手紙をあなたへ
私は、今ごく普通の23歳の主婦です。これから話すお話は私の今まで生きてきた実際の話しです。
23年前、私は父、母と義父兄弟の四人の兄弟と親戚に囲まれ、家の中で産まれました。
父は私が産まれるとき、兄弟達を含め皆をに正座をさせて見ておくよう言ったそうです。
それから、私が記憶が残っている時期からお話します。
私は、小学校に入りました。
ある日二階建ての少し古い家に兄弟と私と父母で住んでいます。
私は、小学校に入り学校に通っています。
帰ってくれば家の中では、父は一人で下、後皆は二階といった離れた生活になっていました。
それが当たり前になっていました。
明くる日、前から喧嘩があっていた両親は、いつもと違う喧嘩をしていました。
茶碗の割れる音、ガラスが割れる音、とにかく、まだ私には怖くて下に降りる事はできませんでした。
突然母が逃げなさい!と 叫びました。
皆急いでいなくなりました。
私は一人でした。二階の部屋に。 どうしようもなく、ただ泣くだけしかできません。恐かったけど 下にいきました。すごい部屋に変わっていました。 そこには、父が一人黙って座り込んでいました。 どのくらい泣いたのか、いつの間にか、父の膝に座っていました。次の日私は普通に登校しました。又次の日も次の日も。
誰も帰ってきません。
毎日父のいない所で泣いていました。
私の父は、かなり年老いています。
おじいちゃんに間違えられる程。
その父は頭に病気を抱えていました。
昔の事故の後遺症みたいなんですが、たまに、泡を噴いて発作をおこします。
そのたびに誰もいないこの家では、私が何とかしないといけないのに、いざ 倒れると怖くてタオルもつめきれませんでした。
電話もできなかったので、隣の若い夫婦の所まで夜遅いのに救急車を呼んでもらいました。
救急隊の人がきたら発作はおさまり、意地はっていこうとしません。
こんな事が何度かありました。
皆がいなくなって何ヶ月かに、夜に、玄関が叩かれました。
静かに二階から外を見ると、兄弟がいました。
嬉しかったです。
父が起きない内に私は皆と母のいる家に行きました。
思っていた事が次の日起こりました。
家を探しあて、私を連れ戻しにきました。私はその時は戻りました。又何ヶ月か経って発作が夜中にあり、いつもより恐怖が強かったので、隣じゃなく、母の所に走っていました。途中、消防士から今頃何をしているのかと、聞かれましたが、タバコを頼まれたと嘘をつき、一目散に家にいきました。つけば安心して又、泣きました。
理由を話したら、母は父の所へ行き、タオルをつめにいきました。
発作がおさまり帰ってきました。
その時、私は父の所には帰りたくないと初めて言いました。
始めに取り残された怒りは消えていました。
そして私は学校を転校しました。
慣れない道を毎日覚えながら、嫌々行きました。
私は1番末っ子なんですが、上の三人は可愛いがってくれました。
すぐ近い兄は、いじめるので大嫌いでした。
さて、私は今三年生、姉は、俗にいう不良でした。
小さい時スカートを履かない主義だった姉は、いじめられたそうです。
それが蓄積された姉は中学校からかわりはて、いじめた奴を片っ端からしめたそうです。
私には優しいです。
そんな姉に彼氏がいました。
その蓄地区では1番喧嘩が強いので有名でした。
それから、姉とその人は離れて二人暮しをしてました。
そこに、私のすぐ上の兄は行く所がなく、姉の所で居候してましたが、かなりボコボコにされていました。今では兄は後遺症で、エレベーターとか乗れば発作が起きたりします。 そんな姉と彼氏が家に来ていた夜に、父が又、迎えにきました。私は怖くて震えが止まりません。生きてきた中で初めてでした。玄関では、彼氏と父が言い争っています。父は無理矢理中に入って来たので、彼氏はキレ、喧嘩になりました。
私と姉は手をつないで、押し入れで震えていました。
少しして、父は帰ったみたいでした。
それからは、父という存在は、怖い人となりました。
ある時、母は忽然姿を消しました。
私は誰といればいいのかわかりません。
長男は一人暮らししていたので、探してもらったら、諫早に行ったと言われ、当然父と暮らしたくないので、連れて行ってもらいました。
着きました。
すごく汚い住宅の端の方でした。
入ると、知らないおじいさんとおばさんがいました。
なぜか、住む事になり住みました。
知り合いだそうでした。
又 転校しました。
荷物なしで、きたので学校がふでばこ、消しゴム要る物を揃えてもらいました。
私は言葉が分からず、しゃべるのも嫌で死にたかったです。
帰れば知らない人達がいる。
その時未熟さをかんじました。
なんでこんな母親から産まれたんだろうと、小学生ながらに、感じていました。 その家にも慣れて来た頃、母が行く理容院に私は着いて行ってました。そこである親切な夫婦と知り合い、仲良くなりました。 その人達は、私達の話しを熱心に聞き、家を出る事まで一緒に考えてくれて、私達は、二人で生活出来るようになりました。私達は家を出て、小学校の近くに家を借りました。新しく住む家は6畳の部屋が二つと台所があります。何もなくて市役所の人が少し援助してくれました。テレビはないのが当たり前でした。当然、母は年老いて働く所もないので生活保護でした。それでも、私は、少し救われました。あんな家にいるよりは。 それから、二ヶ月くらいが経ち、学校から帰ると、母がいません。行く所はわかっていました。諫早の人の家でした。そんな日が何度かつついたので、私は呆れて、理容院の夫婦の所へ相談に行きました。話しを聞いた夫婦は、怒って諫早まで私を連れて、話しにいきました。私は車の中で待っていました。帰ってきたのはおじいちゃんでした。話しを聞けば、母は諫早の男の人と一緒になりたいと言ってると聞きました。小さいながらに、それを聞いても驚きはしなかったのです。わかっていたから。私は、養護施設という場所を知っていたので、行きたい話しました。おじさんは、それを聞くと、一時、私達の家に来なさいと行ってくれました。それから私は一緒に生活するようになりました。皆優しかったです。まるで我が子のように扱ってくれました。私は悪いので、お店の手伝いをしました。とにかく手伝いました。
たまに、毎日私が店にいるので、お客さんから、子供かと聞かれた事もありました。
その度におじさんおばさんは、冗談で、子供よ〜と、話していました。
そんな会話でさえも冗談でも嬉しかったです。
だんだん慣れて来た頃、悲しい別れがやっぱり来ました。
民政員さんが頻繁に来ていたんですが、施設の入所の話しだったんでしょう。
私は諫早の児童相談所という所に連れていかれました。
母がいました。
何時間待ったかわかりません。
職員が来て、言います。
お母さんはあなたを経済的にもみきれないから、あなたは施設に入る事になったからね、と、わかるように説明しました。
その日から私は、相談所に二週間いました。
ご飯の時間は決まっていて、全て時間が決まっています。
寝る時、起きる時は必ず、刑務所みたいに廊下に列んで、端から、洗顔 、歯磨き終了といい、番号もいいました。何をしたというのか。 朝から体操もあり、中庭も走り、もちろん掃除もありました。一日の日記もあります。苦痛でした。淋しかったです。最後の一日に控え室に呼ばれ、大きなアルバムを見せられ、沢山の子供達の写る写真を見せられ、ここに今からいくからね、と言われました。それから私は、職員と電車に乗り施設まで連れていかれました。
なんとも言えない気持ち、不安でしょうがなかったです。
着いて、園長先生が迎えてくれました。担当の先生が来て、一つずつ案内してくれました。部屋も決まりました。一番つらかったのは、自分で服に一枚一枚名前を書くのでした。泣きながらかきました。母を初めて憎いと心から思いました。それからです、私はお母さんと言わなくなったのは。言葉が悪いが、クソババアと呼ぶようになりました。 そして、又、新しい生活が始まります。
私は何もわからないまま、服に名前をかくと、担当のA先生の所へいきました。
今からぼちぼち子供達が学校から帰って来るからゆっくりしててね、と言われおとなしくしていると、幼稚園の子供が帰って来ました。
夕方になるに連れ、続出と帰ってきました。
そして、部屋の子を六人連れてきて自己紹介しました。
夜になればご飯の時に何十人といる先生、子供達の前で、自己紹介しました。
緊張しました。
初日、私は何もかも初めてで、やっぱり布団にもぐると泣きました。
次の日からは、又転校で、初めての学校に行きました。
少し転校には慣れていました。
母といる時は鉛筆そろえるにしても大変だったのですが、施設は、何にも苦労せずに簡単に必要な物は何から何までそろいました。
少し、学校も施設も慣れてきた頃、私は、学校で新しいニックネームで呼ばれたりして、皆優しいので楽しさを覚えました。施設でも、年が近い子がたくさんいて、母の事など、忘れていました。考えたくもなかったです。それから二ヶ月くらいに、母が初めて面会に来ました。私は嬉しくなかったです。タクシーできたので、恥ずかしくて早く帰ってほしかったです。見た目もおばあちゃんだし。自分の母親だと知られるのが怖くて恥ずかしかったので用件を聞いたら帰ってもらっていました。
他の親がうらやましかったです。
綺麗だし、週末は必ず帰る子供もいました。
頻繁に電話がかかってきてたり、帰省期間は必ずほとんどの子供は帰っていました。
正月もお盆も夏休みも冬休みも帰れない子供の中に私は入っていました。
もっとかわいそうなのは、赤ちゃんの時から施設で、一回も親と暮らした事なかった子もいました。
それに比べたら、私はいい方だったんです。
そんな私にも帰れる場所ができました。
私は小学校を卒業し、中学校へ入りました。
中学校にも通っていたある時、手紙がきてるよーと言われ宛名をみると、姉から手紙が来ていたのです。
その時ほど、嬉しいと感じた事はなかったです。
姉は彼氏とは別れ、結婚していました。
私が施設に入った事を母からきいたんでしょう。それから、すぐに手紙をだしました。会いたいと、、、。すると、子供の日に毎年園で球技大会があるんですが、呼び出しがあって事務所にいくと、姉が旦那さんを連れて面会にきていました。泣きそうだったけど、こらえました。せっかくだからということで、ジャスコまで遊びにいきました。それから、私達は連絡を取るようになり、正月や夏休みなどは、姉が都合つく日には、姉が迎えにきてくれていました。
それから私は姉を母親みたいに慕っていました。
そんな事があって、又私に電話が母からありました。
すると、父が亡くなったという話しでした。
きけば、二年前に亡くなっていました。
涙を流す前に、悲しむ前に、なんで今頃報告するのかと、怒りしかわきませんでした。
でもまだ、私は父のお参りもいけませんでした。
場所をしらないし、誰にもわかりませんでしたから。
こんな事もありながら、私は施設で頑張って生活しました。
やっぱりこういう集団生活は何が起きても、皆の責任ということで、どれだけ事件があっても、又事件、又事件と、キリがなかったです。
ある事件では、女子棟は皆集められて犯人がでるまで正座で皆手をあげとかないといけなかったんです。
泣く子が沢山でした。
足は痛いし。結局でませんでした。得にケータイの事件が多かったです。この時はクラスの子がケータイをもちはじめて、皆欲しかったんでしょう。ある子は姉に名義人になってもらって使っていたら、お風呂で落としてしまい先生にばれてしまったり、彼氏とメールしたいがために親に名義人になってもらい、こそこそと、使っていてばれたり、解約したつもりが、まだもっていたり、皆欲しがっていました。確かに私も欲しかったです。 こんな事件があったなか、担当の先生が変わりました。A先生は、寿退社しました。B先生が担当になりました。少し抵抗がありましが、だんだん仲よくなりました。この先生との出会いが私の支えとなりました。
私と先生は数えきれないほどケンカをして、泣いて、笑い、沢山話しをしました。
冬休みとか、先生の実家に泊まりにも行きました。
私にしては、姉みたいな母親みたいな存在でした。
もちろん、悪い事をすれば、怒られました。
筋が通っていないとダメな人でした。
私がくもんをしていたのですが、ためてしまって、ばれた時、終わるまで付き合ってくれたりしました。
学校でいい事をすれば、一緒に喜んでくれました。
私は中学校を卒業しました。
卒業すると同時に、親と施設側の話しで、施設を出れる話しが上がっていたのですが、私は今後の生活にだいたい予想がついていました。
又同じ事の繰り返しになる事が、、。
なので、初めから断って、高校まで行かせてもらいました。
それから私は被服関係の勉強が出来る高校に入りました。
女子高でした。
新しい友達も出来ました。それなりに楽しかったです。高校に入っても姉とは、手紙を書きあっていました。つらい事や、楽しかった事、全て伝えました。手紙に切手を貼り、ポストに出す時から姉からの手紙を首を長くして待っていました。姉が言ったのか、兄からも手紙が来ました。書き慣れていない手紙でした。でも、それも 又、嬉しかったです。
この時点で手紙は40枚を越えていました。
私は、何度も読み返して読んでいました。
私は一人じゃないんだ!と言い聞かせるように。
私は三年間、頑張って高校卒業となりました。
卒業するまえの一ヶ月の休みの時、私は先生に言われました。
あんたは、私に心から本音を話していない!母親の事を嫌いと言いながら、なんで母に会った事を隠していたのか?と、、。
夏休みの前、散々母の文句を先生に話していた私。
姉と帰省していた時、少しだけ母に会っていました。
乗り気はなかったのだけど、会いました。
嫌いならあえないはずです。
それを先生は言っていました。
母から電話があって知ったんでしょう。
先生は、母に素直に言いなさいと言いました。
ビンタされました。
私は、心の底から悔しくなり、母が施設から近い所にたまたま居たので、自転車で思いを伝えに行きました。着いて、年老いた母に、産んでくれた事だけは感謝しとるけん。と一言だけ告げ帰りました。絶対に言いたくなかった言葉だけに恥ずかしくもあり、どこか言えた年いう安心感もありました。あんなに憎んでいる母なのに、少しあいていた距離も言葉一つで、縮まるんだなぁと実感しました。 それから私は、先生に母に思いを伝えた事をしらせると、それでよかった。
と、いってくれました。
卒業式はでれませんでした。
インフルエンザになったので行けなかったんです。
最後までついてないです。
担任の先生が施設まで、袴姿で来てくれました。
卒業証書をよんでくれました。
嬉しかったです。
私は卒業を終え、福岡の和裁の会社に就職しました。
初め、施設の時の先輩がいたので、その人にタメ口でいたら、他の先輩から、変な目で見られました。
そんなに気にはしなかったので、注意しながら、敬語を頑張っていたら自然と皆優しくなりました。
とにかく上下関係厳しい会社でした。
仕事も辛かったです。
ずっと座ってチクチク針で裁縫するので、眠いし、納期は決まってるから寝れないし、寮だったから、規則厳しいしの多重苦でした。
私は、この仕事のハードさについて行けず、社長に退社をしたいと言いました。何度も止められましたが、しぶしぶ断ってやめました。私は先生の期待を裏切ってしまいました。連絡もなしに。怖くて言えませんでした。それから先生とは、二年間くらい連絡をとっていませんでした。 私は、ある男性と住んでいました。初めて人を心から好きになった人でした。彼の両親も住んでいました。
同居ですね。
私は、気を使いながら彼の家にいました。
私達は結婚前提に子供を作りました。
私は、この人の子供を産みたいと思っていました。
この気持ちがあったので、全く不安はありませんでした。
毎日私は、検査するのを買ってトイレに行く度、検査しました。
すると、二回目に薄く妊娠の可能性の印しが出ました。
嬉しくて彼に言いました。
喜んでくれました。
もう名前も考えたりしていました。
二日後二人で下に居る両親に報告にいきました。
始めは二人共驚いていましたが、自分達が 何を言っても変わらないから、好きなもんは好きなんやから、一緒になれと言ってくれました。
少し私は心が軽くなりました。
それから産婦人科に行くと、妊娠していました。
嬉しかったです。
でも、4周目から少し血が出てきました。
病院にいくと、安静と言われ、私は寝ていました。
でも血は減りませんでした。二日後 生理痛みたいな痛みがきました。 下の彼のお母さんに訴えました。痛みが激しくなったので、産婦人科にいきました。熱が出て、私はお腹痛くて、ベットで寝ていたらトイレに行きたくなったので行くと、手の平くらいのかたまりが出てきました。赤ちゃんでした。流産しました。 私は、その瞬間から、わーっと涙があふれてきて、止まりませんでした。
看護婦さんを呼んで取ってもらいました。
私は少しでも一緒に痛かったので、看護婦さんに頼んで箱に入れてもらい、一日隣に置いて、謝りながら寝ました。
次の日皆に報告して、彼も悲しいはずなのに、あえて、次頑張ってみようと言ってくれました。
この時、ずっとこの人といたいと思いました。
それから何ヶ月かして、又赤ちゃんを作りました。
出来ました。
産婦人科でも順調でした。
これをきっかけに結婚もしました。
幸せ二倍でした。
私は誰もが言う程 同居していても彼のお母さんと 悪い関係ではありませんでした。
彼の家族は皆優しく、理解してくれて、家族の仲間に入れてくれたからです。
八月四日朝方男の子が産まれました。
名前もかっこよくつけました。
かなり安産でした。
退院して、少し経って私は先生に手紙を書きたいと思いました。 まずは、謝りの言葉を書き、今の状況を伝え、赤ちゃんの写真を入れ、送りました。 また、返事が来るのが、受験並に緊張しました。 返ってきました。早く見たくて読むと、連絡くれて嬉しかった。涙が止まらなかったし、手紙書くのを悩んでいました。と書いてありました。それを見て、手紙っていいなぁっておもいました。
言いたい事を文字で伝えられるって いい事だと思いました。
姉との手紙も今数えたら、92枚ありました。
諫早の理容院のおじちゃん、おばちゃんにも手紙で伝えています。
こんな風に、いろんな辛い事、悲しい事、あったけど私は今がとても幸せです。
いじめで自殺したりする子供が増える世の中、今死にたいと思ってる子供達に少しでも時間があるなら、伝えたい人に手紙で思いを伝えるか、誰でもいい、いつのでもいい、嬉しかった手紙があれば読み返して見てください。皆一人じゃないから! きっと 何か些細な事でもいいから変わるはずだから。 最後に私は、書いた事のない手紙を書きたいと思っています 母へ。