幻惑の森の物語
彼は砂漠の冒険譚を語り終えると、次に「霧の森と幻の霊獣」の物語を私に聞かせてくれた。
シャマル大砂漠とは正反対の、一年中ずっと霧に閉ざされた湿潤な森。
そこでは視覚はほとんど役に立たず、聴覚と勘だけが頼りになる。
彼の語りを聞きながら、私は苔の湿った匂いや、霧を含んだ、ひんやりとした空気を肌で感じていた。
どこからか聞こえてくる、雫が落ちる音。
ポタリ、ポタリ……。
見たこともない鳥の神秘的な鳴き声。
足元で湿った落ち葉が、クシャリと音を立てる感触。
その全てが私の部屋にいながらにして体験できる、素晴らしい冒険だった。
アレンとミランダの目的は、その森の奥深くに住むという幻の霊獣『麒麟』に会い、その角から滴るという万病を癒す「癒やしの雫」を一滴だけ譲ってもらうこと。
病に苦しむ、ある国の王女を救うためだった。
だが、その森は美しいだけではない。
人の心を惑わす幻惑の魔法に満ちていた。
アレンは知識があるがゆえに、その幻に何度も囚われそうになる。
亡き師の幻影、甘い誘惑を囁く妖精。
そのたびにミランダの現実的な力強い声が、彼を正気に引き戻す。
『しっかりしろ、アレン! あんたが見ているのは、ただの霧だ! あたしの声が聞こえるだろう! 畜生、陽光の羅針盤を物好きな貴族に売った後に、こんな森に来ることになるとはね……。一旦戻って借り受けるか……?』
彼女のその声が、アレンにとっての何よりの道標となっていた。
そしてアレンの物語もまた、私の昼間の生活にとっても道標となり、確かな光を灯し始めた。
生きる意欲を取り戻した私はアネットに頼み、盲目の世界で生きていくための訓練を始めたのだ。
最初は杖を使って、自室の中を壁を伝わらずに歩く練習。
何度も家具に足をぶつけ、転びそうになった。
けれどアレンとミランダが、あの神殿の罠をいくつも潜り抜けたことを思えば、このくらい何でもない。
そう思うと、不思議と力が湧いてきた。
やがて私はアネットの付き添いの下で、部屋の外である廊下を歩く練習も始めた。
そこで私は多くの発見をする。
絨毯の敷かれていない大理石の廊下は、杖の音がカツ、カツ、と高く、澄んだ音で反響する。
壁に大きなタペストリーが飾られている場所は、その音が布に吸収されて少しだけくぐもった響きになる。
その音の微妙な違いで自分が今、屋敷のどのあたりにいるのかがわかるようになってきた。
それは私にとって失われた視覚を補う、新たな地図を手に入れるような心躍る体験でもあった。
父との関係にも変化が訪れた。
ある日の午後、いつものように父が私の部屋を訪れた際。
以前なら私はただ黙って、父の気遣わしげな言葉を聞き流しているだけだったろう。
けれど、その日。
私は自ら口を開いたのだ。
「父様。昨夜、夢を見ましたの。一年中ずっと霧に覆われた、とても美しい森の夢を」
そう言って、私はアレンから聞いた物語を、まるで本当に自分が見てきたかのように父に語って聞かせた。
父は驚いたように、黙って私の話に耳を傾けていたと思う。
私が話し終えると父は震える声で言った。
「……そうか。とても楽しい、素敵な夢だったのだな」
その声にはもう、私を憐れむ色はなかった。
ただ娘の変化を心の底から喜ぶ、父親としての温かい響きだけがあった。
その日、父はいつもより長く私の部屋に滞在して。
昔、母と三人で森へピクニックに行った時の思い出話などをしてくれた。
食事の時間も楽しいものに変わった。
ある日の夕食にキノコのクリームスープが出た。
その豊潤な土の香りを嗅いだ瞬間、私の頭にはアレンが語っていた、霧の森に自生するという月光を浴びると青白く光る不思議なキノコの姿が、ありありと浮かび上がった。
「このキノコは、光らないのかしら?」
私の唐突な呟きにアネットはきょとんとしていたようだが、私は一人くすくすと笑っていた。
食事はもはや、ただの栄養補給の作業ではない。
私の想像力を豊かに、どこまでも広げてくれる素晴らしいものとなっていた。
そんな穏やかで、満たされた日々がしばらく続く。
私はアレンが動くたびに聞こえる、カシャ、カシャ、という音にもすっかり慣れきっていた。
それは彼の存在を示す、心安らぐ音楽のようなもの。
きっと彼が旅の途中で集めた様々な国の魔除けの護符か、あるいは小さな石や木の実を繋いだお守りのようなものなのだろう。
そう、私は何の疑いもなく信じ込んでいた。
ある夜、私はふと、その音について彼に尋ねてみたくなった。
「ねえ、アレン。あなたが動くたびに聞こえる、その音。とても心地よい響きね。それはもしかして、あなたが旅先で集めた護符か何か?」
その何気ない私の問いにアレンは、明確に答えをはぐらかした。
「……ああ。まあ、そんなところだ。つまらないものだよ。それより霊獣『麒麟』との対面の場面だが……」
彼の声に一瞬だけ、戸惑いの色がよぎったのを私の耳は聞き逃さなかった。
その時、私の心にほんの小さな、棘のようなものが刺さったのを感じた。
けれど、すぐに始まるスリリングな物語の続きに、その小さな棘は意識の奥底へと押しやられてしまった。
私はまだ知らなかった。
その心地よい音の正体が、このささやかな幸せを根底から覆す、残酷な真実の響きであったということを――。




