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プロローグ

「世、というものにはな」


 静かな声が空気にそっと響く。


「世というものには、時折あってはならないもの、無い方が良いものが多数存在しているんだ」


 肩に届くか届かないかというところで一直線に切りそろえられた真っ直ぐな黒髪と、羽織っていた白いコートが風にはためく。コートの下には少し痩せ気味だが女らしい丸みを帯びた身体が、上から下まで黒い衣服で覆われていた。

 彼女の視線は涼しげにその先に立つ初老の男に目を向ける。しかしその視線を受けた男は怯えたように息を吸い込むと一歩ずつ後退していく。その腕には、決して離すまいという意気込みで抱きしめているものがあった。白いコートの女はそんな彼の姿を一瞥し、にやり、と笑むと彼が離した距離を自身が一歩踏み出すことによって縮めた。


「歴史の過程で作られた中に、それらは必ず紛れている。モノにもヒトにも、空間にさえ」


 ここでもしも腕に抱えていたものが、あるいは彼の愛すべき妻か、娘か、はたまたひそかに彼が囲っている愛人であったのなら、彼女もまた行動を変えていたかもしれない。しかし彼が腕に抱えていたものは、なんの変哲もないただの壺。まあ、『ただの』というには少々特殊かもしれないな、と彼女は男を追いつめながら思う。


「頼むからそれ以上近寄らないでくれ!」


 初老の男は懇願するように白いコートの女に叫んだ。一歩退けば彼女が一歩進む。それを何度か繰り返し、彼にはもう後がなかったからだ。後ろを見やれば危険防止用のフェンス。彼が着ていた上質なスーツのジャケットが、下からくる強風に煽られていた。

 追いつめられたことと高さによる二重の恐怖に耐えきれず、ついに彼はその場に座り込んだ。女は気にせず言葉を続ける。


「その御年で1階から屋上まで逃げる体力は称賛したくなったけどねえ。

 まあとにかく、その一つが今あなたが手にしている壺っていうわけなんだけど…いい加減それ離してくれないか、理事長?」


 口元に笑みを残したまま、彼女はそれまで一定であった距離を更に縮めていく。理事長とは、この初老の男の肩書きだ。全国に名を轟かせるほどの有名私立進学校の理事長が、残念ながら現在その威厳はどこ吹く風だ。


「ふ、ふざけるのも大概にしたまえ!これがどういうものだか、分かって言ってるのか!あの有名な、」

「ああ言わなくてもいいから。そんなことは私にはどうでもいいし。私の使命はただそれを消すことだって、何度言わせるんだ」

「なっ・・・」


 男が絶句する。それもそうだろう。彼女はこれから、彼にとっておそらく一番大事なものを消すと言っているのだから。


「あなたの壺はあってはならないモノ。世のことわりに違反するもの」

「やめろ…何をする気だ!やめてくれ…!」


 とうとう男の目前に白いコートの女が立つ。男性は何度もやめてくれ、と繰り返していたが彼女の意識にはもう男性の姿は入ってはいなかった。女は膝を折り、更に男との距離をつめた。正確には、彼の持っている壺との距離を。


「さて…お別れだ」


 一言呟くと、彼女はおもむろに壺の上に手を振りかざした。そして、


めつ


 そう言葉を発した瞬間、ピシ、と大きな亀裂音が周りに響いた。


「ああ…!」


 初老の男から悲痛な声が出る。壺はその後音もなく崩れ、ついには砂となり風にさらわれていく。


「そんな…私の壺が…。なんてことだ…。なんてことだ…!」


 砂はどれだけ彼がその手に握りしめていようとも、サラサラと流れていくだけだった。

 男は絶望し、そしてそんな絶望へと追いやった若い女を思い出し、次いで湧きあがった怒りに身を任せ怒号を放った。


「貴様、何をしたかわかっているのかあ!!」


 果たして憎しみの視線を向けた先には、ただ向かい側のフェンスがあるだけだった。女は既に消えていたのだ。辺りを何度見渡しても、彼女の姿は見えなかった。


「どういうことだ?!」


 その問いに答えるものは誰もいない。発散できない怒りと、忽然と消えた女に対する驚きに男は混乱する。あの女は誰だ。なぜ消えた。いや、それよりもなぜ己が大切にしていた壺を消したのか。そもそもあの女、突然理事長室にきたかと思えば、いきなり―――いきなり、何を言い出したのだったか。まあそんなことはどうでもいい。あの女、絶対に許すものか。私の大切な―――を。なぜあの女は私の―――――。

 そこまで考え、男はふと自分が今いる場所を思い出した。顔に風が当たる。当然だ、ここは学校の屋上なのだから。――――待て。なぜ私はこんなところにいるのだ?確か午後から会食の予定があって、その準備をしていたはずだ。なのになぜ私はここにこうして、座っているんだ。いかん、どうにも記憶がはっきりしない。とうとう私もボケ始めたのだろうか。

 男が腕時計を見ると、時計の針は11時を10分ばかり進んだところだった。最後に時計を見たのは確か10時40分過ぎ程だったので、およそ30分間の記憶が無いことになる。初老の男はその空白の時間に恐怖を感じたが、会食の時間がせまっていることに気付き、あわてて立ち上がると、急いで理事長室までの階段を下りて行った。



 その様子を、学校の隣のビルからじっと見つめる者がいた。白いコートの女だった。数分前、男に見せた笑みとは違う微笑みを浮かべながら。

 彼はこの後、予定通り会食を済ませるだろう。そして何事もなく一日を過ごしていくのだ。



「…“幸せを呼ぶ壺”。確かに消去させてもらった」


ぽつり、と呟くと女はまた忽然と姿を消したのだった。


プロローグです。とりあえず小説の雰囲気はこんな感じです。

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