ひとつの約束
私の必死の叫びは、窓の外の深い闇に吸い込まれていった。
去りかけていたアレンの気配がぴたり、と止まる。
バルコニーの石の上に彼の骨の足がコツ、と硬い音を立てて踏みとどまったのが私にはわかった。
長く、息が詰まるほどの沈黙。
風の音だけが、まるで誰かの嗚咽のように私と彼の間に横たわっていた。
「……何を、言っている」
やがて聞こえてきた彼の声はひどく掠れていた。
信じられない、という戸惑い。
信じたい、という思い。
そして、そんなありえない希望に縋りたくないという頑なな拒絶。
その複雑な感情が彼の中でせめぎ合っているのだろう。
「本当のことよ、アレン! ミランダ様はあなたを裏切ったのではなかった! 彼女は……彼女の家は破産して多額の借金を背負わされたの。そして、その借金の肩代わりに身売り同然で、このブラッドフォード家に嫁ぐしかなかった! 彼女は望んで、あなたのもとを去ったわけではなかったのよ!」
私は窓に打ち付けられた冷たい木の板に額を押し付けながら、必死に言葉を紡いだ。
父から聞いた悲しい真実をひとつひとつ彼に伝える。
嫁いでからの彼女の光を失った日々。
心を殺して誰とも口を利かず、ただ窓の外を眺め続けていたという後半生。
そして世継ぎを産むという最後の役目を終えた後、まるで生きる意味を見失ったかのように若くしてその生涯を閉じたこと。
その全てを。
私の涙ながらの語りを聞きながら、アレンは一言も発しなかった。
ただ時折、カシャ、と彼の骨が微かに震える音だけが、彼の内面の激しい動揺を教えてくれる。
彼は信じようとしている。
けれど、長年彼の魂を縛り付けてきた、憎しみという名の呪縛がそれを邪魔している。
言葉だけでは足りない。
私にはそれが痛いほどわかった。
そうだ。
私には証拠がある。
ミランダ様がその命をかけて遺した愛の証が。
私はアレンが現れた時から握っていたミランダ様のブローチを、軽く握りしめる。
「……アレン。言葉だけでは信じられないかもしれない。けれど、これを見ればわかるはず」
私は打ち付けられた窓の隙間を必死で探した。
指先がささくれだった木の感触をなぞる。
あった。
以前アレンが飛び出した時に窓が少し歪んだのだろう。
窓の下にあった、指一本がようやく通るか通らないか、というほどのわずかな隙間。
私はその隙間からブローチをそっと外へ差し出した。
小さな金属が夜の冷たい空気に触れる。
「これを。ミランダ様が亡くなるその日まで肌身離さず、ずっと身につけていたブローチよ。この裏に……あなたへの本当の言葉が刻まれているわ」
「ブローチ、だって?」
窓の外でアレンの気配がゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
ためらいがちに差し伸べられた、彼の骨の指。
その硬く、冷たく、そして乾いた指先が私の指先にそっと触れた。
彼は私の指先からブローチを抜き取ると、再び数歩後ずさったようだった。
そして再び、長い沈黙が訪れた。
彼が、その骨の指先でブローチの裏側をなぞっているのだろう。
ミランダ様が遺した最後の言葉を、一文字ずつ確かめているのだろう。
私は祈るように、ただ彼の次の言葉を待った。
風の音が止み、世界から全ての音が消え失せたかのような錯覚に陥る。
そして、彼は零れるように呟いた。
「……そういえば君には冒険の話ばかりしていて、私たちの日常の話は全然していなかったな。……一度だけ、あったんだ。ある祭りの日に、ミランダが物欲しそうに露店のブローチを見ていて、私がそれを買った時があった。彼女は慌てて遠慮していたけど、私はせっかく買ったんだから付けろと押し付けて……彼女は一生大事にする、と笑っていた」
やがて。
闇の向こうから絞り出すような声が聞こえた。
「……すまない……アレン……。愛して、いる……」
そして次の瞬間、彼の口からほとばしったのは慟哭。
長い年月で積み重なった感情の爆発だった。
「そうだったのか……。そうだったのか、ミランダ……!君は……君は、ずっと……!」
憎悪の厚い氷が砕け散る音。
長い冬の時代が終わりを告げる音。
後悔と悲しみと、そして失われたはずの愛しさが入り混じった叫び。
彼はその場に崩れ落ちたのかもしれない。
カシャシャシャ、と骨の山が一度大きく崩れるような音がした。
その時。
「誰だ! バルコニーにいるのは貴様か!」
鋭い衛兵の声が階下の庭から響き渡った。
松明のパチパチと爆ぜる音と、こちらへ駆け寄ってくる複数の荒々しい足音。
見つかった。
「アレン!」
我に返った彼が素早く身を起こす気配がした。
今回のその動きには以前のようなパニックの色はない。
私を巻き込むわけにはいかない。
そんな冷静な意志が感じられた。
「エリアーナ! 大丈夫か!」
父の心配そうな声も廊下の向こうから聞こえてくる。
もう、時間がない。
アレンがバルコニーの縁に立ったのがわかった。
彼が闇の中へその身を投げる直前。
彼は私に最後の言葉を投げかけた。
その声は苦々しい響きを失い、以前の澄んだ響きを取り戻していた。
「礼を言わせてくれ、エリアーナ。そして私にできる最後の償いをさせてほしい」
彼のその言葉の意味を私はすぐには理解できなかった。
「一週間後の夜! 丘の上にある古い教会へ来て欲しい! そこで私にできる最大の感謝を伝えたい!」
その言葉を言い終えると同時に、彼の気配はバルコニーから消えた。
コツン、と硬いものが下の地面に着地する音。
そしてカシャカシャカシャ、という骨の音が、まるで風のように闇の中へと急速に遠ざかっていく。
後にはバルコニーになだれ込んできた衛兵たちの怒号と混乱。
私の名を呼びながら部屋の扉を叩き続ける父の必死の声。
そして私の胸の中に確かに残された一つの固い約束。
その先に待っているであろう、かすかな、しかし強い光だけが残されていた――。




