長老
「ういーっす」
時刻は二時前。ドアからサンダルの音と共に野太い声がした。
「あ、猿島さんだ」
猿島、先ほどのレギュラーに呼ばれていた人だ。丸い眼鏡に、口周りは青い髭が残っており、ずいぶん老けて見える。髪も禿げかかっていて中年のような体系だ。いや、もはや中年というべきだろうか。
「レギュラーはもう発表したかい?」
「はい。今年も猿島さんに出てもらいます」
前田が敬語である。少なくともかなりの年上であることはわかった。
「来年もいるから安心してよ」
「また新しく一年生が入りましたので」
前田が達也を見た。
「池谷です。よろしくお願いします」
「うい、猿島義雄です。今年で大学七年生だけど、よろしくね」
想像していたより学年が上だった。達也はどう反応していいかわからず、はにかんだ笑顔を見せる。
「じゃあ池谷君、指してみようか」
「えっ、でも僕初心者ですよ」
「いいのいいの。まず記念にやっておこうよ」
「池谷殿、長老とやるのは儀式みたいなものですぞ」
「そうよーうちも長老とやったし」
猿島はやはり七年生というだけあって、皆から長老と呼ばれているようだ。
「あっ、長崎さんもやろうよ。まだ話したこともなかったね」
「私ですか?」
長崎が席を立った。見兼ねた前田が指示を飛ばす。
「池谷、長崎、まずは二面指しで挑んでみろ。長崎は本気でいけ。池谷も負けるのは当たり前と思って、自分の将棋をぶつけてみろ」
「はい」
二人の声が重なった。
猿島が盤を二つ取り出し、駒箱を開けた。太い腕が駒をつまみ、大きな駒音を立てる。
気配を察したのか、三人の前からギャラリーが消えた。下田達も、再び前田と佐藤の対局を覗く。猿島が口を開いた。
「長崎さんは将棋やってたの?」
「はい、中学の頃から」
「ふーん。僕は大学から始めたんだ。ずーっと将棋指しててね、単位も取らずにずっと部室で将棋の勉強をしてた。そのせいで大学七年目だし、既に三浪もしてる」
「大学から始めたのに法名のレギュラーなんてすごいです」
「将棋が好きなんだ。もうこんなおっさんになっちまったけど、将棋のためなら人生捨ててもいいかなって考えてたくらいさ」
人間、ここまで何か一つに情熱を傾けることは、なかなかできないだろう。だが、将棋にはそれくらいの魅力がある。将棋は楽しいんだ。達也はそう自分に言いきかせ、あの電車内の会話の記憶を消した。
「池谷っていい名字だね」
突然こちらに顔を向けてきた。とっさに言われて、達也の目が大きく見開く。
「池谷沙織さんって女流プロと同じ名字なんだ。知らない?」
ああ、これで確定した。
「池谷君は昨日入ったんですから、まだ将棋界のことは詳しくないと思いますよ」
無の状態になっている達也を見てか、長崎が答えた。
「そうか。ぜひ後で調べてみてくれ、僕が心から愛してやまない人なんだ」
再び吐き気が襲ってきた。こんなおっさんにだけは取られないようにしてほしい。想像したら、思わず姉貴の身を案じてしまった。杞憂だろうけど。
「じゃあ始めよう。お願いします」
「お願いします」
達也は深々と頭を下げる。せっかくレギュラーの方と指せるんだ。ありがたい機会だと思って頑張ろう。
長崎は達也と対照的に、無言で軽く礼をした。達也は少し気になったが、これが彼女のスタイルなのだと目を背ける。
長崎の長い指が歩を掴み、パシッと▲7六歩を指した。美しい。対して猿島はのっぺりとした手つきで△3四歩。手つきだけで見たら長崎の方が強そうだ。だが、レギュラーに選ばれたのは猿島。人の実力とは見かけで判断できないものである。
▲1六歩、△8四歩、▲5六歩。次々に手が進んでいる。達也も負けじと長崎の手つきを真似て高々と初手を指した。だが、駒は盤に着地せず、すっぽ抜けてコロンコロンと床に転がってしまった。
「大丈夫?」
猿島が手を止め、駒を拾う。悪いことしたなと達也は「すいません」と謝った。
「誰でも最初は上手く駒を持てないよね。しょうがない。徐々に慣れていけばいいさ」
やはり皆苦戦するのか。猿島の手つきもそこまで美しくない。本当に大学から始めたんだなと達也は思った。
安心した達也は親指で駒の下側を支え、その上に人差し指と中指で押さえる、初心者がよくやる持ち方で▲7六歩と指した。ぺちんと情けない音。長崎の手つきをよく観察してみると、親指を使っていない。いや、一瞬だけ駒を持ち上げるために使っている。最後は人差し指と中指の二本だけで駒を持っていた。ピシッ。いい音だ。しばらく達也は長崎の手つきを観察し、手を止めていた。
なぜかしら。視線を感じるわ。
長崎は隣からの熱視線に動揺を隠しきれないでいた。池谷君、私の顔に何かついてる?
髪を整え、眼鏡をハンカチで拭く。そのままハンカチで頬を拭いた。続いて口元から顎へと手は動き、ついには額まで念入りに拭き始めた。
長崎の手が止まった猿島は大きくあくびをする。退屈そうな顔だ。
すると、それを見た長崎にもあくびが襲ってきた。
やばい。
長崎は必死にあくびを噛み殺す。また、そう察しられないように平然を装う。とにかく長崎は達也の視線を気にして、手が進まないでいた。
あれ、長崎さん指してくれないや。
達也は自分の盤に視線を戻して三手目を指した。▲7五歩。いつもの得意形だ。
達也が盤面に集中したのがわかると、長崎はゆっくりと次の手を指した。
対局中、達也はずっとモヤモヤとした状態が続いていた。それは沙織のことである。
なんで姉貴がこんなに人気なんだ。女流棋士には姉貴しかいないのか。もっと応援するべき人がたくさんいるはずだろう。それとも姉貴が調子乗っているのか。そこまでアイドルみたいなことをしているのなら、僕が後で注意しておこう。そんなんじゃ将棋強くならないぞと。ちょっとばかり顔がいいからって……




