表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
関東大学将棋物語  作者: るかわ
14/92

長老


「ういーっす」

 時刻は二時前。ドアからサンダルの音と共に野太い声がした。

「あ、猿島さんだ」

 猿島、先ほどのレギュラーに呼ばれていた人だ。丸い眼鏡に、口周りは青い(ひげ)が残っており、ずいぶん老けて見える。髪も禿()げかかっていて中年のような体系だ。いや、もはや中年というべきだろうか。

「レギュラーはもう発表したかい?」

「はい。今年も猿島さんに出てもらいます」

 前田が敬語である。少なくともかなりの年上であることはわかった。

「来年もいるから安心してよ」

「また新しく一年生が入りましたので」

 前田が達也を見た。

「池谷です。よろしくお願いします」

「うい、猿島義雄(よしお)です。今年で大学七年生だけど、よろしくね」

 想像していたより学年が上だった。達也はどう反応していいかわからず、はにかんだ笑顔を見せる。

「じゃあ池谷君、指してみようか」

「えっ、でも僕初心者ですよ」

「いいのいいの。まず記念にやっておこうよ」

「池谷殿、長老とやるのは儀式みたいなものですぞ」

「そうよーうちも長老とやったし」

 猿島はやはり七年生というだけあって、皆から長老と呼ばれているようだ。

「あっ、長崎さんもやろうよ。まだ話したこともなかったね」

「私ですか?」

 長崎が席を立った。見兼()ねた前田が指示を飛ばす。

「池谷、長崎、まずは二面指しで挑んでみろ。長崎は本気でいけ。池谷も負けるのは当たり前と思って、自分の将棋をぶつけてみろ」

「はい」

 二人の声が重なった。

 猿島が盤を二つ取り出し、駒箱を開けた。太い腕が駒をつまみ、大きな駒音を立てる。

 気配を察したのか、三人の前からギャラリーが消えた。下田達も、再び前田と佐藤の対局を覗く。猿島が口を開いた。

「長崎さんは将棋やってたの?」

「はい、中学の頃から」

「ふーん。僕は大学から始めたんだ。ずーっと将棋指しててね、単位も取らずにずっと部室で将棋の勉強をしてた。そのせいで大学七年目だし、既に三浪もしてる」

「大学から始めたのに法名のレギュラーなんてすごいです」

「将棋が好きなんだ。もうこんなおっさんになっちまったけど、将棋のためなら人生捨ててもいいかなって考えてたくらいさ」

 人間、ここまで何か一つに情熱を傾けることは、なかなかできないだろう。だが、将棋にはそれくらいの魅力がある。将棋は楽しいんだ。達也はそう自分に言いきかせ、あの電車内の会話の記憶を消した。

「池谷っていい名字だね」

 突然こちらに顔を向けてきた。とっさに言われて、達也の目が大きく見開く。

「池谷沙織さんって女流プロと同じ名字なんだ。知らない?」

 ああ、これで確定した。

「池谷君は昨日入ったんですから、まだ将棋界のことは詳しくないと思いますよ」

 無の状態になっている達也を見てか、長崎が答えた。

「そうか。ぜひ後で調べてみてくれ、僕が心から愛してやまない人なんだ」

 再び吐き気が襲ってきた。こんなおっさんにだけは取られないようにしてほしい。想像したら、思わず姉貴の身を案じてしまった。杞憂(きゆう)だろうけど。

「じゃあ始めよう。お願いします」

「お願いします」

 達也は深々と頭を下げる。せっかくレギュラーの方と指せるんだ。ありがたい機会だと思って頑張ろう。

 長崎は達也と対照的に、無言で軽く礼をした。達也は少し気になったが、これが彼女のスタイルなのだと目を背ける。

 長崎の長い指が歩を掴み、パシッと▲7六歩を指した。美しい。対して猿島はのっぺりとした手つきで△3四歩。手つきだけで見たら長崎の方が強そうだ。だが、レギュラーに選ばれたのは猿島。人の実力とは見かけで判断できないものである。

 ▲1六歩、△8四歩、▲5六歩。次々に手が進んでいる。達也も負けじと長崎の手つきを真似て高々と初手を指した。だが、駒は盤に着地せず、すっぽ抜けてコロンコロンと床に転がってしまった。

「大丈夫?」

 猿島が手を止め、駒を拾う。悪いことしたなと達也は「すいません」と謝った。

「誰でも最初は上手く駒を持てないよね。しょうがない。徐々に慣れていけばいいさ」

 やはり皆苦戦するのか。猿島の手つきもそこまで美しくない。本当に大学から始めたんだなと達也は思った。

 安心した達也は親指で駒の下側を支え、その上に人差し指と中指で押さえる、初心者がよくやる持ち方で▲7六歩と指した。ぺちんと情けない音。長崎の手つきをよく観察してみると、親指を使っていない。いや、一瞬だけ駒を持ち上げるために使っている。最後は人差し指と中指の二本だけで駒を持っていた。ピシッ。いい音だ。しばらく達也は長崎の手つきを観察し、手を止めていた。


 なぜかしら。視線を感じるわ。

 長崎は隣からの熱視線に動揺を隠しきれないでいた。池谷君、私の顔に何かついてる?

 髪を整え、眼鏡をハンカチで拭く。そのままハンカチで頬を拭いた。続いて口元から顎へと手は動き、ついには(ひたい)まで念入りに拭き始めた。

 長崎の手が止まった猿島は大きくあくびをする。退屈そうな顔だ。

 すると、それを見た長崎にもあくびが襲ってきた。

 やばい。

 長崎は必死にあくびを噛み殺す。また、そう察しられないように平然を装う。とにかく長崎は達也の視線を気にして、手が進まないでいた。


 あれ、長崎さん指してくれないや。

 達也は自分の盤に視線を戻して三手目を指した。▲7五歩。いつもの得意形だ。

 達也が盤面に集中したのがわかると、長崎はゆっくりと次の手を指した。

 対局中、達也はずっとモヤモヤとした状態が続いていた。それは沙織のことである。

 なんで姉貴がこんなに人気なんだ。女流棋士には姉貴しかいないのか。もっと応援するべき人がたくさんいるはずだろう。それとも姉貴が調子乗っているのか。そこまでアイドルみたいなことをしているのなら、僕が後で注意しておこう。そんなんじゃ将棋強くならないぞと。ちょっとばかり顔がいいからって……




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ