約束の日と脱出劇
約束の一週間は、永遠のようにも一瞬のようにも感じられた。
アレンが去った後、屋敷は父が敷いた厳重な警戒態勢という名の静かな牢獄と化した。
私の部屋の扉の外には昼夜を問わず二人の衛兵が立つようになった。
窓にはさらに太い横木が打ち付けられ、もはや指一本の隙間すら見つけることはできない。
父は私を守ろうとしてくれている。
あの得体の知れない『化け物』から。
そしてその『化け物』と通じている哀れな娘と、侍女たちにまで噂されるようになってしまった悪評からも。
だが、その痛いほどの愛情が今は重い枷となっていた。
けれど私の決意は揺るがない。
アレンに会わなければならない。
丘の上の古い教会へ行かなければならない。
私は昼間、ベッドに横たわりながら頭の中で何度も脱出の計画を練り上げた。
目が見えない私が幾度となく歩きまわり、歩く訓練で詳細に把握した私だけの屋敷の地図。
それが私の頭の中に完成していた。
廊下の長さ、階段の段数、床材のきしむ場所。
衛兵が交代する時間。
そのわずか数分の空白の時間。
侍女が夜の戸締まりに、どの部屋からどの順番で回っていくか。
そして、屋敷の敷地外に出る勝手口。
その全ての情報をパズルのピースのように組み立てていく。
目が見えなくなった代わりに研ぎ澄まされた聴覚と、自身の記憶力だけが唯一の武器となる。
約束の日の前日。
アネットが夕食の盆を持って部屋を訪れた。
彼女はあの日以来、私に対してどこか、おどおどとした態度を崩さない。
その痛ましいほどの恐怖と、それでも私を案じずにはいられない優しさの狭間で彼女の心は揺れ動いている。
「……エリアーナ様」
彼女がか細い声で私の名を呼んだ。
私はゆっくりと顔を彼女の気配の方へ向けた。
「あの……あの夜のこと、本当に申し訳ございませんでした。私があんな声を上げてしまったばかりに……」
彼女の声は、涙で、震えていた。
「いいのよ、アネット。あなたは何も悪くないわ。誰があの光景を見ても同じように叫んだはずよ」
私は静かにそう答える。
そして彼女の冷えた小さな手をそっと握った。
「……お願いがあるの、アネット。明日の夜、あなたにやってほしいことがある。何も聞かずにやってくれないかしら」
アネットは私の頼みを聞いて息を呑む。
けれど彼女は何も聞き返さなかった。
ただ私の手を強く握り返してくれた。
それだけで、十分だった。
◆◆◆◆
そして約束の夜が来た。
曇り空には月も星も見えない。
闇が世界を優しく、そして完全に包み込んでいる。
脱出にはこれ以上ない夜だ。
午前二時。
屋敷の大時計が重々しく時を告げる。
衛兵の交代の時間だ。
私は音を立てないようにゆっくりと寝台から抜け出した。
足音を殺すためドレスは脱ぎ、肌着の上に動きやすい簡素な侍女の服を身につける。
それは昼間のうちに、アネットが私のためにこっそりと用意してくれたものだ。
そして目が見えなくなった私のために誂えた、歩行補助用の杖を手に取った。
部屋の扉がごくわずかに開いている。
アネットの仕業だろう。
私は廊下に音も無くするりと身を滑り込ませる。
心臓がまるで警鐘のようにドキドキと激しく脈打つ。
ここからは時間との戦いだ。
壁を伝い、床を這うようにして闇の中を進む。
衛兵の新しい交代員が持ち場に着き、ここに来る前に勝手口まで辿り着かなければならない。
記憶の中の地図を頭の中で広げる。
右へ十三歩。
そこが階段だ。
二十一段の階段を一段一段慎重に下りる。
左へ三十歩。
そこにあるはずの鎧の置物がない。
昼間に移動させられたのだろうか。
一瞬パニックに陥るが、すぐに冷静さを取り戻す。
壁の石の感触を確かめる。
大丈夫、道は合っている。
ようやく勝手口の重い木の扉に辿り着く。
閂は外されていた。
アネット……。
心の中で彼女に感謝する。
扉を数ミリずつ開いていく。
少しも音を立てさせないように。
そして私は、ついに自由な夜の空気の中にその身を解き放った。
私は屋敷からの脱出に成功したのだ。
けれど本当の試練はここからだった。
丘の上の古い教会。
目が見えていた頃に行ったことはある。
けれど、闇の中を一人で辿り着くのはほとんど絶望的な行為に近かった。
杖の先から伝わる地面の感触だけが頼りだ。
硬い石畳の道。
柔らかな土の小道。
滑りやすい苔の感触。
そのわずかな違いを感じ取りながら、私は一歩、また一歩と歩を進めた。
顔にひやりとした糸のようなものが触れる。
蜘蛛の巣だ。
思わず短い悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえる。
丘の斜面は想像以上に険しいものだった。
舗装されていない地面に足を取られ、私は何度もつまずき、転んだ。
そのたびに服は泥に汚れ、手のひらや膝を擦りむく。
ジクジクとした痛みが全身に走る。
息が切れる。
疲れと焦燥で息が荒くなる。
もう一歩も歩けない。
諦めたい、という弱音が心の隙間から顔を出す。
その時、私の鼻腔をふと、ある香りがかすめた。
夜風に乗って運ばれてきた、甘く懐かしい香り。
ナイトジャスミンだ。
あの教会の古い石垣に、毎年たくさんの花を咲かせていた。
近い。
あともう少しだ。
私は最後の力を振り絞り、震える脚を叱咤した。
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に私の杖の先が、硬い平らな何かに当たった。
何度も杖を当てて感触を確かめる。
石段。
教会の入り口に続く、古い石の階段。
私は安堵のため息をつきながら石の階段を踏みしめた。
巨大な両開きの扉は固く閉ざされている。
けれど力を込めて引くと、ギィィィィ……と長い悲鳴のような軋みを上げて、ゆっくりとその口を開いた。
教会の中は外よりもさらに冷たく空気が淀んでいるようだ。
カビと古い木材と埃の匂いが混じり合って鼻をつく。
自分の荒い呼吸の音と心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。
しん、と静まり返った闇。
本当に彼はここにいるのだろうか。
不安が再び胸をよぎった、その時。
カシャ……。
教会の奥深くにある祭壇から、あの微かな、しかし聞き間違えるはずのない音が聞こえた。
彼はいた。
待っていてくれた。
その事実に、見えない私の目から熱いものが込み上げてくる。
私は音のする方へ、泥だらけの足を引きずりながら、ゆっくりと歩みを進めた。
「……アレン」
「……ああ」
彼の声はすぐ近くから聞こえる。
もはや後悔も嘆きもなくなったのか、声は穏やかで優しく澄み切っていた。
彼は今、私の前に静かに立っている。
「よく来てくれた、エリアーナ。酷い格好だ。……すまない。私の最後の我儘に付き合わせてしまって」
彼は私の泥だらけだろう服も、擦りむいた傷も全て見えているのだろう。
その温かい声に、私の張り詰めていた全ての緊張の糸がぷつり、と切れそうになる。
私はその場に座り込んでしまいそうになるのを辛うじて堪え、彼に精一杯の笑顔を向けたつもりで答えた。
「ううん。私が来たいと思ったから来たのよ」




