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盲目令嬢と夜の語り部  作者: 万年亀


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9/16

ミランダ

屋敷の中は、まるで地獄の蓋が開いたような混沌の渦に呑み込まれていた。


アネットのもはや意味をなさない絶叫。

異変を察知して駆けつけた侍女たちの恐怖に引きつった悲鳴。


そして重々しい鎧をガシャン、ガシャンと鳴らしながら廊下を駆けてくる衛兵たちの荒々しい足音と怒号。

その全ての音が私の頭の中で不快な協和音となって、ぐちゃぐちゃに混じり合っていく。


「大丈夫か、エリアーナ!」


嵐を突き破るような父の鋭い声が、ようやく私の麻痺した意識に届いた。

父は人垣をかき分けるようにして私のそばまでやってくると、その場で指揮を取り始めた。


その声はもはや、ただの父親のものではない。

幾多の困難を乗り越えてきた、この地の領主としての厳格な響きを持っていた。


「アネットを別室へ! 誰か落ち着かせろ!」


「衛兵は二手に分かれろ! 半数はこの部屋の窓から庭を捜索! 残りは屋敷の全ての出入り口を固めろ! 鼠一匹外へ出すな!」


「何があったのか、状況を正確に報告しろ!」


矢継ぎ早に飛ぶ的確な指示。

人々はその声に統率され、混乱の中にも徐々に秩序を取り戻していく。


誰かが私の腕を取り、床から引き起こそうとしてくれる。

けれど、私の体はまるで根が生えてしまったかのように動かない。


手のひらのじくじくと脈打つ痛みが唯一、私がまだここに存在していることを証明しているかのようだ。


やがて、父は私の前にゆっくりと屈み込んだ。

周囲の騒がしさが少しだけ遠のく。


「……エリアーナ。立てるか。まずは、その手の手当てをしないと」


父の声は先ほどとは打って変わって、娘を気遣う優しい声に戻っていた。


私は何も答えず、されるがままだ。

アネットとは別の年配の侍女が濡れた布で私の手のひらの血と薬湯を拭い、砕けた陶器の破片を慎重に取り除いてくれる。


チクリ、チクリと神経を逆なでするような痛みが繰り返し走る。

そして柔らかい麻の布が私の手に手際よく巻かれていく。


その治療という、あまりに現実的な行為が私の心をさらに深い、現実の絶望へと引きずり込んでいく。


「……皆、下がれ。エリアーナと二人だけで話がしたい」


父の、静かだが逆らうことを許さない命令。

部屋に満ちていた人々の気配が、さざ波のように引いていく。


嵐の音と、父と私の息遣いだけが残される。


父は私の向かいの椅子に、深く腰を下ろしたようだ。


ギィ、と木が軋む音。

それは、ほんの少し前までアレンが座っていた椅子。

その事実に、私の胸が締め付けられるように痛む。


「……何があったのか、全て話してくれ」


父の問いかけは穏やかだった。

だが、その奥には鋼のような硬い意志が感じられる。


私は答えられない。

何と言えばいい?


優しい声の骸骨が、毎夜私に美しい冒険譚を語りに来ていた、などと。


誰が信じるだろう。

信じたとして、誰がそれを許すだろう。


父は私の沈黙をどう解釈したのだろうか。

彼は、ゆっくりと言葉を続けた。


「……アネットは錯乱して『スケルトンがいた』と叫んでいた。嵐の夜だ。稲妻の光が何かの影を見間違えさせたのかもしれん。だが窓から出て行った侵入者がいたことは事実だろう」


父の声は優しい。

しかし、私から真実を聞き出そうという固い意志がある。


「この二階の、お前の部屋にまで易々と忍び込めるとは、ただ者ではない。お前はそいつに何かされたのか? 脅されていたのか?」


父の言葉は私の逃げ道を塞いでいく。

そうだ、その方がいいのかもしれない。


私は邪悪なアンデッドに脅されていた哀れな被害者。

そうすれば全ては丸く収まるだろう。


――けれど、私の唇はその嘘を紡ぐことを拒絶した。


あのアレンが語ってくれた数々の物語。


ミランダの快活な笑い声。


胸躍る冒険。


それらが偽りであったとは、どうしても思いたくなかった。

たとえ、その語り部の正体が骸骨であったとしても。


「……違うのです」


かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにか細く、しかし確かな意志を持っていた。


「彼は……悪い人ではありませんでした。ただ、私に物語を聞かせてくれていただけなのです」


「物語だと?」


父の声に訝しむ色が混じる。


「……どんな、物語だ」


私は逡巡した。

けれど、もう後には引けない。


私はぽつり、ぽつりと語り始めた。


灼熱の砂漠の話、霧深い森の話、そして天空に浮かぶ古代都市の話。


その全てを彼が語ってくれたのだと。

そして、その物語の中にいつも登場する、二人の名前を口にした。


「彼の名はアレン。しがない旅の魔術師と名乗っていました。そして、彼のたった一人の相棒。……ミランダという名の女剣士がいたと」


その名前を私が口にした瞬間。

父の息が明らかに詰まったのを私は感じた。


父が座る椅子がギィ、と小さく軋む。

恐らく無意識に身を乗り出したのだろう。


「……ミランダ、だと? お前、今確かにそう言ったか。聞き間違いではないな」


その声は驚きと困惑。

そして何か遠い過去の扉をこじ開けられたかのような響きだった。


「はい。燃えるような赤い髪をした、とても勇敢な女剣士だったと……アレンはいつも誇らしげに話していました」


父はそれから長い間、黙り込んでしまった。


嵐の音だけがこの場の沈黙を際立たせる。

椅子に置かれた彼の手が、指先で肘掛けをコツ、コツと神経質に叩いているのだろう音だけが室内に響く。


それは父が記憶の糸を必死で手繰り寄せようとしている時の癖だ。

一体何が父の心を、これほどまでに揺さぶっているというのだろう。


やがて父は重々しく口を開いた。


「……アレンという魔術師の名には全く心当たりがない。だが赤髪でミランダという名の女性なら、この我がブラッドフォード家の血筋の中に確かに存在した」


私の心臓がドクンと大きく脈打った。


まさか。

そんな、偶然が。


「それは……一体、誰なのですか」


「お前の曽祖母の、さらに母にあたる方だ。つまり高祖母だな。私も幼い頃に古い肖像画でしか、その存在を詳しく知っていたわけではないが……」


父の語る言葉は私の知らない、一族の封印された過去を少しずつ剥がしていく。


――ミランダ・ブラッドフォード。


旧姓を、ミランダ・フォン・ヴァレンシュタイン。


北方の小貴族の生まれ。

若い頃は家のしきたりを嫌い、冒険者として大陸中を放浪していたらしい。


その剣の腕はかなりのもので、いくつもの武勇伝が現在まで残っているという。

アレンが語った、あの太陽のような女剣士の姿がそこにあった。


だが、父が続ける彼女の後半生は、その輝かしい前半生とはあまりにもかけ離れたものだった。


「彼女の実家ヴァレンシュタイン家が鉱山事業の失敗で多額の負債を抱えて破産した。当時、我がブラッドフォード家の当主であった私の高祖父は最初の妻を病で亡くしたばかりでな。高祖父はミランダ様のその美貌と、巷で噂される型破りな武勇伝に強い興味を示したのだ」


父はそこまで言ってから、言い辛そうに言葉を続ける。


「そして……言ってしまえば借金を肩代わりする、という形で、彼女はほとんど身売り同然にこの家に嫁いでこられたのだそうだ」


父の言葉が私の頭の中で反響する。


「嫁いでこられてからのミランダ様は、まるで別人のようだったと古い記録には記されている。かつての快活さをすっかり失い、誰ともほとんど口を利かず、いつも寂しげに窓の外をただ眺めていた、と」


それは。

あまりに私の知るミランダの姿とかけ離れている。


「彼女は世継ぎとなる男子を一人だけ産み、その子が成人するのを見届けられると、まるで自分の最後の役目を終えたとでも言うように四十代近い若さで静かに息を引き取られたそうだ。病死とされているが、あるいは……生きる気力を失ってしまわれたのかもしれん」


父の、淡々とした語りが、私の胸を、締め付ける。


アレンが語った、快活で自由奔放なミランダ。

そして父が語る、家の犠牲となって心を殺して生きたミランダ。


同じ一人の女性の二つの姿が私の中でどうしても結びつかない。

父が語るミランダ様はまるで光を失った抜け殻のようだ。


でも、アレンが語ってくれたミランダは太陽そのものだった。

同じ人間なのに、どうしてこんなにも違うの?


身売りされたから?

冒険できなくなったから?

本当にそれだけだろうか?

だとしたら、アレンは……?


彼はミランダ様のこの後半生を知っているのだろうか。

彼が時折声に滲ませていた寂しさの理由は、これだったの?


そして、なぜ彼は骸骨の姿で私に会いに……?

彼は本当はミランダ様に会いに来たの?

それとも何か別の目的が……?


疑問が次から次へと私の頭の中に渦を巻く。


「……父様。その、ミランダ様の遺品は何か、この屋敷に残ってはいないのでしょうか」


私の震える声での問いに、父は少し驚いたようだった。

だが、父は再び記憶の糸を手繰り寄せ、やがて思い出したように言った。


「……そういえば、あったな。彼女が嫁入りの時から亡くなるその日まで、肌身離さず身につけていたというブローチがあったはずだ。彼女の死後、気味が悪いと誰も触りたがらず、確か古い木箱に入れられたままで、この屋敷の外にある倉庫の奥深くに眠っていると聞いているが……」


父はそう言うとゆっくりと立ち上がったようだ。

ギィ、と椅子が音を立てる。


「よし、わかった。嵐が明けたらすぐに執事に命じて探させてみよう」


そして、そのまま父は私の傍に歩み寄り、私の肩にそっと手を置いた。


「……今夜はもう、お休み。侵入者の件は私に任せなさい。お前は何も考えなくていい」


父のその優しさが、今は少しだけ重かった。

だって私は考えずにはいられない。


アレンのことやミランダ様のこと、そして彼らが遺した物語のこと。

父が部屋を出ていき、再び一人になった部屋で、私は包帯の巻かれた手のひらを強く握りしめた。


ブローチ。


それがミランダ様がこの世界に遺した唯一のメッセージなのかもしれない。


その冷たい金属の塊に触れれば、私はアレンがなぜこの世に留まり続けているのか。

アレンの抱く悲しい理由の一端に触れることができるような気がした――。

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