絶望の日々と侵入者
その日から私の時間は止まった。
世界は音と、匂いと、肌を撫でる空気の流れだけで構成されるものへと完全に変容した。
それは緩慢な絶望そのものだ。
太陽の光は頬に感じる温かさでしかなく、月の光は夜風の冷たさでしかその存在を知ることができない。
かつて愛した、庭園に咲き誇る薔薇の美しさは指先に触れる花弁の柔らかな感触と、その甘い香りに置き換えられた。
けれど、それは本物の薔薇ではない。
私の心が求める燃えるような赤や、清らかな白、気品に満ちた紫といった色彩を欠いた不完全な抜け殻にすぎない。
一日中、私は自室の寝台の上か窓辺の肘掛け椅子に座って過ごす。
アネットが私の身の回りの世話の全てを行った。
彼女の足音と衣擦れの音、そして私を案じるあまり、絶えず発せられる小さな吐息。
それが私の世界の唯一の道標となった。
「お嬢様、朝食のお時間です。今朝は焼き立てのパンと、温かいミルクのスープをご用意いたしました」
毎朝聞こえるアネットの過剰に明るい声が、闇に沈む私の意識を無理やり引き上げる。
彼女が私の手を取り、食卓の椅子へと導く。
指先に触れる、滑らかなテーブルクロスの感触。
硬質な椅子の背もたれ。
カチャリ、と銀食器が皿に当たる澄んだ音が響く。
温かな湯気の向こうから小麦の香ばしい匂いとミルクの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
アネットの持つスプーンがスープをすくい、私の口に運んでいく。
目が見えないのだから、今の私は食器を持ってスープを飲むことすらままならない。
かつては黄金色の焼き色がついたパンと、純白のスープに浮かぶパセリの鮮やかな緑を楽しんだもの。
今はただ、スプーンが皿の底を掻く音と、口内に広がる熱と味覚だけが食事という行為の全てにすぎない。
「……もう、いいわ」
スープを半分も飲まないうちに、私はスプーンを置くように促す。
アネットが悲しげに息を呑む音が聞こえる。
「ですが、お嬢様。少しでも、お体を……」
「いらないと言っているの!」
苛立ちが自分でも抑えきれない。
私のこの無力さを、これ以上突きつけないでほしい。
一人で食事をすることすらままならない、この惨めな自分を直視させないでほしい。
驚いたアネットの手からスプーンが滑り落ちる。
カラン、と床に落ちる甲高い金属音。
その音が私の荒んだ心をさらに深く抉っていく。
私は彼女に謝ることもできず、ただ唇を固く結ぶだけだった。
食事の後は着替え。
アネットが選んだドレスをまるで人形のように、ただ着せられる。
今日は、どんな色の、どんなデザインのドレスなのだろう。
シルクの滑らかな肌触りか、あるいはベルベットの深い光沢を持つものか。
それを知る術はなく、ただ布地が肌を滑る感触だけがそこにある。
かつては鏡の前で、どのドレスが自分に似合うか、どの髪飾りが今日の気分に合うかと時間をかけて悩んだものだ。
その楽しみも光と共に永遠に奪い去られた。
昼間は父が部屋を訪れることがある。
父は、私のために吟遊詩人を雇ったり、高名な音楽家を招いたりした。
竪琴の物悲しい音色、フルートの軽やかな旋律。
それらは確かに美しい。
けれど美しい音を聞けば聞くほど、私の心は失われた世界の美しさを思い出し、より一層深い孤独の淵へと沈んでいくのだった。
父の努力は、私の絶望の前ではあまりに無力だった。
彼の足音が部屋から遠ざかっていく時、私はいつも父が深い溜息をつくのを聞いていた。
その溜息が、私の胸を重く、重く圧し潰す。
日が暮れて、夜が訪れる。
光のある世界に生きる人々にとっては、それは休息の時間なのだろう。
けれど、私にとっては昼と夜の区別などほとんど意味をなさない。
昼の闇が、夜の闇に変わるだけ。
ただ、夜は屋敷の中の生活音が消え、より深い静寂が訪れる分、孤独の輪郭がより一層はっきりと浮かび上がる時間。
しん、と静まり返った部屋の中で。
私はただ、シーツの冷たい感触を指先で確かめながら終わりの見えない闇を耐える。
遠くで、屋敷の大時計が厳かに時を告げる。
ボーン、ボーン……。
その響きが、私の無為な時間がまた一つ刻まれたことを冷酷に告げる。
以前は嫌なことがあった時『もう何も見たくない』と願ったこともあった。
けれど本当に何も見えなくなるとは、何という皮肉だろうか。
涙は、とうの昔に枯れ果ててしまった、そう思っていた。
けれど、夜の静寂の中では時折、私の意思とは関係なく熱いものが頬を伝い落ちることがあった。
そんな夜が、幾度も幾度も繰り返されたある日のこと。
その夜は、特に風が強いようだった。
ゴウ、ゴウ、と窓ガラスが唸りを上げ、遠くの木々が大きくざわめく音が聞こえる。
屋敷の古い建材が風圧に耐えるようにミシリと軋む。
眠りは浅く、意識は闇の中を宛てもなく漂い続けていた。
その時、不意に私の聴覚が、ひとつの小さな不協和音を捉えた。
キィ……。
それは、私の部屋のバルコニーに面した大きな窓が開く音。
古い蝶番が錆びた喉で、か細い悲鳴を上げたような音。
アネットはいつも、就寝前には必ず内側から鍵をかけていくはず。
今日に限って閉め忘れたのだろうか。
風のせいか?
いや、違う。
この音は、もっと作為的な意図を持った響きだ。
まるで熟練した手つきで、ゆっくりと音を立てないように開かれたような。
全身の血が、サァッと引いていくのを感じる。
息を殺し、耳を澄ます。
風の唸りの合間に、トン、と軽い音がした。
誰かがバルコニーの石の床から、室内の分厚い絨毯の上へと足を踏み入れた気配。
――侵入者。
その事実に、心臓がドクン、ドクンと大きく不規則に脈打つ。
喉がカラカラに乾いて張り付き、声が出ない。
シーツを握りしめる指先が、自分の意思とは関係なく震える。
侵入者は私に気づいているのだろうか。
いや、私が寝台で横になっていることには気づいているに違いない。
窓から入った何者かはゆっくりと慎重に、こちらへ近づいてきているらしい。
絨毯が音を吸収しているため、足音はほとんどしない。
まるで、床の上を滑るかのようだ。
ただ、その者が動くたびに微かにカシャ、カシャ、と何かが擦れ合うような乾いた音が聞こえる。
それはまるで、小さな貝殻をたくさん繋いだ首飾りが揺れる音のようにも、あるいは軽い金属片が互いに触れ合う音のようにも聞こえた。
恐怖が頂点に達した、その時。
「……怖がらせてしまったかな。申し訳ない」
その声は、私のあらゆる予想を根底から裏切るものだった。
低く穏やかで、深く、そして不思議な温かみを持つ響き。
少なくとも凶悪な盗賊や、暗殺者が発する声とは到底思えない。
その声に含まれる落ち着き払った響きは、私の恐怖を一瞬にして戸惑いへと変えてしまった。
「……だれ?」
かろうじて喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れて震えていた。
「私の名はアレン。しがない……旅の魔術師だ」
アレン、と彼は名乗った。
その声には、まるで長年使い込まれたチェロの音色のように、人を安心させる不思議な力を感じる。
それでも、私の警戒心はすぐには解けない。
「どうして、ここに……。ここは二階よ。何が目的なの」
「目的、か。大それたものではないよ。ただ、君の噂を旅の途中で耳にしてね。夜ごとに深い悲しみに沈んでいる姫君がいる、と。少し話し相手にでもなれれば、と思っただけのことだ」
彼の言葉はあまりに突拍子もなく、現実味がない。
しがない旅の魔術師が、どうやって厳重に警備された伯爵家の二階の部屋に音もなく忍び込めるというのか。
けれど、その声の調子には嘘や偽りの響きが全く感じられない。
彼は、私が寝台の上に身を起こしたことに気づいたのか、カシャ、と再び小さな音を立てて少し距離を取ったようだった。
その配慮が、私の警戒心をほんの少しだけ和らげる。
「君が望まないのなら、すぐに立ち去ろう。ただ、今宵の月があまりにも美しかったものでね。この美しい月夜に、悲しんでいる者がいるのはどうにも見過ごせなくて」
月。
その言葉に、胸の奥がチクリと鋭く痛む。
私にはもう、月を見ることはできない。
この部屋のバルコニーから見えるはずの庭園の木々を銀色に照らし、噴水の水面にきらきらと光の破片を散らす、あの満月の姿を思い浮かべようとして……けれど瞼の裏にはどこまでも深い闇が広がるだけ。
「……好きになさい。どうせ私には関係のないことだわ。盗むものなど、ここには何もない。財産の類は全て父が管理する金庫の中よ」
投げやりな私の言葉に、彼はくすり、と小さく笑ったようだ。
その笑い声もまた、耳に心地よく響く。
「何も盗みはしないさ。代わりに、ひとつ物語を置いていこう。君の退屈な夜の、ほんの少しの慰めになるかもしれない」
そう言って彼は近くにあった椅子を引き、腰を下ろしたようだった。
ギィ、と古びた木が軋む音。
そしてカシャ、カシャ、というあの不思議な音が、彼の動きに合わせて微かに、まるで子守唄のリズムのように揺れているのが聞こえる。
私は、何も答えなかった。
肯定も、否定も。
ただ、その不思議な侵入者が次に何をするのか、固唾をのんで闇の中で待ち続けていた――。




