追手と大魔法
――時は少し戻り。
エリア―ナが教会への道を歩いていた時のこと。
屋敷の裏手、勝手口付近の廊下は、夜の闇に沈殿した静寂が支配していた。
石造りの壁は冷たく、どこからともなく染み出してくる冷気が足元を這い、肌を刺す。
侍女のアネットは、重厚な木材で作られた勝手口の扉に手をかけたまま、しばし動けずにいた。
指先が微かに震えているのは、夜風の冷たさのせいだけではない。
自身の心臓の激しい音が、耳障りなほど大きく響いていた。
エリアーナお嬢様は無事に行かれただろうか。
盲目の少女を一人で、しかもこんな真夜中に外へ送り出すなど、侍女としてあるまじき行為だということは痛いほど理解していた。
もし何かあれば、自分の命をもってしても償いきれない大罪だ。
それでもアネットは、あの方の願いを拒むことなどできなかった。
光を失って以来、人形のように心を閉ざしていたお嬢様が、これほどまでに熱烈に、そして生き生きとした意志を宿して何かを願ったのは久しぶりのことだったのだから。
「……どうか、ご無事で」
祈るような呟きと共に、アネットはゆっくりと扉を押し閉めようとした。
蝶番が油を求めて小さく軋む。
カチャリ、と閂を戻そうとした、その時だった。
「――アネットか?」
背後の闇から不意に投げかけられた低い声に、アネットの心臓は一瞬その動きを止めた。
全身の血の気が引き、指先から力が抜ける。
恐る恐る振り返った先には、暗がりの奥からゆっくりと姿を現す人影があった。
夜着の上にガウンを羽織り、手には覆いのついたランプを持った屋敷の主。
ブラッドフォード伯爵その人であった。
ランプの揺らめく灯火が、伯爵の彫りの深い顔立ちを陰影深く照らし出している。
「だ、旦那様……」
アネットはその場に崩れ落ちそうになる膝を必死で叱咤し、なんとかその場に立ち尽くす。
喉が渇き、舌が張り付いてうまく言葉が出てこない。
「こんな夜更けに、何故こんなところにいる? 侍女の部屋は反対側のはずだが」
伯爵の声は決して荒げたものではない。
しかし、領主として長年多くの者たちを統率してきた彼特有の、有無を言わせぬ威圧感がある。
アネットは視線を彷徨わせる。
嘘をつかなければ。
お嬢様のために、何としても誤魔化さなければ。
けれど、この厳格な主人の前で稚拙な嘘など通じるはずもないという恐怖が思考を鈍らせる。
「そ、それは……旦那様こそ、このようなお時間に……」
問いを問いで返すのが精一杯だった。
無礼な物言いだと叱責されるのを覚悟して身を竦める。
しかし、伯爵は意外にも咎めるような様子を見せなかった。
ふ、と短く息を吐き、ランプを持っていない方の手で自身のこめかみを軽く揉む。
「……眠れなくてな。妙に胸がざわついて目が覚めてしまったのだ。屋敷の中を少し歩いて気を静めようと思ったのだが……」
伯爵の視線が、アネットの背後にある勝手口の扉へと向けられる。
そこには、アネットが閉めきれずにわずかに残してしまった数センチの隙間があり、そこから夜の冷たい風がヒュウと音を立てて吹き込んでいた。
「……勝手口が開いている? 閉め忘れたのか? それとも……」
伯爵の目が、疑念の色を帯びて細められる。
その視線はアネットの強張った表情と隠しきれない動揺を冷静に観察し始めているようだ。
「い、いいえ! ただ、戸締まりの確認を……!」
アネットが慌てて言い繕おうとした、その瞬間。
ドタドタドタドタ!
静まり返った屋敷の廊下を、乱暴に踏み鳴らす複数の足音が響き渡った。
それは屋敷の奥、エリアーナの部屋がある方向から近づいてくる。
鎧の擦れる金属音と、切迫した男たちの呼吸音。
伯爵がハッとして顔を上げた。
胸騒ぎの正体が、最悪の形で具現化しようとしているのを悟ったかのように。
「旦那様! 旦那様!」
廊下の角を曲がり、転がるようにして駆け込んできたのは警備を担当していた衛兵の一人だ。
その顔は蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。
彼は伯爵の姿を認めるとその場に膝をつき、悲鳴にも似た声を張り上げた。
「お、お嬢様がいません! お部屋の扉がわずかに開いていたので、念のため中を確認したところ、寝台は空で……もぬけの殻でした!」
その報告は、決定的な宣告となってその場の空気を凍りつかせた。
アネットはもはや立っていられず、思わずぺたりと座り込む。
終わった。
全てが露見してしまった。
「……なんだと?」
伯爵の声は地を這うような低い唸りへと変わっていた。
ランプを持つ手が微かに震え、中の炎が大きく揺らぐ。
「馬鹿な……。窓は打ち付けたはずだ。扉にはお前たちが付いていたはずだろう! どこから消えたというのだ!」
「も、申し訳ございません! 我々も全く気づかず……。ただ、侍女用の衣装箪笥が開け放たれており、衣服が一着消えております。恐らく変装して……」
衛兵の弁明など、もはや伯爵の耳には届いていなかった。
彼はゆっくりと確かな殺気を纏ってアネットの方へと向き直った。
その双眸に宿る光は、もはや冷静な領主のものではない。
愛娘を失いかけている父親の、狂気にも似た焦燥と怒りが渦巻いている。
「……アネット」
名を呼ばれただけで、アネットの体はビクリと跳ね上がった。
伯爵が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
彼の足音がアネットにとっての死刑執行のカウントダウンのように響く。
「お前だな。お前が手引きしたのか」
問いかけではない。
それは確信に満ちた声だ。
この屋敷で、エリアーナの自由にならない体を知り尽くし、衛兵の目を盗んで彼女を連れ出せる者など、長年付き従ってきたアネット以外にはあり得ない。
伯爵の手が伸び、アネットの肩を鷲掴みにした。
骨がきしむほどの強さで揺さぶられる。
「答えろ! あの体で一人で外に出るなど自殺行為だ! お前はそれをわかっていて送り出したのか!」
「も、申し訳……申し訳ございません……っ!」
アネットは涙を流しながら、ただ謝罪の言葉を繰り返すことしかできない。
弁解など無意味だ。
伯爵の言う通り、それは狂気の沙汰だったのだから。
「謝罪などいらん! 私が聞きたいのはそんなことではない!」
伯爵の怒号が、石壁に反響してびりびりと空気を震わせる。
彼はアネットの顔を覗き込み、鬼気迫る形相で叫んだ。
「言え! エリアーナはどこだ! どこへ向かった!!」
◆◆◆◆
「ううん。私が来たいと思ったから来たのよ」
私の言葉にアレンの気配がわずかに揺れたように感じられた。
彼がもし顔を持っていたなら、きっと優しく微笑んでくれたことだろう。
「目の見えない君にここまで来させたのは悪いと思っている。だが君の部屋では準備ができそうになくてね。私が埋葬されたこの墓場、この教会しかないと思ったんだ」
彼は教会の、ひんやりとした石の壁に、そっともたれかかったようだ。
カシャ、と背骨が壁に触れる乾いた音がする。
「……君にこの姿を見られてから、ずっと考えていた。私が何故蘇ってしまったのか、と。憎しみだけが私をこの世に縛り付けているのだと、そう信じていた」
アレンが体勢を変えたのか、カシャリ、という音が空間に響く。
「だが違ったようだ。憎しみのさらに奥深くに、まだ燃え尽きることなく燻り続けていたものがあったらしい。ミランダへの断ち切ることのできない想い。そして彼女の真実を知りたいと願う渇望。それが私を醜い骸骨の姿に変えてまで、この場所に導いたのだろう」
まるで懺悔をするかのようだ。
彼の声は静かに教会の闇に響き渡る。
「君が教えてくれた。君がミランダの本当の心を私に届けてくれた。おかげで私の魂はようやく憎しみの呪縛から解放された。もうこの世に何の未練もない。……いや、一つだけ残っていたな。君への感謝と、そして償いだ」
「償い……?」
私が問い返すと、彼はゆっくりと私の方へ向き直ったようだ。
「そうだ。私は元々、君を呪うために訪れた。たとえ、その意志を翻したとはいえ、君を一度恐怖の底に突き落としたことには変わりない」
アレンは、一度言葉を切って私に告げる。
「この罪は償わなければならない。……この魔法は、今の私には大きな代償を伴う。だが構わない。これは私が魔術師アレンとして在るための、最後の魔法なのだ」
彼が何をしようとしているのかはわからない。
だが、その覚悟の末に何が起きるのか私は気づいてしまった。
「まさか、あなたは……。待って、アレン!」
「心配ない。私はもう十分に救われている。だから受けてくれ、エリアーナ。私の最後の我儘を」
彼の声は穏やかだったが、鋼のごとく頑なな意思があった。
私はもう何も言えない。
ただ彼の気高い魂の前に静かに頷くことしかできなかった。
アレンが私の手を取る。
その骨だけの冷たい手に、私はためらうことなく自分の手を委ねた。
彼は私をゆっくりと立たせると、教会の中央、祭壇のある場所まで導いてくれた。
彼が古の、私には理解できない言葉による詠唱を始めようとした、その瞬間。
バァァァァン!
背後で、教会の古びた扉が外から力任せに打ち破られる轟音が響き渡った。
「エリアーナ!」
父の声だ。
そして複数の鎧の擦れる音と、剣を抜くギラリとした金属音。
松明のパチパチと爆ぜる音と木の燃える匂いが一気になだれ込んでくる。
屋敷の者たちが私を追ってきたのだ。
「そこにいたか、化け物めが!」
「お嬢様から離れろ!」
「今度こそ聖なる炎で、その邪悪な骨を焼き尽くしてくれるわ!」
彼らの目には、この光景はこう映っているのだろう。
薄暗い古びた教会。
祭壇の前に生贄のように立たされる盲目の令嬢。
そして彼女に対し、今まさに邪悪な儀式を行おうとしている一体の骸骨。
誤解を解こうにも、もう遅い。
「来るな!」
アレンが厳しく言い放つ。
彼は私をかばうように片腕を父たちの方へ突き出した。
そして、もう一方の腕は天に掲げられ、詠唱は止まることなく続けられる。
『天よ。地よ。我らが神よ。私の祈りをお聞きください』
衛兵たちが雄叫びを上げて突進してくる。
だが、彼らが私たちの数歩手前まで来た時、キィィィン、という甲高い音と共に見えない力の壁に弾き飛ばされた。
「なっ……!」
「魔力障壁だと!」
父たちの驚愕の声。
『力無き者に慈悲を。罪無き者に救いを。悲しむ者に差し伸べる手をお与えください』
その混乱の全てを受け止めながら、アレンの詠唱はクライマックスへと達していく。
古の言葉が教会の中に荘厳に響き渡る。
『私は白き御使い。あなたの意思を代弁する者。嘆きを癒し、苦痛を和らげ、絶望に負けぬ意志を育てる祈り子なれば。貴き神よ。我が業をご照覧あれ』
それは歌のようでもあり、祈りのようにも聞こえる。
彼の声に呼応するように教会の空気がビリビリと震え始める。
『我が全てを以て、かの者を救わん』
そして温かい何かが私の体をそっと包み込んだ。
それは、まるで晴れの日の陽だまりのような心地よさ。
『奇跡をここに。救いの御手は此処に在りて』
その温かいエネルギーが私の中へと注ぎ込まれてくる。
そして私の瞼の裏が、カッと灼けるように熱くなった。
閉じられた視界の、そのさらに奥深くで。
長い間死んでいた視神経の、その奥で。
何かがプチプチと再構築されていくような奇妙な感覚。
両目に巻かれた包帯が、はらりと解けて床へ落ちていく。
「……ッ!!」
次の瞬間、私の世界は純粋な『光』で塗りつぶされた。
あまりの眩しさに私は思わず両手で顔を覆う。
指の隙間から漏れ入る光ですら鋭い針のように感じられる。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
ゆっくりと、おそるおそる震える瞼を押し上げる。
最初に目に飛び込んできたのは無数の『色』。
教会の壊れたステンドグラスを透過した月光が、床に複雑で美しい模様を描き出している。
深い海の底のような『青』。
熟した果実のような『赤』。
若葉のような『緑』。
その全てが圧倒的な色彩をもって私の網膜を焼く。
これが色。
これが光。
これが、私がかつて失った世界。
涙が視界を滲ませる。
その涙の向こうに。
私は初めて『彼』の姿を見た。
そこに立っていたのは、父たちが言う通り一体の骸骨だった。
黄ばんだ骨。
ところどころに古い土がこびりついている。
彼が着ていたマントはボロボロに朽ち果てていた。
けれど、その姿に私は何の恐怖も感じない。
ただ、その空っぽの眼窩の奥に。
優しい光が灯っているように感じられたからだ。
彼がアレン。
私の恩人。
「……ありがとう」
私の唇からその言葉が紡がれた瞬間。
アレンの体が微かに揺れた。
カタン。
彼の左手の指の骨が一本、床に落ちて乾いた音を立てた。
死者である彼が生命を司る奇跡を起こした代償。
この世に、その身を留めておくための魔力が尽きようとしている。
「……目を開けた姿が、ミランダに、よく、似ているな」
彼の顎の骨がカタカタと動き、そんな言葉を紡いだように聞こえた。
それが彼の最後の言葉。
ガラガラガラガラ……。
まるで糸の切れた操り人形のように。
彼の全身の骨がその場に崩れ落ちた。
後には静寂と、朽ちた骨の小さな山だけが残された――。




