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盲目令嬢と夜の語り部  作者: 万年亀


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砂漠の物語

アレンの語りが、静まり返った部屋の闇にそっと流れ込み始める。


それは、まるで熟練の音楽家が楽器を爪弾くようにして、最初の音を空間に解き放つ瞬間に似ていた。


「これは私がまだ、魔術師の卵をようやく卒業したばかりの頃の冒険譚だ。南方に広がるシャマル大砂漠での話……。人々は、そこを『神に見捨てられた土地』と呼ぶ。灼熱の太陽が容赦なく全てを焼き尽くし、夜には骨まで凍える寒気が支配する生者の立ち入ることを拒む場所」


彼の声は決して大きくはない。

けれど不思議なほどによく通り、私の耳の奥、そして心の最も深い場所までまっすぐに届いてくる。


「だが、その砂漠のどこかに古代の太陽の民が築いたとされる『アムン・ラーの神殿』が眠っているという伝説があった。そしてその最奥には、いかなる幻惑の魔法をも打ち破り、真実の道だけを指し示すという魔導具『陽光の羅針盤』が祀られている、とね」


彼の言葉はまるで上質な絵筆のように、私の閉ざされた世界に鮮やかな幻を描き出していく。


私の瞼の裏には、どこまでも続く黄金色の砂丘が広がる。

それは、かつて父の書斎で読んだ異国の地理書の挿絵で見た風景。


けれど、アレンの言葉が与える幻はただの絵ではない。


肌を焼く太陽の熱。

サラサラと、風に運ばれる砂が頬を撫でる乾いた感触。

喉の奥がカラカラに乾いて張り付くような、強烈な渇きの感覚。


それらが現実の体験であるかのように、私の五感に直接訴えかけてくる。


「なぜそんな危険な場所にわざわざ向かったのか、と君は思うかもしれないね。当時の私は若く未熟で、そして自分の力を試したくて仕方がなかった。師の下を離れ、自分の魔法がこの広大な世界でどこまで通用するのかを知りたかったんだ。だが一人ではあまりに無謀だ。私には知識はあっても、それを守るための剣も、危険を察知する野生の勘も、決定的に欠けていたからね。だから私には相棒が必要だった。最高の腕を持つ、信頼できる相棒が」


そこで彼は、ふ、と息を吸い込んだ。

次に紡がれる名前に特別な響きを持たせるための、絶妙な間。


「彼女の名はミランダ。北方の、冬しか知らないような国からやってきた、風のような女剣士だった」


ミランダ。


その名前がアレンの口から発せられた瞬間、彼の声の温度がわずかに上がったように感じられた。

誇らしさと、懐かしさと、そして触れると壊れてしまいそうなほど、大切に慈しむような響き。


「初めて彼女に出会ったのは、国境の街の埃っぽい酒場だった。私は屈強な傭兵たちに絡まれ、有り金を全て巻き上げられそうになっていた。そんな時、カウンターの隅で一人、エールを水のように飲んでいた彼女が面倒くさそうに立ち上がったんだ」


『あんたたち、そんなひょろっとした魔術師から端金巻き上げて楽しいのかい?』


「なんて言ってね。燃えるような、と形容するのが陳腐に思えるほどの鮮烈な赤い髪。挑戦的に吊り上がった翡翠色の瞳。腰に下げた使い込まれたロングソード。傭兵たちは彼女を嘲笑った」


アレンは、くつくつと楽しそうに喉を鳴らす。


「だが、次の瞬間に彼らは全員床に転がっていてね。彼女の剣は鞘から抜かれることすらなかった。ただ、鞘に収まったままの剣のその一撃が、屈強な男たちを赤子のように打ち倒してしまったんだ。あまりの速さに、私には何が起きたのか全く理解できなかったよ」


その時の光景を、ありありと思い出しているのだろう。

私の心にも、その酒場の光景が浮かび上がる。


むせ返るような汗と酒の匂い、荒々しい男たちの笑い声、そしてその全てを睥睨する一人の女剣士の、凛とした立ち姿。


「私は彼女に礼を言い、有り金の半分を渡そうとした。すると彼女は、私の金貨をひったくるように受け取ると、こう言ったんだ」


『足りないねえ。あんた、これからどうせまた同じようにカモにされるだろうよ。あたしがあんたの剣になってやる。その代わり冒険で得た宝はきっちり折半だ。どうだい、このあたしの剣とあんたのその小賢しい魔法。案外いい組み合わせになるんじゃないか?』


「それが、私とミランダの、長い旅の始まりだった」


そしてアレンの物語は、再び灼熱の砂漠へと戻っていく。


アレンとミランダの二人旅。

昼は地獄のような暑さとの戦い。

ミランダは汗だくになりながらも悪態をつき、冗談を飛ばす。

弱音を吐いても諦めずに進むのだ。


『あづい……。ねえ、アレン。あんたの魔法でこの暑さをどうにかできないのかい? 氷の塊でも太陽の代わりにひとつ出してくれたら、あたしはあんたを生涯の友と呼んで抱きしめてやるよ……まず氷を抱きしめてからだけど』


『それは嬉しいが、流石にこの暑さでは氷も長く持たないしなあ……。魔力はもっと有意義に使うべきだよ。それに、君はただの友人以上の存在だろう?』


『へえ、言うじゃないか。このひよっこ魔術師が』


そんな軽口を叩き合う二人の声が、私の耳にすぐそばで聞こえるかのようだ。


夜は寒さとの戦い。

アレンが魔法で熾した小さな焚き火を囲み、二人は身を寄せ合う。


彼が満天の星空の美しさをミランダに語る。


あれが、勇者の星。

あちらが、竜の星座。


ミランダは、そんなロマンチックな話には興味がないという素振りを見せながらも、黙ってアレンの声に耳を傾けている。


パチ、パチ、と薪が爆ぜる音。


冷たい風が砂丘の上を吹き抜けていく、ヒュウ、という寂しげな音。

それらの音が、私の部屋の窓を揺らす風の音と不思議に重なり合う。


砂漠の魔物との遭遇。

巨大な鋏を持つ蠍の化け物「サンドクローラー」。


砂の中から、音もなく現れるその不気味さ。

ザザザザザ!と砂を掻き分け、突進してくる音。


それに対し、ミランダは臆することなく剣を構える。


『出たね、お化け蟹! 今夜のご馳走はあんたの尻尾のローストに決定だ!』


『いや蠍は蟹ではないのだが。聞いてる?』


そんな軽口を言い合いながらも彼女の剣が風を切り、硬い甲殻を叩く。

ガキン!という鋭い衝撃音。


アレンが呪文を詠唱し、水の槍を放つ。


シュゴォォォ!と空気を切り裂き、魔物の弱点である関節に突き刺さる。


二人の、息の合った連携。

それはまるで、複雑な舞踏を見ているかのようだ。

苦しい戦いの末、魔物を仕留めた時のミランダの荒い呼吸と、アレンの安堵のため息。

その全てが私の心を強く、強く揺さぶる。


物語は、クライマックスへと向かう。


ある日、彼らは地平線の彼方まで続く、巨大な砂嵐に遭遇する。

ゴゴゴゴゴ……、と地鳴りのような音を立てて迫りくる、砂の壁。


アレンが咄嗟に防御結界を展開し、二人はその中で嵐が過ぎ去るのを身を屈めて耐える。


何時間も続いた嵐がようやく静まった時、目の前の光景は一変していた。

風が分厚い砂の層を削り取り、それまで砂丘の下に眠っていた巨大な石造りの神殿が砂の下からその威容を現していたのだ。


『……伝説の、アムン・ラーの神殿。間違いない』


アレンの畏怖と興奮に震える声。

二人は神殿の中へと足を踏み入れる。


ひんやりとした石の感触。

外の灼熱が嘘のような静謐な空気。


自分たちの足音だけが高い天井にコーン、コーン、と反響する。

壁には古代の民の歴史を物語る壮大な壁画が刻まれている。

アレンがその古代文字を解読してミランダに語って聞かせた。


だが神殿はただの遺跡ではなかった。

侵入者を拒む、数々の巧妙な罠が彼らを待ち受けていたのだ。


突然、床が抜け落ちる。

壁から毒の塗られた矢がシュッと音を立てて無数に放たれる。


ミランダの獣のような勘と、超人的な反射神経が何度もアレンの命を救う。

アレンの博識な知識が古代の謎を解き明かし、進むべき正しい道を示す。

二人は互いの長所で、互いの短所を補い合いながら神殿の最奥へと進んでいく。


「……そして私たちは、ついに最奥の間にたどり着いた。そこには、巨大な石の台座があり、その上に『陽光の羅針盤』が静かな光を放ちながら、鎮座していた」


アレンの声がわずかに低くなる。

物語が佳境に入ったことを私は悟る。


「だが、それを手に入れるのは容易ではなかった。羅針盤を守っていたのは一体の巨大なゴーレム。全身が神殿の石材と同じ、魔法を弾く特殊な黒曜石でできた石の巨人だ。ミランダの剣でもその硬い体には傷一つ付けることができない。私の魔法もほとんどが弾き返されてしまう。絶体絶命だった。その時……」


ふと、彼の言葉が途切れた。


「……すまない。少し、昔を思い出しすぎたようだ」


その声には先ほどまでの熱とは違う、寂寥の色が濃く滲んでいた。

カシャ、と鳴る音が彼の心の揺らぎを表しているかのようで、私は何となくそれ以上何も聞くことができなかった。


きっと、この続きには彼の、そしてミランダの何かとても大切な思い出が眠っているのだろう。


「今夜はここまでにしよう。また明日、この続きを語りに来てもいいだろうか」


「……ええ」


私はほとんど無意識のうちに、力強く頷いていた。

闇の中に一人取り残される恐怖よりも、この物語の続きが聞けないことの方が、今は遥かに恐ろしい。


コツ、と彼が椅子から立ち上がる気配。

そして窓へと向かい、静かに外へ出ていく。


風の音が遠ざかっていく。

カシャ、カシャ、というあの音も風に紛れて次第に聞こえなくなった。


彼の去った部屋には再び静寂が戻る。

しかし、その静寂は昨夜までのものとは全く違って感じられた。


アレンが残していった物語の余韻が、冷え切っていた部屋の空気をほんの少しだけ、温めてくれているような気がする。


私の心は、まだシャマル大砂漠を彷徨っていた。

ミランダの快活な笑い声が耳の奥で響いている。


私は久しぶりに穏やかな気持ちでシーツに身を沈めた。


明日が来るのがほんの少しだけ、待ち遠しい。

あの物語の続きが早く聞きたい。

そう思うと胸の奥に小さな温かい灯火が、ぽっと灯ったような気がした――。



◆◆◆◆



翌朝、アネットが朝食を運んできた時、私は彼女が部屋に入ってくる足音で目を覚ました。


「おはようございます、お嬢様」


いつもと変わらない彼女の挨拶。

けれど、その声に応える私の声は昨日までとは少しだけ違っていた。


「ええ、おはようアネット。……なんだか、とてもお腹が空いたわ」


私のその言葉に、アネットが息を呑む気配がした。

盆を持つ彼女の手が、驚きにわずかに震えているのが不思議と伝わってくる。

やがて彼女は、心の底から嬉しそうな弾むような声で言った。


「はい! すぐに……ご用意をいたします!」


その日、私が口にした温かい野菜スープと焼き立てのパンは、この半年間で一番美味しく感じられた。


パンの香ばしい小麦の香りを嗅ぎながら、私はアレンが語っていた、砂漠で食べたという石のように硬い干しパンの味を想像していた――。

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