アレン
あの日、ブローチに刻まれた言葉に触れてから、私の日々は再びその様相を変えた。
光を失ってから続いた無為な絶望の日々ではない。
そしてアレンの物語に心を慰められていた穏やかな日々とも違う。
それは一つの明確な目的を持った、焦燥と祈りの日々。
アレンに会わなければならない。
この真実を伝えなければならない。
その想いだけが私の世界の全てとなっていた。
屋敷の警備はあの嵐の夜以来、異常なほど厳重になっていた。
夜になると私の部屋の周囲には常に二人の衛兵が見張りとして立つようになる。
彼らの鎧の擦れる音。
退屈そうに槍の石突で床を軽く叩く音。
そして時折交わされる、ひそやかな話し声。
それらが、私と外の世界を隔てる分厚い壁のように感じられた。
私の部屋の窓は二度と開かないように木の板で打ち付けられ、あれから固く閉ざされたままだ。
アレンがこの鉄壁の警戒網を掻い潜り、再び私の前に姿を現すことなど果たして可能なのだろうか。
不安が胸を締め付ける。
夜ごとに私は寝台の中で、眠ったふりをしながら全ての神経を聴覚に集中させた。
幸い私の両目はもとより閉ざされている。
眠ったふりなどお手の物だ。
風の音。
遠くで鳴く夜梟の声。
衛兵たちの単調な足音。
ありふれた夜の音のその向こう側に、あの懐かしくも切ない骨の擦れる音を探し求めて。
けれど、その音が私の耳に届くことはなかった。
一日、また一日と無常に時間だけが過ぎていく。
焦りに押し潰されそうになるたび、私は枕元に隠したあのブローチを強く握りしめる。
ひんやりとした金属の感触。
その裏に刻まれたミランダの小さな、しかし確かな言葉。
それが私の唯一の支えだった。
そして運命の夜は、あの嵐の夜から五日目に訪れた。
その夜は珍しく、月が厚い雲に覆われていた。
いつもよりも深い闇。
屋敷の警備も数日間の何事もなかった日々に、少しだけ油断が生じていたのかもしれない。
衛兵たちの話し声の間隔がいつもより長い。
私はいつものように息を殺し、闇に耳を澄ませていた。
その時。
カシャ……。
幻聴かと思った。
あまりに微かで儚い音。
風がどこかの枯れ葉を揺らした音かもしれない。
けれど、私はその音を聞き逃さなかった。
全身の血が一度凍りつき、そして次の瞬間には沸騰するような熱さを帯びて駆け巡る。
いる。
彼が来ている。
音は窓の外から聞こえてくる。
バルコニーだ。
けれど、彼は窓を開けようとはしない。
無理やり部屋の中に入ってこようとはしない。
ただ、そこにじっと佇んでいる気配だけが、濃密な闇を通して私に伝わってくる。
私は思わず枕元にあるミランダ様のブローチを掴み、握りしめた。
彼もまた迷っているのだろうか。
正体を知られた今、私に拒絶されることを恐れているのだろうか。
その痛いほどの躊躇とミランダ様のブローチが、私に勇気を与えた。
「……アレン、なの?」
私の震える声は自分でも驚くほど小さかった。
けれど、それは静まり返った部屋の中から彼の心の中に確かに届いたようだ。
窓の外で彼の気配がびくり、と揺れる。
長い、とても長い沈黙。
やがて諦めたように、くぐもった声が返ってきた。
「……ああ」
その、たった一言の声は私が知っているアレンの声とは全く違うものとなっていた。
以前のチェロの音色のような、穏やかで温かい声ではない。
そこにあるのは、ささくれだった硬質な苦々しい響き。
自らの正体を知られたことへの後悔と羞恥。
そして私を怖がらせてしまったことへの深い罪悪感。
その全てがたった一言に凝縮されていた。
「……すまなかった。怖がらせるつもりはなかった。君を騙すつもりも……いや、結果として私は、君を騙していたことになるな。もう二度と君の前に姿を現すつもりはなかったのだが……」
彼の声は窓を隔てているせいか、どこか遠い世界から響いてくるように聞こえる。
この窓が冷たい外と暖かい内、彼と私、死と生の境界線のようだ。
彼は窓の外、バルコニーの壁にもたれかかっているのだろうか。
その姿は私には見えない。
ただ、彼の骨だけの体が、夜の冷たい石の壁に寄りかかっている。
そんな孤独な光景だけが瞼の裏に浮かび上がってくるようだ。
「……最後に、どうしても話しておかなければならないことがある。私が何者で、何故この屋敷に現れたのか。それを君に告げる義務が私にはあるだろう。それが終わったら、私は今度こそ完全に君の前から姿を消そう」
そう言って、彼は独白するようにぽつり、ぽつりと語り始めた。
それは絶望と憎悪、そして長い孤独に満ちた彼の魂の遍歴。
「君が知っている通り、私とミランダは相棒だった。私にとって彼女は光そのものだったよ。だがある日……彼女は何の言葉もなく突然私の前から姿を消し、私は必死で彼女の行方を探した」
恐らく、その時に実家から連絡があったのだろう。
ブラッドフォード家に嫁ぐ指示が。
それを知られたくなかったミランダ様は、黙ってアレンの前から姿を消した。
「何年も大陸中を放浪し、あらゆる噂に耳を傾けた。そしてようやく探し当てた時……彼女はブラッドフォード家の奥方になっていた。私ではない別の男の腕に抱かれ、子供まで成していた」
彼の声は淡々としていた。
けれど、その感情を押し殺した平坦な響きの下で、どれほどの激情が渦巻いていることだろうか。
「裏切られた、と思ったんだ。共に見た夢も、交わした誓いも、全てが偽りだったのだと。あの太陽のような笑顔も、私に向けられた信頼の眼差しも、全てが私を嘲笑う芝居だったのだと。その絶望が私の心を蝕んだ。生きる意味を見失ったんだ」
ミランダ様が何も告げず、見知らぬ男に嫁いだ事実は、アレンへの呪いとなってしまった。
「やがてそれは病となり、私はまだ三十にもならない若さで、みすぼらしい宿屋の一室で誰に看取られることもなく一人、静かに息を引き取った」
私は息を呑むことすらできなかった。
ただ、彼のあまりに悲痛な告白を、全身で受け止めることしかできない。
「だが私の魂は安らぎを得られなかった。ミランダへの激情だけが私をこの世に縛り付けたのだ。『なぜだ』『どうしてだ』と問い続ける怨念。それが私の魔術師としての最後の執念と結びついた」
――激情を抱いたまま死んだアレンは、死という安息さえ許されなかった。
「私は死んだのではない。縁者のいない名も無き墓所の冷たい土の中で、私の意識は途絶えることなく続いた。そして、とても長く、気の遠くなるような時間をかけて……私は自らの魔力で朽ち果てた自らの骨を繋ぎ合わせ再びこの世に蘇ったのだ」
彼の壮絶な告白に、私の体は震えが止まらなかった。
それは恐怖からではない。
彼のあまりの一途な想いと、その深すぎる絶望に対する畏れ、そして憐憫の情からだ。
「蘇った私の目的はただ一つ。――復讐だ。何も言わず姿を消し、私を裏切った女ミランダ。彼女はすでにこの世にはいない。ならば、その忌まわしい血を引く者たちに私が味わったのと同じ、いやそれ以上の絶望を与えてやると。そう誓った。そして私はこの屋敷に忍び込んだのだ。ミランダの最後の血族である、君に呪いをかけるために」
彼のその言葉に、ようやく全ての辻褄が合った。
彼が何故私の部屋に現れたのか。
その本当の、理由。
「だが……私はできなかった。君を初めて見た時、月光に照らされた私を見て君は悲鳴をあげるかと思った。あの侍女のように、化け物と罵るかと思った。しかし悲鳴をあげるでもなく、ただ侵入者に怯える君を見て悟ったんだ。君は光を失っているとね」
暗い部屋、寝台の上で深い絶望の闇の中に沈んでいる少女。
両目に包帯を巻かれ、侵入者の姿がわからず怯える少女がそこにいた。
「私は君に憐憫の情を抱いてしまったんだよ。……馬鹿げた感傷だ。憎むべき宿敵の血族に同情するなど。その姿に……かつてミランダに裏切られ、生きる希望を全てを失った私自身の姿を重ねてしまったのかもしれないね。私は復讐者としても失格だな」
彼は自嘲するように、そう呟く。
「それからは私の姿がわからないのを良いことに、君に我々の冒険譚を語った。無聊を慰める、ほんの気まぐれのつもりだったが……誰かに、私たちの冒険を知ってもらいたかったのかもしれないな」
カシャ、と彼が壁にもたれかかる背をずらしたような音がした。
「もう呪いはかけない。このまま静かに去るつもりだ。君の安らかな眠りを妨げることも、もうないだろう。……今まで、すまなかった。そしてさらばだ、エリアーナ」
彼の気配が窓から離れていく。
彼が去ってしまう。
このまま、永遠に。
違う。
違う、そうじゃない!
「待って!」
私はほとんど絶叫するように叫んでいた。
寝台から転がり落ちるようにして床を這い、手探りで窓へと向かう。
打ち付けられた窓の、冷たい木の感触に額を押し付ける。
「行かないで、アレン! あなたは何も知らない! ミランダ様は、あなたを裏切ったりなんかしていない!」
私の必死の叫びがバルコニーに響き渡る。
去りかけていた彼の足音がぴたり、と止まった――。




