二回ですな!」
「ああ」
「さすがの判決ですぞ」
麻生が顔を引っ込めた。
「そろそろ遅くなってきた。帰宅する者は自由に帰宅していいぞ」
いつの間にか、外が夕焼けに包まれている。前田は明日の大会に考慮したためか、いつもより早く解散の意を示した。だが、将棋好きな部員達は、なかなか帰ろうとしなかった。前田もそれをわかっていたから、あえて許可する言い方をしたのである。
「川上、こんな時間なのに斎藤がまだ来てないぞ」
川上との対局を終えた戸刈が、気分を良くしたのか、しきりに川上に話している。
「連絡係は伊藤だから、伊藤なら知ってると思いますよ」
「そうか。おい、いとーう」
こもった声だったが、伊藤はしっかりと聞き取っていた。
「なんですか戸刈先輩」
「斎藤は休みなのか?」
「おかしいですね。歯医者だと連絡が」
「歯医者!?」
戸刈が目を丸くする。
「あの野郎意味わからん理由で休みやがって……」
「もう今日は来ないんじゃないですかねー」
「そうか。ありがとよ」
戸刈はポケットに手を突っ込み、席を立った。
「伊藤、久しぶりに将棋やろうぜ!」
「確かに川上とは久しぶりだな。やるか」
普段文系と理系が将棋を指すことは少ない。法名は文系と理系でキャンパスが分かれており、こちらに寄る機会が少ないからだ。理系にも部室はあるが、そこはとても狭く、文系とは比べ物にならないほどの差があった。だから研究会は文系のキャンパスで行うのである。




