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盲目令嬢と夜の語り部  作者: 万年亀


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再会と新たな旅立ち

そこは道だった。


始まりも終わりも定かではない、ただどこまでも続く一本の道。

左右には何もなく、上も下もただ灰色がかった霧のようなものに満たされている。

音もなく、匂いもなく、風さえも吹いてはいない。


完全なる無。

死とはこういうものなのかもしれない。


その無限に続く灰色の道を、一体の骸骨が歩いていた。


カシャ、カシャ。


足の骨が地面らしきものを踏みしめるたびに乾いた音が響く。

その音だけが、この虚無の空間に存在している。

かつて魔術師と呼ばれ、愛に生き、憎しみに囚われ、そして最後に許された男アレンの成れの果て。


彼は歩きながら、ぼんやりと現世に残してきた少女のことを考えていた。


エリアーナ。


光を失い、絶望の淵にいたあの子。

自分がこの世に留まるための魔力のすべてを代償にして彼女にかけた、生涯最後にして最高の魔法のこと。


あの時、彼女の閉ざされた瞼の裏で確かに光が生まれた瞬間を彼は鮮烈に覚えている。


物理的な視覚情報の回復だけではない。

彼女の魂そのものが再び世界を受け入れる準備を整え、内側から輝き出したあの感覚。

その確かな手応えだけが、もはや心臓の鼓動を持たない彼の空虚な胸郭の奥に、残り火のような温かい記憶として宿っていた。


彼女は再び世界をその目で見ることができるだろう。

風に揺れる木々の緑を、空を染める夕日の赤を、そして愛する人々の笑顔を。


父君とも和解できるに違いない。

あの厳格だが不器用な父親は、娘の目を見て涙を流して謝罪するだろう。


そしていつか、彼女は誰かと恋に落ち、幸せな家庭を築くのかもしれない。

自分たちが叶えられなかった「日常」という名のささやかな幸福を、あの子ならきっと手に入れられる。


それでいい。

それが良かった。

長すぎた憎しみの連鎖を終わらせてくれた、あの聡明で優しい少女へのせめてもの償いになったのなら、我が身が塵となって消えることなど安い対価だった。


カシャ、カシャ。


骨の音が一定のリズムで虚空に吸い込まれていく。


彼はもう何も悔いてはいない。


妄執に近い激情で魂を現世に縛り付けていた鎖は、ブローチの裏の言葉を読み上げたあの瞬間に跡形もなく溶けて消え失せた。

今の彼はただ死者としての理に従い、この定められた道を彼方へと歩いているだけにすぎない。


その先に何があるのかはわからなかった。

完全な消滅が待っているのか、あるいは別の何かに形を変えるのか。


それすらもどうでも良かった。

ただ一つ、未練がましい心残りがあるとすれば。


――ミランダ。


彼女の魂は今どこにあるのだろう。

自分が復讐心という泥沼に足を取られて立ち止まっている間に、彼女はこの道をずっと先へと歩いて行ってしまったのだろうか。

それとも罪深き自分とは違う、もっと光に満ちた別の場所にいるのだろうか。


もう一度会いたい。

会って一言謝りたい。

君の本当の心を知ろうともせず、勝手な思い込みで長い間憎んでしまっていた愚かな自分を罵ってほしい。


そして伝えたい。

私もまた、君を愛していたのだと。

最期の一瞬まで、いや死してなお、君への愛だけが私の魂の核であったのだと。


そんな叶わぬであろう願いを胸に抱きながら、アレンはただ無心に足を動かし続けた。


どれほどの時間が経過したのだろう。

ここでは時間の感覚すら曖昧で、一秒が永遠のようにも感じられれば、百年が一瞬のまばたき程度のようにも思える。


疲労はない。

痛みもない。

ただ乾いた骨が擦れ合う微かな振動だけが、彼がまだ「個」としての形を保っていることを教えてくれていた。


不意に。

彼の空っぽの眼窩が前方の霧の中に何かを捉えた。


灰色一色の世界にぽつんと浮かぶ色彩。


最初は目の錯覚かと思った。

この無の世界に自分以外の存在がいるなどありえるはずがない。

自身の願望が見せている哀れな幻影に違いない。

けれどその人影は霧のように散ることなく、歩みを進めるごとにその輪郭を明確にしていく。


アレンは無意識のうちに歩みを速めていた。

カシャカシャカシャと骨の音がリズムを刻む。


近づくにつれて、その人影の詳細が明らかになる。


すらりとした長身。

腰に手を当てて道を塞ぐように立つ、堂々たる仁王立ち。

そして何よりも彼の目を奪ったのは、その頭上で燃え盛る炎のように揺れる、鮮烈な赤。


「……ミら……んだ……?」


魔力を使い切って、もはや声を出す魔法も使えず、声帯を持たない喉から漏れた風の音が、顎の骨をカタと震わせた。


嘘だ。

ありえない。

彼女がなぜこんな場所にいる。

私を待っているとでもいうのか。

あんなにも長い間、復讐者として彼女の血族を呪おうとしていたこの私を。

そんな都合のいい奇跡があっていいはずがない。


けれどその姿は残酷なほどに鮮明だった。

若かりし頃の最も快活で、最も美しく、そして誰よりも強かったあの頃のミランダそのもの。


腰に無造作に差した使い込まれたロングソードの鞘。

冒険の日々で培われたしなやかな筋肉を包む、少し日に焼けた健康的な肌。

そして挑戦的にこちらを睨みつけている、あの懐かしい翡翠色の瞳。


アレンは全てを忘れた。

自分が醜い骸骨であることも、ここが死後の世界であることも、時間の経過も、罪の意識さえも。


彼は走っていた。

記憶にある限りの全速力で。

繋ぎ合わせただけの骨の体をミシミシと軋ませ、今にもバラバラになりそうな衝撃を無視して、ただ一心不乱に彼女の元へ。


あと数歩。

手を伸ばせば届く距離。

彼女の身体から発せられる、懐かしい汗と土と太陽の匂いが鼻腔のない顔に蘇るような気さえした。


ミランダ!

そう叫ぼうとして顎の骨を大きく開いた、その直前だった。


バキィッ!!


「ぐほぉっ!?」


凄まじい衝撃が顔面を襲った。

視界が激しく回転し、アレンの骸骨の頭部が物理的に真横へと吹き飛ばされそうになる。

何が起きたのか理解する間もなく彼は数歩よろめき、カシャンと無様にその場に膝をついた。


殴られたのだ。

ミランダの渾身の右ストレートで。


「……どこをほっつき歩いていたんだい! この大馬鹿者が!」


ミランダの雷鳴のような怒声が、静寂に満ちた無の世界にビリビリと響き渡った。

それはアレンが幾度となく冒険の途中で聞いてきた、鼓膜が破れそうになるほど元気で、そして何よりも懐かしい彼女の怒鳴り声。


アレンは殴られた頬骨のあたりを骨の指でさすりながら、呆然と彼女を見上げた。

カコン、と衝撃で少しずれた顎の骨が間の抜けた音を立てる。


「……いや、しかし……。百年以上……?ぶりの再会で、会うなり殴るというのはどうなんだ……」


「うるさい! あたしがどれだけ待ったと思ってるんだ!」


彼女は腰に手を当てたまま、アレンを見下ろしてまくし立てる。


「弱っちいあんたのことだから、どうせあたしより先にくたばってるかもと思ってたんだ。だからここの門番みたいな無愛想な奴に聞いても、『そんなひょろっとした魔術師は来てない』なんて言われるし! じゃあ思ったより長生きしてんのかと思って門の一番見晴らしのいい場所で座り込んで待っても、あんたは一向に来やしない!」


彼女の肩が怒りで上下している。

だが翡翠色の瞳の奥に怒りだけではない、安堵と悲しみが混ざり合っているのをアレンは見逃さなかった。


「もしかしたらあたしより先に川を渡っちまったのかと思って、あの有名な三途の川だか忘却の川だかとやらまで行って、渡し守のジジイを剣で脅しても知らないって言われるし! 川からあんたが流れてくるかもと思って釣りまでしたんだぞ! それなのにあんたの間抜けな魂は一向に引っかかりやしない! 一体どこで何をしていたんだい! さっさと白状しな、このバカ!」


「いや、何してんだ君」


そのあまりに乱暴で、理不尽で、そしてどうしようもなく彼女らしい歓迎の言葉に。

アレンは思わずカカカ、と乾いた笑い声を漏らした。


そうだ。

これだ。

これが俺の愛した太陽。

誰も制御することのできない、愛すべき嵐のような女剣士。


「……すまない。少しばかり道草を食っていた」


彼がそう言って苦笑すると、ミランダはふん、と鼻を鳴らした。

けれどその口元はわずかに緩んでいる。


彼女はその場にしゃがみ込むと、膝をついたままのアレンと視線の高さを合わせた。

そしてその温かく力強い手をアレンの骨だけの右手に重ねた。


「……まあいいさ。無事に着いたんだから、それでよしとしてやる。さあ立ちな、アレン。いつまでもそんな気味の悪い格好でいるんじゃないよ」


彼女の温かい手のひらが、アレンの冷たく乾いた指の骨を包み込む。


その瞬間。

この世界における最後の奇跡が起きた。


アレンの全身がまばゆい光に包まれる。

骨と骨の隙間から純白の光が溢れ出し、そこからまるで無から有が生まれるように、彼の失われたはずの肉体が急速に再構築されていく。


光の糸が絡み合い、強靭な筋肉となり、温かい血液が通う血管が走り、そして滑らかな皮膚がその全てを覆っていく。

風化してボロボロだった衣服は、かつて彼が愛用していた清潔なローブへと変わり、黄ばんだ頭蓋骨には黒曜石のように艶やかな黒髪が風もないのにふわりとなびく。

空っぽだった眼窩に、深い森の湖のような理知的な瞳が再び宿る。


ほんの数秒の出来事。

光が収まった時、そこに立っていたのは薄汚れた骸骨ではない。

若かりし頃の、精悍で自信に満ちた魔術師アレンその人だった。


彼は自分の手を目の前にかざした。


骨ではない。

血の通った、温かい肌色の手。

握りしめると確かな弾力と力がみなぎるのを感じる。


彼はゆっくりと顔を上げ、目の前のミランダを改めて見つめた。

彼女は少し驚いたように目を見開いていたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべた。

その瞳が、喜びできらきらと潤んでいる。


「……その方が、ずっとあんたらしいよ」


「……ああ」


「あと……黙っていなくなって悪かった。そこはあたしが全面的に悪いね。お前、どうせあたしを探していたんだろう?」


「……なんてこと、ないさ」


アレンは喉の奥が熱くなり、それ以上の言葉が出なかった。

ミランダが彼の手をぐいと引き、立ち上がらせる。


その手の温もり、引かれる力の強さ。

すべてが懐かしく、すべてが愛おしい。


「さあ、いくぞアレン」


彼女はニヤリと笑い、道の先を顎でしゃくった。


「どこに?」


アレンが問い返すと、ミランダは心底楽しそうに声を立てて笑った。


「決まってるだろう。冒険だよ。あんたが来るのを待っている間、暇で暇で仕方がなかったからね。この『あの世』とやらを軽く偵察して回ったんだ。そしたらどうも、面白そうな場所がいっぱいあるようじゃないか」


彼女は悪戯っ子のような顔つきで指を折り数え上げる。


「『嘆きの沼』には巨大な魂喰いっていう、とんでもなく硬い甲羅を持つ魔物がいるらしい。久々の腕試しにはもってこいだろ? それに『天上の果樹園』とかいう場所には一口飲めば憂いが晴れる『神の酒』があるそうだ。こいつをくすねて一杯やるのも悪くない。地獄の釜とやらで卵を茹でるのも乙なものじゃないか?」


そのあまりに奔放で、神をも恐れぬ彼女らしい冒険プランに、アレンは思わず吹き出してしまった。


そして腹を抱えて笑った。

彼が彼女を失ってから百年以上、初めて心の底から笑った瞬間だった。


「ああ、それは楽しみだな……。本当に、楽しみだ」


並び立つミランダの美しい横顔を見つめながら、アレンは静かに言った。

ずっと言えなかった、そして今こそ言うべき言葉を。


「……随分待たせてしまったな。すまない」


アレンの謝罪に、ミランダは道の先から視線を外さないまま答える。


「本当だぞ。あんたが来るのが遅すぎたせいで、あたしの人生設計はめちゃくちゃだ。一人でさっさと行くわけにもいかず、ずっと足踏みさせられたんだからね。だから覚悟しな。あたしたちが離れ離れになっていたあの時間以上に、これからはみっちりと付き合わせるからね」


少しだけ拗ねたような甘い言葉。

永遠の時間を共に過ごすという彼女なりの最高の愛の告白。


その言葉にアレンは目を細め、微笑んだ。


「そうか。それは……長い旅になりそうだな」


彼はミランダの手を強く握り返した。

彼女もまた、痛いくらいに力強く握り返してくる。


二人はもう何も言わなかった。


言葉など必要ない。

ただ並んで歩き出す。


道の先、灰色の霧がサーッと晴れていく。

その向こうから黄金色とも虹色ともつかない、未知の温かい光が差し込んできた。


どこからともなく、新しい風が吹き始める。

それは二人の新たな旅立ちを祝福するように頬を優しく撫でていった。


その光の中へと二人の冒険者は手を繋いで旅立っていく。

これから始まる、終わりのない永遠の冒険へと。


その堂々たる後ろ姿がやがて光の中にゆっくりと溶けて見えなくなるまで、そこにはただ満たされた静かな幸福だけが残されていた――。

これにて完結です。

お読みいただきありがとうございました。

評価と感想もお願いいたします。


また、拙作『グルメ猫ファンタジー』も現在連載中です。

こちらはシリアスもやりつつギャグや日常に寄った作品ですが、こちらもお楽しみください。

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